10.街
日曜日の朝、七海はアパートの自室で、まるで嵐の前の静けさのようなソワソワとした心地でスマートフォンの画面を見つめていた。これから、人生で初めての「仕事」を体験する。高校ではアルバイトが厳しく禁止されており、同級生の幾人かは、巧妙に隠しながら何かしらの労働に手を染めていた節があったが、七海は違った。これが正真正銘、生まれて初めての、汗と引き換えに金銭を得るという行為だった。
先週の焼肉屋で偶然目にしたフードデリバリーの配達員。その姿に興味を惹かれ、すぐにスマートフォンで調べ、配達員としての登録予約をした。数日後には都心のオフィスへと足を運び、広く明るい一室で、簡潔な説明と数枚の書類に目を通した。要は、安全に、そして法律を守って働いてほしい、という事務的な内容だった。インボイスがどうのという説明は、七海には難解で、後ほどソサイエティの誰かに尋ねてみようと心に留めた。配達用の大きなバッグを受け取った時、そのずっしりとした重みが、これから始まる未知の労働の重みを象徴しているかのようだった。
そして本日、いよいよフードデリバリーとしての初稼働の日を迎えた。
中学生時代から乗り慣れた愛車のママチャリは、一応という名目で上京の際に引っ越しトラックに積み込んでもらったものだ。まさか、このような形で東京の街を駆け巡ることになろうとは、七海は夢にも思わなかった。動きやすく、それでいて少しばかりの「お洒落」も意識したジャージ姿は、ドン・キホーテで買ったものだ。労働のための必要経費だと思えば、普段は固く閉ざしている財布の紐も、わずかに緩んだ。改めて持ち物を確認する。財布、モバイルバッテリー、タオル、水筒。その光景は、まるで小学生の頃の遠足を思い起こさせ、七海の胸に微かな懐かしさと、それから言いようのない不安を呼び起こした。
午前十一時。YouTubeでフードデリバリー配送員の動画を見て知った「ピークタイム」という言葉が、七海の頭の中を巡る。
昼時、そして夕方、深夜手前。考えてみれば当然のことだ。人が腹を満たしたくなる時間帯。七海は愛車のママチャリに跨り、飲食店が密集するエリアを目指した。天気はやや曇り。空は鉛色を帯び、今にも雨が降り出しそうな気配が漂っていた。
ずっと田舎道を走ってきた七海にとって、東京の街を自転車で走るのは、なんだか新鮮だった。日曜日なだけあって、歩道には様々な人々が闊歩している。手を取り合うカップル、ゆっくりと歩く老夫婦、賑やかな学生たち。そして、七海と同じフードデリバリーのバッグを背負った配達員も、ちらほらと視界に入った。彼らの姿は、七海に、この巨大な都市の片隅で、自分もまた歯車の一つとして動き出すのだという、奇妙な連帯感と、同時に、埋没していくような不安を与えた。
マクドナルドとドン・キホーテの間の歩道で、七海はドキドキしながら配達用アプリの稼働開始ボタンを押した。スマートフォンの画面に映し出されるのは、七海が今いる場所を示す点と、見慣れない街の地図。その地図は、七海のこれからを暗示するかのように、複雑な線で構成されていた。
一分も経たないうちに、アプリがオーダーを告げる。七海は震える指でボタンを押し、そのオーダーを受けた。近くの牛丼チェーン店。七海は、槇村から借りた自転車用のホルダーにスマートフォンを固定した。ハンドルに固定された画面を注視しながらの運転は、非常に危なっかしいものだった。歩行者にぶつかりそうになったり、歩道のわずかな段差にタイヤを取られたり。牛丼屋に着く頃には、なんだかもう疲れてしまっていた。
店内に入り番号を伝えると、少し待たされた。ビニール袋を店員から受け取り、「お預かりします」と言ってペコリと頭を下げる。その言葉は、七海の口から、まるで借り物のように滑り落ちた。
配達開始のボタンを押すと、届け先までのルートが画面に表示される。ペダルを漕ぐ。今度は慎重に、スマートフォンを注視しすぎないように、歩道を走る。駅の近くになると、田舎とは比べ物にならないほど歩道は人で溢れていた。学生らしき集団が歩道いっぱいに広がって歩いている姿を見て、七海は辟易した。彼らはまるで、七海の存在など眼中にないかのように、無邪気に笑いながら歩いている。七海は、ヨタヨタと人を避けながら、必死にペダルを漕いだ。
やっとのことで届け先のマンションにたどり着き、部屋番号を何度も確認し、玄関前に「置き配」をした。本当にこれで大丈夫なのだろうか、と少し心配になる。田舎で生まれ育った七海にとっては、馴染みのない、未知のシステムだ。顔の見えない相手に、ただ荷物を置いて去るという行為は、どこか空虚で、不安を掻き立てるものだった。
マンションを出て、近くのセブンイレブンの駐車場で一休みする。水筒の麦茶が、乾いた喉を潤した。すると、すぐに次のオーダーが入った。稼げるのはいいのかもしれないが、こんなにも大変なのか、と、七海の心には少し複雑な気持ちが生まれた。
ピックアップ先を見れば、稼働を開始した場所のすぐそこにあったマクドナルドだった。あの道をまた引き返すのか、と少しうんざりしながらも、七海は再びペダルを漕ぎ出した。
またも歩道の人々を避けながら進む。ふと気づくと、車道をフードデリバリーの大きなバッグを担いだ電動自転車に乗った配達員が、スーッと走り去っていくのが見えた。ああ、そうか。車道を走っていいのか。七海は、その時になってようやくその事実に気がついた。思い切って車道を走る。確かに、この方が快適かもしれない。そう思った矢先だった。
しばらく走ると、少し先に手を振っている人がいる。知り合いだろうか? いや、金髪で派手な服装をしている。ホストのような若い男。七海にあんな知り合いがいるはずがない。
その時、七海のすぐ右側を黒いタクシーが猛スピードで掠め、七海の眼前で急停車した。七海は反射的に思いっきり急ブレーキをかけた。タイヤがアスファルトを擦る音が、耳に突き刺さる。
なんなのだ? なんなのだ?! こんなことをしていいのか?! 私が見えなかったのか?!
七海は、半ばパニックのような気持ちだ。心臓が激しく脈打ち、手足が震える。すると、ホストの男がタクシーに乗り込み、運転手も七海をまったく気にすることなく、そのまま去っていった。このような理不尽を生まれて初めて経験し、七海の胸にはふつふつと怒りが湧いてきた。それは、これまで感じたことのない、生々しい感情だった。気を取り直し、七海は再びペダルを漕ぎ出す。
七海は、その後もなんとか数件のデリバリーをこなした。しかし、その短い時間の中で、幾度となく危険な思いや、やりきれない目に遭った。
路上駐車をしている車のドアが七海の目の前で突然開かれる。スポーツタイプの自転車に乗った若者に、邪魔だとばかりに追い抜かれる。果ては、電動キックボードに乗った若者が七海を追い越す際に、「チッ」と舌打ちしたのが聞こえた。その舌打ちは、まるで七海の存在そのものを否定するかのようだった。七海は、自分の心が荒んでいくのがわかった。もう辞めてしまおう。そんなことまで考えてしまった。
もうこれで今日は終わりにしよう。そう思った届け先に着くも、スマートフォンの画面に表示されるアパートが見当たらない。スマートフォンの地図を見ても、この場所で間違いないはずなのだが。もう一度住所を確認する。(新町5-3-6)ここで間違いないはずだが、目の前には「五十嵐」という表札の家と、その隣には消防団の倉庫があるだけだ。「スカイハイツ」というアパートなど、どこにも見当たらない。こういう時は、お客様に電話をかけるべきだと聞いた気がするが、七海の指は、電話番号を押すことを躊躇した。すると、そこに軽バンに乗った郵便配達員がやってきた。
「あのー。お忙しいところ、すみません」
七海は、藁にもすがる思いで声をかけた。
「はい?」
郵便配達員は、七海の大きなバッグを見て、事情を察したようだった。
「あのー、この辺に、スカイハイツという建物はありますか?」
人の良さそうな郵便のお兄さんは、七海の問いに、すぐに答えてくれた。
「あー。ここ、同番地なんですよ。この道じゃなくて、裏手の路地の奥にありますよ。わかりづらいですよね、ここ」
「同番地?」
七海は、その言葉の意味を理解できなかった。
「同じ住所に、いくつも家と建物が建ってるんです」
と、郵便配達員は丁寧に教えてくれた。そんなことがあって良いのか? 七海は思った。住所というのは、一戸につき一つが割り当てられるべきではないのか?
なんだか、この世の不条理と、行政の怠慢を目の当たりにした気がした。
東京という街は、七海の想像を遥かに超える、複雑で、そして時に理不尽な顔を見せるのだった。




