12.ソサイエティ会議
月曜日。七海は、いつものようにソサイエティの溜まり場にいた。毛羽立ったソファの隅に蹲り、特に何かをするでもなく、ただそこに集まる人々がそれぞれの時間を自由に過ごす様子をぼんやりと眺めていた。薄暗い部屋の片隅で、馬渕東海はスマートフォンの画面に真剣な表情で何かを打ち込んでいる。その指の動きは、まるで彼自身の思考の奔流をなぞるかのようだった。槇村は、エレキギターの弦を丁寧に交換している。その指先は、繊細な職人のそれのように見えた。戸川先輩は、他の女子学生と、アートとは全く関係のない、学校の裏手に来るキッチンカーのカレーパンが「バカみたいに美味しい」という、どうでもいいような、しかしどこか楽しげな話に花を咲かせていた。それぞれの営みが、この空間に独特の秩序と混沌を生み出している。
「そういえば、七海さん。フードデリの仕事、どうだったんすか?」
槇村が、ペグをクルクルと巻きながら、何気ない口調で尋ねてきた。七海は、その問いに、あまり答えたくないような、重い気持ちが胸の奥から湧き上がってくるのを感じた。昨日の出来事が、まるで泥のように七海の心にへばりついていた。躊躇いながらも、七海は重い口を開いた。
「正直、最悪でした。……もう、バカみたいで。みんな、ホントにバカなんですよ……」
つい口を突いて出たのは、七海らしくない、荒々しい汚い言葉だった。その言葉は、七海自身の内側に溜め込まれていた、言いようのない憤りや絶望を、一気に吐き出すかのようだった。ふと、七海は、この場にいる全員が、ぴたりと動きを止め、自分を見ていることに気がついた。思いのほか、大きな声が出てしまっていただろうか、と不安になる。彼らの視線が、七海の全身に突き刺さるような気がした。
「よっしゃ! なんか、面白そうだから、話聞かせてくれよ」
馬渕東海は、大きな背伸びをしながら立ち上がり、小さな冷蔵庫から発泡酒を取り出した。その動作は、まるでこれから始まる物語の序章を告げるかのようだった。
「おっし! ソサイエティ会議だぁ」
と、名も知らぬ男子生徒も、ウイスキーの小瓶を取り出し、グラスに注ぎ始めた。
「あっ! いえ、あの、そのぅ……」
七海は、なんだか自分の一言で、ここにいる全員を動かしてしまったことに、言いようのない恥ずかしさを感じた。そこまでしなくていいのに、と。彼らの行動は、七海の予想を遥かに超えていた。
皆が七海を囲み、真剣な表情で話を聞いてくれた。七海は、どんな酷い人たちが街にいたか、どんな理不尽な目に遭ったか、そして、夜の雨の中、パンクした自転車を押し続ける孤独を、感情的になりながら、身振り手振りを交えて説明した。言葉は時に詰まり、支離滅裂になることもあったが、彼らは七海の言葉の奥にある感情を、まるで掬い取るかのように受け止めてくれた。
話し終えると、「なるほどなぁ……」と、馬渕東海が天井を見上げて呟いた。その声には、深い納得と、どこか諦めにも似た響きがあった。他のメンバーも、口々に議論を始めた。
「確かに、タクシーって急に訳わかんない動きする時あるよねぇ」
「客拾うのに必死だから、そうなるんだよ! むしろ、周りの状況見ずにタクシー拾う客もどうかと思うけど」
「っていうか、同番地なんて、あっていいの? それ間違いなく役所の怠慢じゃん」
彼らは、七海の個人的な体験を、まるで自分たちの問題であるかのように、熱心に議論し始めたのだ。
七海は、少し恥ずかしくも、なんだか胸が温かくなっていく気がした。
なるほど。こりゃあ良い。
この場所、ここに集まる人々の魅力が、少しだけわかってきた気がした。皆、何かに憤っていて、何かに真剣に向き合おうとしている。社会なのか、権威なのか、それとも人々の理解なのか、何かに必死で抗う者たちなのだ。もしかしたら、これこそがアートの本質なのでは?
七海は、ぼんやりと、そんなことを思った。彼らの怒りや不満は、決してネガティブなだけではなく、何かを突き動かす原動力になっているようだった。
「つまり! 七海さんは、ナメられてんすよ!」
槇村が、突然、七海の核心を突くような言葉を言い放った。その言葉は、七海の胸に、鋭い矢のように突き刺さった。
「ナメられてる?!」
七海は、思わず聞き返した。
「そう! ママチャリなんてダメっす! もっと、速いのに乗って。自己主張を持って前に前に出るような運転した方が良いっすよ!」
「なんでそうなるんだよぉ」
と、馬渕東海は呆れながら尋ねた。
「いや、自分、ピザ屋の配達やってたんすけど! ジャイロって原付バイクに乗って届けるんすけど。その時、他の車両に気を使って走ってると、何故か逆に危ない目に合うんすよ! だから、堂々と、俺は譲らないぞ! って姿勢で走ってると、嫌な目には遭いにくくなるんす!本当です! 経験則です!」
槇村は、胸を張って答えた。その言葉には、彼自身の経験に裏打ちされた、確かな自信が漲っていた。
「で、どうするんだ? お前が七海にバイクでも買ってやるのか?」
馬渕東海の問いに、槇村はニヤリと笑った。
「買ってあげるのは無理っす! だけど、いいモノを提供できますよ!」
槇村の自信満々な言葉に、七海は、何を貰えるんだろう? と、少しワクワクしてしまった。その浅ましい自分の感情に気づき、七海は自嘲した。もしかしたら、ここにいる人たちの図々しさに、少しだけ感化され始めているのかもしれない。七海の心に、これまでになかった、微かな変化の兆しが芽生えていた。




