18.映画の夜
ソサイエティの溜まり場たるその資材置き場は、淡い灯りに満たされ、ひそやかに息づいていた。静寂は支配的であるものの、空気の微かな震えが、そこに人の存在を柔らかく匂わせる。七海はロードバイクを引きずり込むように足を踏み入れ、ソファに横たわりスマホを眺める一つの人影を見つけた。
休日の深夜、大学の敷地内にあって、この人物はひっそりと生活を営んでいる。やはり、ここに住み着いているという噂は真実だったのだ。
「お邪魔します。東海さん……」
七海は、声を潜めて馬淵東海に告げた。
「どうしたん? 休みの日に?」
視線をスマホから動かすことなく、東海は問いかける。液晶の青白い光が、彼の顔に虚像と影のプロジェクションを無言で描き出していた。
「なんとなく……です」
七海の言葉は、自分自身にも響くことなく宙に浮いた。なぜこの場所に引き寄せられたのか、その理由は曖昧な霧の中だった。誰かと、何かを語りたかったのかもしれない。今日、フードデリバリーの仕事で一万円を超えた報酬を手にした自慢。あるいは、風を切り、街を疾走するロードバイクの爽快感。言葉にする内容は、何でもよかった。
ただ、おそらくは、今までとは違う自分になりつつあること。それを成長と呼ぶのかはわからなかったが、その変化を誰かに報告し、拙い言葉を的確に汲み取ってもらうことで、七海の中にある混沌とした感情を、整理された一本の描線へと導いてほしかった。
そんな七海の複雑な心模様を知ってか知らずか、東海は唐突に提案した。
「映画、観る?」
テーブルから持ち上げられたDVDのパッケージには、『タクシードライバー』と記されている。そのデザインは、またしても古めかしい匂いを放っていた。きっと、映像研究会のライブラリから無断で拝借してきたのだろう。七海は、さして興味もなかったにもかかわらず、「はい……」と頷き、いつもの破れたパイプ椅子に身を沈めた。
字幕付きの映画に慣れない七海の意識は、物語の筋を辿れずにいた。日中の疲れが、集中力を削いでいたのかもしれない。それでも、画面に映し出される、タクシーが走る退廃的で広大な外国の街並みに、ある種の楽しさを感じていた。
ふと東海に目をやると、彼は缶ビールの蓋を開け、横になったままぼんやりとモニターを眺めている。この映画を選んだのは、七海への深いメッセージが込められているのではないか、と深読みを試みるが、散々走り回った身体は疲労を訴えていた。一度腰を下ろしてしまったからだろうか、気力が尻からパイプ椅子を伝って、地面に吸い取られていくような気怠さが七海を襲った。
やがて、東海が立ち上がり、「なんか飲む?」と尋ねた。小さな冷蔵庫から、新しい缶ビールを取り出している。
「コーラ、ありますか?」
「あるよ……」
手渡されたのは、大手メーカーのものではない、スーパーで安く売られている外国製のコーラだった。
「ありがとうございます……」
七海は礼を述べ、プルトップを引いた。一口飲むと、気の抜けた炭酸と歯が軋むほどの甘ったるさが口に広がる。その廉価な味わいが、このアメリカ映画のレトロな雰囲気に妙に似合っている気がした。
途中で、東海は七海にソファに座るよう勧めた。彼は三つの荷箱を並べ、その上にマットを敷いたお手製のベッドに横たわっている。七海はソファにもたれかかり、ぼんやりと流れる映像を眺め続けた。美しい女優が現れ、ナイフで人が刺され、拳銃で撃ち殺される。案外、見応えのある映画だった。
どうしようもない気怠さと眠気が、七海の全身を包み込む。ついに、彼女は東海に問いかけた。
「すみません……。ここに、泊まっていっていいですか?」
「別にいいけど……。変な誤解されるかもよ?」
問い返された七海の視線の先では、先ほどまで暴力的なシーンが映し出されていたモニターに、今は登場人物二人の穏やかな会話が流れていた。
「誤解ってなんですか?」
「こんな場所で、男と女が二人っきりで寝泊まりしてたら、そりゃあ誤解もされるし、からかってくる奴もいるだろ」
それは七海にも容易に想像できた。しかし、なぜか彼女は、唐突に心に浮かんだ言葉を口にしてしまう。
「東海さんて、戸川さんとお付き合いしてるんですか?」
なぜそんなことを聞いたのか、自分でもわからなかった。おそらく、疲れのせいだ。そして、この眠気のせいだ……。そう七海は思った。
東海の答えは、「いや……」と簡潔だった。
「彼女、いたことあります?」
不思議な質問を重ねてしまった。
「あるよ……。全員、うまくいかなかったけど……」
その言葉は、まるで他人事のように冷淡に響いた。「うまくいかなかった」とは? これ以上深く踏み込むことは、ひどく億劫なことだと七海は悟った。
それでも、七海の思考と疑問は乱反射を続け、この場所と、馬淵東海の生活環境の中にいる自分にとっての切実な問いへと帰結していく。
「東海さん。ここに住んでて、お風呂どうしてるんですか?」
「裏門から出た所に、コインランドリーがあって、そこにコインシャワーがある」
そんなものが存在するのかと、田舎育ちの七海は微かに驚いた。眠気は限界に達していた。
「面白そう……ですね……。私も、行ってみたい、です……」
「……変な奴だな……」
微睡みの淵で聞こえたその言葉は、七海にとってようやく手に入れた、自分の称号のように感じられた。変な奴……。ここに集う、変な人々にそう呼ばれた私は、大したものだ。そう思いながら、液晶モニターに流れゆくエンドロールとともに、七海の意識は静かに沈んでいった。