16.何者かに
資材置き場の扉を押し開くと、そこは奇妙な祝祭の場と化していた。段ボール箱は口を開け、膨れ上がったバックパックからは色とりどりの布地が溢れ出し、まるで小さなフリーマーケットの喧騒が閉じ込められたかのようだ。
七海は、それが自分を歓迎するための催しだと一瞬錯覚したが、すぐにその思い違いに気づく。それぞれが勝手気ままに、見慣れない品々を交換し合っているのだ。女子生徒たちの楽しげな声が耳朶を打つ。
「えっ? そのジャケット、可愛くね?」
無造作に広げられたコーデュロイのジャケットを指し、一人が目を輝かせた。
「あー、これね? うん、なんか色が合わせづらいっていうかさぁ。買ったんだけど一度も着なかったんだぁ。欲しい?」
もう一人が気だるげに答える。その声には、手放すことへの未練よりも、新たな刺激への期待が滲んでいる。
「欲しい。今度、サイゼ奢るから。それで、いい?」
「オッケー。桶丸水産!」
意味不明な言葉の響きが、少女たちの無邪気な連帯感を際立たせる。七海は、その輪の中に踏み込むことを躊躇った。
「あっ! 七海ちゃん! これこれ! これ着てみて!」
戸川の声が、乾いた資材置き場の空気を切り裂く。手渡されたのは、ハーフパンツとジャケットの上下セット。七海の記憶では、もともと、ハーフパンツのお下がり、だけのはずだった。首を傾げる七海に、戸川はにやりと笑う。
「下だけじゃねぇ……。やっぱ、コーデが大事だからさぁ」
その言葉の真意を測りかね、七海はただ戸惑うばかりだった。広げられた服は、幅広なハーフパンツと、あえて大きめを選んだようなデニムジャケット。それは、これまでの七海の日常にはなかった色彩とシルエットを纏っていた。
「あと、これプレゼントっす! ソサイエティのメンバーである証っすよ!」
槇村が、ビニールに包まれた真新しいTシャツを差し出す。その言葉に、七海は「こんなものまでは……」と遠慮しようとした。しかし、その声は馬淵東海の声にかき消される。
「うわっ、出たそれ。シュプリームのパクリ!」
嫌悪感を露わにする馬淵に、槇村は臆することなく応じた。
「シュプリームそのものが、オマージュ的な、サンプリング的な、ストリートカルチャーの文化的系譜にあるので、それはそれでセーフっす!」
七海には、その応酬の意味するところが理解できなかった。ただ、手にしたTシャツの真っ白な胸元に、赤いボックスの中に白抜きで「Society」と描かれたロゴは、どこかで見た記憶があった。既成の概念を軽々と飛び越える彼らの自由さに、七海は眩暈にも似た感覚を覚える。
「ほらほら! 着てみて!」
戸川に背中を押され、七海は女子トイレの個室に身を隠した。与えられた服を纏う。粗野な生地が肌に触れる。鏡に映る自分は、これまでの七海とはまるで違う。垢抜けている、と表現するべきか。あるいは、少し不良じみている、と。未知の自分がそこにいた。
資材置き場に戻ると、皆の視線が一斉に七海に注がれる。
「おー! なんか、スケボーやってそう」
槇村が感嘆の声を漏らす。その言葉に、戸川がすかさず姿見を用意した。そこに映し出されたのは、まぎれもなく七海自身でありながら、同時に別人のような姿だった。都会の風を纏い、路地の匂いを纏う。この変貌に、七海は密かに興奮を覚えた。
「じゃあ、これも似合うと思うな」
見知らぬ男子生徒が、黒いキャップを差し出す。
「えっ? それ、ニューエラ?」
馬淵東海の問いに、男子生徒は悪びれる様子もなく答えた。
「いえ、ニセモノですよ。無印のに、それっぽいシール貼っただけです」
ツバに貼られた金色の丸いステッカーが、その言葉を裏付ける。七海は言われるがままに、そのキャップを被った。
「おおー! ストリート!」
「いる! こういう子いる!」
「写メ撮っていい?」
何故か皆が沸き立つ。七海は、まるで人形のように、彼らの要求に応え続けた。
資材置き場とトイレを何度も行き来し、その度に異なる服を纏う。それはまるで、自分自身がランウェイを歩くファッションショーのようだ。
階段でたむろしていた男子生徒たちが、不思議そうに七海の姿を見つめている。
「チャリと一緒に撮影しましょうよ!」
誰かの提案に、場はさらに熱を帯びる。
「おー! いいねぇ! 絶対に似合う! 裏手の銀杏並木行こうぜ!」
七海は、ロードバイクと共に外へ引っ張り出された。銀杏並木の木漏れ日の下、ロードバイクを支えながらポーズをとり、あるいは並木道を颯爽と駆け抜ける姿を動画に収められた。
「へぇ! 七海さん、かなり乗るの上手くなったすねぇ!」
槇村の驚きの声に、七海はかすかに頬を緩めた。皆が撮ってくれた写真や動画をその場で見せてもらうと、そこに映し出されたのは、もはや自分ではない、雑誌のページから抜け出してきたかのようなモデルの姿だった。並木道を折り返す一瞬を捉えた写真には、静止画でありながら躍動感が宿っている。彼らが「アートを学ぶ先輩」であることの意味を、七海はこの時、深く理解した。
抱えきれないほどのプレゼントは、少しずつソサイエティの溜まり場から、七海の自室へと運ばれていく。
夜、布団に潜り込んでも、胸のざわつきは収まらない。眠りを諦め、七海はゆっくりと身を起こした。もう一度、自分ではない自分になりたい。その衝動に突き動かされるように、戸川から貰ったジャケットとハーフパンツ、槇村から貰ったTシャツ、そして名も知らぬ男子生徒から貰ったキャップを身に着ける。窓に映る自分の姿を見つめる。それは、紛れもなく自分自身でありながら、初めて、何者かになれたような感覚だった。
たまらず、七海は外へ出た。空には、完璧な円を描く月が静かに浮かんでいる。ロードバイクを引き出し、あてもなく夜の街へ漕ぎ出した。ペダルを漕ぐごとに、新たな自分が生まれていくような気がした。




