13.おぼつかないペダル
翌日、七海は大学の裏手に広がる銀杏並木の遊歩道に呼び出された。まだ若葉の青さが目に眩しい木々が、微かな風に揺れる。どうやら、ここで「いいモノ」が貰えるらしい。ソサイエティの面々も、すでにそこに集まっていた。彼らの纏う自由な空気が、七海の緊張をわずかに和らげる。
「はいはーい! お待たせ! これが七海さんの新たな相棒っすよー!」
槇村が、誇らしげに押してきたのは、ドロップハンドルの、いわゆるロードレーサーと呼ばれる自転車だった。細身のフレームは、まるで研ぎ澄まされた刃のように鋭利な印象を与え、見るからに速そうだ。七海は戸惑った。こんな高級そうなものを、自分が貰っていいのだろうか? 少し昔、ロードバイクのアニメが流行っていたのを思い出す。中学時代の同級生の一部が、それに熱中していた気がする。彼らにとっては、憧れの対象だったに違いない。
「あの、これ。私が貰ってもいいんですか?」
七海の問いに、槇村は快活に答えた。
「毎年、卒業生が駐輪場に打ち捨てていっちゃうんですよ。それを学生課が廃品回収に回してるから、僕が引き取ってるんす!」
そういうこともあるのか、と七海は思った。都会の大学ならではの、奇妙な循環。すると、馬渕東海が、いたずらっぽくネタバラシをした。
「槇村は、実家がチャリ屋だそうだ。そういうチャリをバラしてパーツにして、ヤフオクとかに出して小遣い稼ぎしてんだよ」。
その言葉に、槇村は照れくさそうに笑った。
「まあ、とにかく、ちょっと乗ってみましょ! 七海さんて、身長何センチすか?」
「百六十二です」
「あっ、やっぱり。意外に高いっすよね?」
そう言われた。七海は、よく言われることだ、と思った。猫背で、いつも自信なさげに過ごしている七海は、実際よりも小さく見られることが多い。その言葉は、七海の自己認識と、他者からの視線との乖離を、改めて突きつけた。
「何か問題ありますか?」
「いや。むしろ、ちょうど良いっすよ! このブリヂストンのレイダックはサイズ49なんで、シートポスト調整すれば良い感じっす!」
槇村は、手際よく工具を取り出して、シートの高さを調整し始めた。七海は、なんとなくその車体を眺めた。ドロップハンドル、白いフレームに紫色のグラデーションが施されている。まるで、夜明けの空を切り取ったような色彩。なんだか、オシャレな自転車にも見えてきた。その直線的で細身のフォルムは、七海のママチャリとは全く異なる、洗練された美しさを放っていた。
「ちょっと乗ってみましょ!」
槇村に促されて、七海は恐る恐るそれに乗ってみる。しかし、
「えっ! えっ! あの、これ足が届かないんですけど!」
七海の悲鳴のような声が、銀杏並木に響いた。両足が宙に浮き、不安定な車体の上で、七海はまるでバランスを失った鳥のようだった。
「ああ、乗り方がママチャリとは違うんですよ! 走っている時以外は、トップチューブに跨って下さい。走りはじめたら、シートに乗って下さい」
なんだか、面倒な自転車だなぁ、と七海は思った。こんなにも複雑な乗り物を、本当に自分なんかが乗りこなせるのだろうか? もう諦めてしまいたい。そんな弱気が、七海の胸に湧き上がってくる。
「それに、このペダルについてる、このベルト? これ、なんか邪魔なんですけど?」
七海は、ペダルに付いた金具に通された革ベルトを指差した。それは、七海の足元を縛り付けるかのように見えた。
「ああ。そのトゥクリップってのは、慣れれば便利っす。引き足が使えるようになるので、上り坂とか加速したい時に力をかけられます」
「えっ、でも。どうやって……」
七海は、ペダルに足が固定されてしまうことに、言いようのない恐怖を感じた。それ以前に、どうやってこれにつま先を通せばいいのか、全く見当がつかない。
「くるりっ! と半回転させて、……そうですねぇ。例えるなら、玄関で足元を見ずに、スリッパを履く時の感覚っすね!」
槇村のその例えに、七海は、なんだ、その例えは? と不思議に思った。しかし、言われた通りに試してみると、二回目で奇跡的に成功した。トゥクリップに足が収まった瞬間、七海の心に微かな達成感が生まれた。
七海は、ヨロヨロと走り出してみた。ソサイエティの皆が大笑いしながら、その後を追ってくる。中にはスマートフォンで動画を撮影している者もいる。しかし、七海はそれどころではない。
「あ、あの……。ブレーキは? ブレーキは?!」
七海は半ばパニックに陥っていた。ドロップハンドルのどこを握ればブレーキが効くのか、全くわからない。風が七海の頬を撫で、心臓が激しく脈打つ。
「落ち着いて! 落ち着いて! 転びそうになったら支えるから!」
馬渕東海が、七海の横を走りながら、落ち着いた声で声をかけてくる。その声は、七海の混乱した心に、わずかな安心をもたらした。
「一回ゆっくり、止まりましょう! ハンドルの握り方が違うっす! トウミさん! ゆっくり支えて下さい!」
槇村の指示が飛ぶ。なんだか、幼い子供に自転車の乗り方を教える大人たち、みたいなイベントと化している。七海は息も絶え絶えで、こんなに大変な思いをしてまで、別にロードレーサーに乗れなくたっていいのだけど、と思ったが、その言葉は、喉の奥に引っかかったまま、どうしても言えなかった。彼らの期待と、自身の不甲斐なさとの間で、七海はただ必死に転ばないように、ペダルを漕ぎ続けた。銀杏の葉が、七海の視界の端で、眩しく揺れていた。




