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クラゲが還る水星の岸辺に  作者: ヤマザキゴウ


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14/22

14.スピードと汚れ

 七海は、ロードバイクをとりあえず通学に使って、徐々に慣れてみたらいい、という槇村の提案を受け入れることにした。それは、彼女の生活に、これまでになかった微かな起伏をもたらす予感だった。

 新しい相棒を引き出した初日、空は抜けるような青さだった。予報では雨の気配もない。昨日、校舎内で練習した甲斐あってか、わりとすんなりと漕ぎ出すことができた。しかし、慣れないことばかりだ。サドルの高さがもたらす、足がすぐに地面につかない恐怖心は、まだ拭えなかった。ママチャリに比べてずっと細いタイヤは、路面の僅かな段差や小石に対しても、細心の注意を払うことを七海に強いる。そして、最も七海を戸惑わせたのは、ダブルレバーと呼ばれるフレームに取付けられた変速機だった。それを操作する際には、片手をハンドルから離さなければならない。一瞬の気の緩みが、大きな事故に繋がりかねないような、綱渡りのような緊張感。

 しかし、車も歩行者も少ない川沿いの道で、ギアを重くし、一度思いっきりペダルを踏み込んでみた時、信じられないほどの速度が七海を包み込んだ。風を切る音が、七海の耳の奥で轟く。それは、まるで鳥になったかのような、一瞬の自由と興奮だった。


 学校に着くと、七海はそのロードバイクを駐輪場ではなく、ソサイエティの溜まり場へと引き入れた。盗難の心配があったからだ。それは、彼女がこの自転車を、単なる移動手段としてではなく、何か特別なものとして捉え始めていることの証でもあった。

 授業を受け、昼休みには学食でカレーライスに昨日スーパーで買っておいたカニクリームコロッケをトッピングして食べた。その日常のささやかな営みが、ロードバイクという非日常的な存在によって、どこか新鮮なものに感じられた。


 夕方、ソサイエティの溜まり場に向かうと、槇村が七海のロードバイクのチェーンに、丁寧にグリスを差していた。その手つきは、まるで自分の作品を慈しむかのように優しかった。


「あっ、七海さん。おつかれーっす」


 槇村の声に、七海は少し居心地の悪さを感じた。彼は、なぜここまでしてくれるのだろう。その好意が、七海の心に重くのしかかる。


「はい。あのう、……それ、本当にありがとうございます。あの、それで、やっぱりいくらかお支払いしたいんですけど……」


 七海は、せめてもの気持ちを込めて、そう提案した。しかし、槇村は手をひらひらとさせて、その言葉を遮った。


「いや、いいっすいいっす! 出世払いで!」


 出世払い。七海は、自分なんかが、出世できるのだろうか? と、胸の奥で密かに不安になった。この薄暗い部屋で、何者でもない自分。その現実が、七海を再び縛り付ける。


「でも……、その……。まだやっぱり乗り方がよくわからなくて……」


 七海は、相談と慰めを求めるように、そう呟いた。


「そりゃあ、単純に慣れっすね。あとは、街ゆくロードバイク乗ってる人とか、観察してみるのも大事かもっすね!」


 と、槇村はあくまで明るく答える。七海は、とりあえず「じゃあ、もう少し、乗ってみます」と答えるしかなかった。その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。


「あっ、でも。その、ズボンはマズイかもっすね?」


 槇村の言葉に、七海は首を傾げた。


「えっ? なんでですか?」


 槇村は、七海の足元を指さした。


「その、裾の所」


 七海が視線を下に向けると、自分の右足の内側が、黒い油で汚れていることに気がついた。


「えっ? うわっ、えっ? なんで?」


 七海は、思わず声を上げた。その汚れは、まるで七海の不器用さや、この世界に対する不慣れさを象徴しているかのようだった。


「まあ、こういうチャリの宿命っすね。チェーンとスプロケットが触って、そういうふうに汚れちゃうんすよ。右だけ捲るか、短い丈のズボンを履くかしないとっすね」。


 いよいよ、面倒な乗り物なのだなぁと、七海はまたげんなりしてきた。これに乗るためには、ズボンまで新調しなければならない。つまり、またお金がかかる。その事実に、七海の心は再び重くなった。新しい可能性の光は、またしても現実の壁にぶつかる。

 その時、戸川が優しい声で七海に提案した。


「私のお下がりでよければ、ハーフパンツあげようか?」


 戸川の言葉は、七海の心のささくれだった部分を、そっと撫でるようだった。すると、他のソサイエティのメンバーも、次々に声を上げてきた。


「えっ? 七海ちゃん。服欲しいの? 私も処分したい服とかいっぱいあるから、持ってこようか?」


 と、なぜかよくわからないお節介を提案してくる人までいた。


「あー。じゃあ、ヘルメットいります? スケボー用なんですけど、もう使わないので……」


 と、名も知らぬ男子生徒も言い出した。その光景は、まるで七海が、彼らの間に、いつの間にか溶け込んでいるかのようだった。


「そんじゃあ、明日は、フリマっていうか、交換会みたいなのやるか?」


 馬渕東海のその一言に、七海は驚きを隠せない。どうしてそうなるのか? なぜ、彼らは七海のために、そこまでしてくれるのだろう? 七海は、ただただ疑問でいっぱいだった。しかし、その疑問の奥には、確かに、彼らの無遠慮な優しさによって、温かくなっていく七海の心が隠されていた。

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