17.風はやがて
七海は、ソサイエティの仲間から譲り受けた服を身にまとい、日々の学校生活を送るようになっていた。
登下校の際には、黒いキャップを深く被る。その布地の陰に髪を隠すだけで、朝、鏡の前で櫛を入れたりドライヤーの熱を浴びたりする煩わしさから解放される。小さな怠惰は、むしろ都会的な効率の身振りのようで、七海は密かにそれを気に入っていた。
母がかつて買い与えた、いかにも田舎娘めいた花柄の服を脱ぎ捨てたことも、彼女の心を軽くした。校舎の窓に映る自分は、まるで他人のように洗練されて見える。仄かな違和感と共に、鏡像の少女が「これが本当の自分だ」と囁きかける。
通学路や、思い立って街を無意味に走り抜けるうちに、ロードバイクの操作にも指先と足が馴染んできた。風が頬を裂くとき、七海はその速度のなかに一瞬の存在証明を見いだす。
ある祝日、彼女は再びフードデリバリーの仕事にエントリーすることを決めた。槇村が「もう少し北の街道沿いは広々として走りやすいっすよ」と助言してくれたからだ。スマートフォンをハンドルのホルダーに固定し、ジャケットのポケットには黒いモバイルバッテリーを押し込み、デリバリーバッグの底には馬淵東海に薦められたワークマン製の雨合羽を忍ばせた。天気予報は晴れ、それでも用心深さが彼女を支えていた。
車の多い道を避け、幅広の車道の端を躊躇なく走る。舗道を緩やかに漂う人々を追い越すとき、七海の胸には言いようのない昂揚が生まれる。キックボードの青年、ママチャリの女子高生――彼らを置き去りにする瞬間、日常の重力から切り離される。
やがて踏切を越え、視界の先にホームセンターが現れた。周囲には牛丼チェーンの赤い看板や、回転寿司の青白い看板が陽の光を受けている。
七海はスマホのアプリを開き、画面にゆらめく地図を眺めながらオーダーを待った。
午前十一時半。昼の喧騒が街を膨らませる時刻。彼女はドラッグストア裏の薄暗がりで見よう見まねのストレッチを始めた。筋肉の伸びが正しいのかどうかも分からない。身体と都市の空気とがぎこちなく擦れ合う。
やがてスマホが震え、最初の注文が届く。七海はキャップの上からヘルメットを被り、顎紐を固く締める。向かう先は、聞いたことのないインドカレー店。ホームセンターの反対側にあり、駐車場を横切れば一分足らずで辿り着いた。
浅黒い肌の店員がカウンターに立っていた。見慣れぬ国の気配に七海は一瞬たじろぐ。しかし、店員は意外にも柔らかな笑みを浮かべ、「オネガイシマス」と片言で商品を手渡した。七海は自らの警戒心に小さな罪悪感を覚え、思わず声を張って「お預かりします!」と返した。その響きが、わずかに場を温める。
配達先は遠くなかった。ロードバイクのタイヤが舗道を切り裂き、街の空気は濃く薄く流れていく。
その日、夕方までに彼女は一万三千円を稼ぎ出した。走ろうと思えばまだ走れた。しかし東海の忠告――「無理をせず、長く続けられるように」――が頭に残っていた。自分はあくまで学生なのだ。明日の授業に疲労を持ち越すべきではない。七海はそう言い聞かせた。
だが、真っ直ぐ家に帰るには、心がどこか物足りない。充実を抱えたはずの身体に、奇妙な空洞が生まれていた。今日の稼ぎを誰かに誇りたい。走り抜けた快感を誰かに告げたい。そんな幼い欲望が胸を掻き立てる。
無意識のうちにハンドルは学校の方向を向いていた。休日の校舎に、ソサイエティの仲間が誰かいるだろうか。分からない。ただ、きっと誰かは待っている――そう思えてならなかった。
夕焼けが街を朱に沈める。頬に光を受けながら、七海は自分が微かに笑んでいることに初めて気づいた。その笑みは、誰に向けられたものなのか。自分自身でさえ、答えを持たなかった。




