1.世界
あれは、いつだったか。
七海がまだ、世界が曖昧な輪郭しか持たない幼子だった頃。
地元の百貨店の催事場で開かれていた、小さな催し物だった。薄暗い展示スペースの中央に、いくつもの水槽が神秘的な光を放っていた。その一つ、クラゲの水槽の前で、七海は立ち止まった。
水槽のガラス越しに、ゆらゆらと揺蕩う無数の小さな命。青白いライトに照らされ、半透明の体は幽かに輝いていた。それは、まるで星屑が地上に舞い降りたかのようにも見えたし、或いは、深い海の底で蠢く魂のようにも思えた。
母は「きれいだねぇ!」と感嘆の声を漏らしたけれど、七海の胸には、言いようのない寒気が押し寄せた。
同じ形、同じ大きさ。一つとして個性を持たないかのように、それらは等しくそこに存在していた。まるで、精密な機械で作られた工業製品のように画一化された生命体が、人間の視覚を愉しませるという、ただそれだけの役割を与えられ、この小さなアクアリウムの中に閉じ込められている。
その光景は、七海の幼い心に、ある既視感を呼び起こした。
街ゆく人々もまた、皆等しく、色を帯びていないように見えた。朝のラッシュアワー、駅へと急ぐ群衆は、皆同じような表情で、同じような足取りで、それぞれの仕事へと向かっていく。
彼らもまた、クラゲと同じように、社会という名の大きな水槽の中で、与えられた役割を全うするために生きているのではないか。
では、生命とは、なんのために存在するのだろう。
皆、同じ形をして、そして、いずれは死んでいく。生殖の果てに遺伝子を残すことしかできない、おおよそ知性を持たないような生命体と、人間との間に、一体どれほどの違いがあるというのだろう。
多分、生命とは、運び屋なのだ。何かを、どこかへ運ぶ。その道程こそが、時間。誰もが永遠には生きられない。だからこそ、次の世代へ、次の世代へと、何かを残そうとする。神が創りたもうた、とでもいうべきその途方もないシステムに、自分は参加できないかもしれないという漠然とした予感。幼心に芽生えた、この茫漠とした命のアルゴリズムに対する恐怖心は、七海の心臓を締め付けた。皆、同じ。そして、皆、死んでいく。
生存戦略と、ほんのわずかな運。その二つに恵まれた個体だけが、何かを後世に伝えるメッセンジャーになれる。生き残った者だけが、その役割を許される。それは、あまりにも残酷で、あまりにも資本主義的な神秘だった。
七海はまだ、その途方もない人生の恐怖心を、明確な言葉として紡ぎ出すほどの知性を持っていなかった。
しかし、生と死の手触りとして、その冷たい現実を肌で感じ取っていた。
抗いがたい衝動に駆られ、七海は思わず、母のワンピースの背中をぎゅっと握りしめた。その背中に身を隠すようにして、クラゲたちから目を逸らした。あの冷たく、無機質な輝きを、もう見たくなかった。七海の幼い胸に、初めて、世界の不条理が刻み込まれた瞬間だった。