15.真夜中の疾走
深夜の帳が下りた自室で、七海はキャンバスにメデュウムを塗りたくっていた。それは無心になるための儀式。だが、今夜は雑念が募り、色彩は混沌として、輪郭を失っていた。馴染まないペインティングナイフの角が、細い指先に微かな痛みを残す。
ふと、スマートフォンを手に取る。気分転換に動画でも観ようかと思うが、心惹かれるものはない。馬淵東海が「ぼんやりするために映画を観る」と言っていたのを思い出す。しかし、この部屋にプレイヤーはなく、動画配信サービスにも加入していない。
いつもの癖で、スマホに文字を打ち込む。
"私、なにがしたいのか、わかんないや"
すぐに画面が光る。
(なるようになる! なんたってナナミとミリィは水星人だからね!)
いつもの、勢いだけが込められた文章。
七海は立ち上がり、冷蔵庫を開けた。紙パックの緑茶、マヨネーズ、マーガリン。その簡素な中身に、自らの内面の貧しさが映し出されているようで、ふと悲しみが込み上げる。
時計は深夜零時を過ぎていた。ユニクロのパーカーを羽織り、吸い寄せられるように外へ。ロードバイクを引き出した。
夜の街は、昼間の喧騒とはまるで違う顔を見せる。人影もまばらで、車も少ない。日中よりも遥かに自由に、風を切って走れる気がした。冷たく、それでいてわずかに湿った夜風が心地よい。時折、轟音を響かせ追い抜いていくトラックも、不思議と距離を取り、七海を避けていく。
ギアを一段重くする。目的地などない。ただ、川を過ぎ、公園を過ぎ、線路の下をくぐる方面へ。街道の下り坂を滑るように加速していく。
頭上を過ぎゆく電車の明かりを見上げる。深夜にもかかわらず、ぎっしりと人が押し込まれている。こんな時間まで働き、今から家路につく人々。それに引き換え、今の自分は、まったく別の世界線を風となって駆け抜けているような感覚に囚われた。
歩道に目をやれば、酔いに任せて千鳥足のサラリーマン。キャリーバッグを引きながら、神経質そうにスマートフォンを睨む派手な女性。彼らが、まるで自由を奪われた哀れな存在に見えた。
今、七海は途方もない自由を感じていた。ペダルを踏み込むたびに、息が上がる。さらにギアを一段上げると、顔に当たる風は強さを増し、七海の耳元を流れ去っていく。すべてを追い越し、まったく異なる次元を生きられる、そんな意識が芽生える。
しばらく走り、跨線橋を渡った先にあるコンビニエンスストアに滑り込む。ロードバイクにスタンドはない。壁に立てかけ、そのまま壁にもたれて座り込み、息を整えた。じわりと汗をかいていることに、今さら気づく。楽しかった。ひたすらに、楽しかったのだ。まるで、別の世界を駆け抜けてきたかのように。
しばらく休んでから、コンビニの中へ。
「いらっしゃいませぇ」
煙草を補充している店員が、七海を見ずに告げる。ペットボトルの水を買おうと思った。だが、この安価なものだけをレジに持っていくことに、妙な気恥ずかしさを覚えた。
隣を見ると、酒のコーナー。ソサイエティの先輩たちは、いつも酒盛りをしている。七海はまだ未成年。いつか、彼らに交じってお酒を飲む日が来るのだろうか、と漠然と想像した。
結局、水とチョコレートとグミを買った。特に欲しかったわけではないが、あればいつか食べるだろう、と思った。レジに持っていくと、店員が尋ねる。
「ポイントカードお持ちですか?」
「何にもないです……」
五百円玉をトレーに載せて答えた。
ロードバイクの場所に戻り、再び座り込む。深夜にコンビニ前で座り込むなど、不良のようだ。しかし、この東京では、誰も気にも留めないようだった。たまに、ちらりと七海を見る気配を感じるが、ただそれだけだ。
水を一口飲む。先ほど自分が放った言葉が蘇る。
「何にもないです……か……」
それは、まるで自分自身のステートメントのように響いた。親に買ってもらった服。母親が振り込んでくれた生活費で買った水。そして、先輩から譲り受けたロードバイク。
まさに、自分は何にもない。人から与えられたものだけで生きている。このどうしようもない虚無感が、どうしようもない恐怖へと変わる気配がした。七海はグミとチョコレートをポケットに詰め込み、再び夜の街を走り出した。




