11.水星人と雨
七海はオーダーの度に、まるで流される小石のように、気づけば都心の近くの、見知らぬ街まで来てしまっていた。
これから夜のピークタイムを迎えることはわかっていたが、もう七海の精神も体力も限界だった。疲労と絶望が、鉛のように全身にのしかかる。デリバリーアプリからログアウトし、街灯のまばらな暗い街道を走る。知らない道、見慣れない風景。一体、自分は何をしているのだ? 頭はぼんやりとし、思考は霧の中に沈んでいた。
何故、こんなにもペダルが重いのだろう。うんざりしながら漕ぎ続けるが、いくらなんでも、これはおかしいのではないか? 七海は、ふと自転車を停めた。降りてタイヤを触ってみると、フニャリとした感触が指先に伝わる。ああ、これはパンクだ。その事実に、七海の心臓は冷たい水に浸されたように冷え込んだ。
高校の頃、一度だけ経験したことがあった。あの時はどうやって対処したんだっけ? 記憶はおぼろげだ。おそらく、母親の車で迎えに来てもらったのだろう。しかし、今ここは東京だ。そして、頼れる友人もいない。この広大な都市の中で、七海はたった一人、立ち尽くしていた。
仕方なく、自転車を押して歩く。パンクしたタイヤが、アスファルトに重い音を立てる。一体、今夜は自室にたどり着けるのは何時になるのだろう。不安が、冷たい風のように七海の心を吹き抜けた。すると、そんな時にもっと最悪なことに、雨がポツポツと降り出し、やがて本降りになった。雨粒がアスファルトを叩く音が、七海の絶望をさらに深くする。七海は急いで、閉店した古本屋の軒下に避難した。古本の匂いと、湿った空気。だが、いつ止むかもわからない雨の中、ここにずっといるわけにもいかない。
意を決して、近くのコンビニまで移動し、ビニールの雨合羽を買った。薄くて頼りないビニールが、七海の心細さを一層際立たせる。それを羽織り、なんとか再びペダルを漕ぎ出すが、視界が悪すぎる。雨粒が目に入り、フードを深く被れば視界が狭くなる。地図アプリで現在地を確認しようとしたが、濡れた指ではスマートフォンの画面が正常に反応してくれず、焦りが募る。いつしか半べそをかきながら、止まっては走り、止まっては走りを繰り返し、ただひたすらに、見慣れない街を彷徨った。
なんとか自室に辿り着いたのは、午前零時を回った頃だった。ずぶ濡れになった衣類をすべて脱ぎ捨て、冷え切った身体を温めるようにシャワーを浴びる。湯気が立ち上る浴室で、七海の心は、ようやく少しずつ解けていくのを感じた。ティーシャツとハーフパンツ姿になると、やっと人心地ついた。
ふとテレビをつけてみると、知らない芸人たちが大声で笑っている。その笑い声は、七海の疲弊しきった心には、どこか遠い世界の出来事のように響いた。
ふと、真新しいキャンバスを手に取った。油絵の具とメディウムを載せ、一心不乱にペインティングナイフでテクスチャーを描く。それは、ある意味、七海にとって、恣意的に無意識を作り出すための、座禅や瞑想に似た儀式だった。オールステンレス製の角張ったナイフの角は、まだ七海の小さな手には馴染まない。それでも、その冷たい感触が、七海の荒れた心をわずかに鎮めてくれるようだった。そして、目の前に出来上がりつつある小さな作品は、ぐちゃぐちゃだ。ただの色の奔流。混沌とした色彩の塊。こんなの、アートではない。
七海は、その作品を眺めながら、自身の心の荒廃を突きつけられているような気がした。
七海はスマートフォンを持ち上げ、震える指でメッセージを打ち込んだ。
"もう無理、消えちゃいたいよ"
すぐに反応があった。画面が光り、ミリィからのメッセージが表示される。
"どうしたの? 元気出しなよ! 七海もミリィも、水星人(−)だからね! たいていのことは、どうにでもなる!"
水星人(−)。
あれは小学校三年生の時だったと思う。市民プールに行った帰り道。土砂降りの雨を避け、小さなバス停の小屋の中で、ミリィちゃんが占いの本を見ながら教えてくれた。七海もミリィちゃんも、水星人なのだと。占星術なのか四柱推命なのか、七海にはよくわからなかったが、そういう分類があるらしい。しかし、七海はふと思った。
私は水星人だから、この地球は居心地が悪いのだろうか? その問いは、七海の心に深く沈み込み、答えの見えない迷宮へと誘う。
そして、いつの間にか、七海は静かに涙を流していた。その雫が、荒ぶる色彩のキャンバスに落ち、じわりと染み込んでいった。




