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ここ丘砦から北西を見るに

 

・ ・ ・ ・ ・



 朝日が昇る。


 薄墨が水中にたなびくような空を裂いて、ほの赤い曙光が徐々に曠野あらのへ落ち、その緑色を呼び覚ましていく。


 だいぶ遅くなりつつある一日の始まりに、カヘルの息が白くけぶった。


 なだらかな丘砦ラースの頂上に吹き抜ける風は、もはや寒風。先行するファイーが公用馬から下りる。女性文官は革手袋をはめた両手を、カヘルに向かって差しのべた。


 それが一瞬、抱擁の要請にみえてカヘルは夢見心地になる。……無理やり意識を引き戻した。



「大丈夫ですか。かなり持ち重りがしますが」


「ええ」



 カヘルが軍馬の鞍の後ろから下ろした布包みを、ファイーは受け取って両腕に抱く。


 そのまま、光の広がりつつある空を女性文官は見上げた。二人は無言で立ち尽くす。


 カヘルは黄土色外套の頭巾下から、真っ直ぐファイーを見つめていた。


 切り詰め髪をぱらぱらと風に泳がせ、女性文官は双眸を宙に向けていたが――やがてその青い視線が、カヘルに着地する。



「連れて行きましょう。カヘル侯」



 鼻の下まで高く立てた騎士作業衣の襟内側、さらに首布を巻いた中からくぐもった声でファイーが言う。



「ここではなく、デリアドへ。それが最善なのだと、本官はいま確信しました」


「私もそう思います」



 再び布包みを鞍にくくりつけて、カヘルは軍馬の手綱たづなを引き始める。


 ファイーも黒ぶち公用馬の手綱を引いた。どちらともなく、騎乗しないままに歩き続ける。



「不思議な事件でしたね。ファイー侯」


「はい。……カヘル侯、どこまで詳細を陛下に話されるつもりですか?」


「昨日の晩、シウラーン侯たちと……それからノクラーハ若侯夫人に話したところまでです」


「そうですか。≪王の石≫の真の機能については?」


「正直、悩んでいます」



 カヘルの声が通常より低く、冷やっこくなる。


 ≪声音こわねの魔術師≫ディンジー・ダフィルの言葉を参考にして、カヘルとファイーはひとつの解釈にたどり着いていた。


 数千年前、謎の先人がこの地にのこした≪運命の石≫こと≪王の石≫は、真の王を祝福して歌うものではなかった。触れた人間の願望や希求の想いに反応して、それを鼓舞する機能を有していたのである。


 少年時のマエル・ナ・ノクラーハは≪石の歌≫を聞き、ダーフィの王としての正当性の保証と信じた。しかし本当のところ、石はマエルを励ましていたのである。彼が王子にむけて抱いていた、思慕の念に共鳴して。


 同じことは、三百年前にも起こっていた。


 黎明期のデリアド王に、初代ノクラーハ侯の妹は恋をしていた。だからこそ王とともに石に触れた彼女は、大音響の≪歌≫を聞いたのである。


 その歌を聞いたのは、彼女だけだったのだろう。しかし兄の初代ノクラーハ侯は、これを王にまつわる奇跡とした。願いを成就させて王妃となり、王と共に去っていった妹にはなむけたのかもしれない。


 いずれにせよ、後世イリー人の行った石の解釈は、正しいものではなかったのだ。



「ダーフィ陛下がこれを知って、果たしてどう思われるか。皆目かいもく見当がつきません」



 ノクラーハ若侯が感じた石への憎しみは、あながち的外れでもなかったようにカヘルは思う。マエル・ナ・ノクラーハは石によって遠巻きながら自身に縛り付けられ、人生の可能性を限られた……とダーフィ王は思うかもしれない。そのことで老王は気に病まないだろうか。



――いち地方文官として王家に誠心を捧げた騎士人生、とすれば美談になるだろうか? しかし……。



 ひとの心の機微は、怜悧なる思考をもつデリアド副騎士団長にとっても深遠な謎である。おそらく答え、正解というものはない。



「私に調査を依頼した時。王はマエル・ナ・ノクラーハを、旧友・・としていました。一臣下としてではなく大切な友人として、長年やりとりを続けていたのだと想像できます。そういう存在を、自分のせいで不幸に至らしめたと嘆かれるかもしれない」


「カヘル侯。ご自分がノクラーハ老侯にどう想われていたのか、ダーフィ陛下はご存知であったと思いますか?」



 低く問うてきたファイーに、カヘルは頭を振る。



「どうなのでしょう」



 小さな間のあと、ファイーはごく穏やかに言った。



「陛下はすべて、わかっていらっしゃると思いますよ」


「……」


「だからと言って現王室や、妃殿下へのご信頼が揺るぐものではありません。ただ陛下は、マエル・ナ・ノクラーハの想いも全部受け止めてわかり切った上で、大切な友人としていたのだと。本官はそう推測します」


「ファイー侯……」


「カヘル侯は気づかれませんでしたか? 調査の初めに資料として手渡された、ノクラーハ老侯から陛下への書簡写しに」


「あの写しが、何か?」


「ごく目立たないように複写されていましたが、ところどころに王族専用・黒羽硬筆によるはね・・の特徴が見受けられました。あれはダーフィ陛下が、ご自身で複写されたものです」



 カヘルは薄く口を開けた。驚愕である……そして全く見抜けなかった、硬筆のはね・・とはいかに!? イリーお習字一級の側近ローディアはわかっていたのだろうか、といぶかしむ。



「恐らく原本を、近衛など第三者の目に触れさせたくなかったのでしょうね。誰が読んでも支障のないよう親密な箇所はとことん省いて、丘砦ラース関連の部分だけを抜き出して書いてありましたし」



 不可解のどん底に沈みゆく感覚に、カヘルは溺れかけている。



「……親密な箇所があったと、なぜわかるのです。ファイー侯」


「本官も女性ですので。憧憬する男性への想いがこもった文には、つい勘がはたらいて察知してしまいます。陛下がひとつだけ見落とした表現がありましたので、それでわかりました。まあ見落としたと言うより、誰にもわかるまいとふんで残されたのでしょうが」


「……ありましたか? そんな表現が」


「ええ。【丘砦ラースから北西をみるに】という位置表現が七回、繰り返されていました」



 デリアド副騎士団長はどん底を突き抜け、もはや不可解の泥炭層にはまりこんだ気がした。丘砦ラースから北西をみるに……どの辺がどう親密なのであろうか。


 小首をかしげるしかないカヘルに、横を歩くファイーが青い目を細める。今まで見たことのない、優しいまなざしだった。



丘砦ラース北側の泉だとか、南側の城壁あと、などと位置情報の言及は他にもたくさんありました。ただどうしてなのだか、ノクラーハ老侯はどの書簡でも必ず一度、北西を見て何やかや……と書いているのですね。丘砦ラースからまっすぐ北西にある、デリアド首邑と城を見るべく、です」



 カヘルは先ほどよりもさらに大きく(と言っても、副団長の場合ごく薄くだが)口を開けた。



「ここ丘砦ラースから、僕はいつも北西にいる君を想っているよ。暗にそう言いたかったのではないか、と」



 深読みしすぎなのでは……と思いかけて、カヘルは口をつぐむ。


 ダーフィ王もそうだろうが、マエル・ナ・ノクラーハ老侯自身ですら、これがザイーヴ・ニ・ファイーの目に触れるとは予想できなかったはずだ。頭の中に全デリアド領の地図が入っている、女性文官の目に。



「何と言う慧眼けいがん。……かないませんね、 ……」



――ザイーヴさんには。



 さりげなく言おうとして、……やはりカヘルは口にできなかった。


 ファイーの個人名を呼びたい、とずっと思っている。けれど呼んでしまったその瞬間に、叡智の女性文官との間に途方もない亀裂が生じてしまうのでは、とおそれる不安が頭を離れない。



「……貴女あなたには」



 しかたなくカヘルが言い添えた言葉のおわりに、冷えびえとした寂しさがくっついた。


 凍える厳しさで敵に眼光を飛ばすはずのその双眸にも、青さがそのまんま悲しい微笑になって映り込んでいる。そういう珍しいカヘルを、ファイーは穏やかに見返す。



「ザイーヴ、でいいですよ?」



 軽く言われたそのひとことの意味が瞬時わからず、茫然として――そしてカヘルは猛然と我に返った!



「良いのですか」


「ええ。わたしの巨石への思い入れを、ここまで理解してつき合ってくださるカヘル侯です。いつまでもファイー侯と四角く呼んでいただくのも、何だか気がとがめますから。どうぞお気軽に、ザイーヴと呼んでください」



 ごくごく自然に、そうはっきりと言ったファイーの顔を、カヘルは信じられない思いで見つめた。


 びしびしとも、ぴしぴしとも、圧の入っていないその表情……!



――ザイーヴさんは、私に気を許しているッッ!



 女性文官の背後に広がる空は、いまや明けきってばら色にあたたかい。その大空に会心の満塁打を放てた感覚が、カヘルの胸にあふれた。



「それではザイーヴさん」



 さっそく言ってみる声が、相変わらず冷えひえ淡々である。


 少しは熱も込めてみないか、キリアン・ナ・カヘル??



「ザイーヴさん。私のこともぜひ個人名にて」



 嬉々として(※内心でだ。見かけ上はもちろん冷々淡々態度である)副団長が言った言葉に、ファイーはちょっとだけ眉を下げた。



「それはできないのです。申し訳ないのですが」



――何故ッッッ。



 満塁打だったはずが急転直下の反則ふあうる判定! おお我らがイリー守護神・黒羽の女神よ! あわれなるデリアド副騎士団長を守りたまへ、やっぱり嫌われているのであろうか!?


 ところが女性文官は、唇を噛んで目を泳がせた。この人なりの照れ笑いなのかもしれない。



「……実は、一緒に住んでいる下の方の子も【キリアン】なので……」



 ばちばちばちばち。超高速にて、カヘルは両眼をしばたたかせた。



「そのう……。上の子が、カヘル侯の信奉者・・・でして。生まれる時に、弟ならば何がなんでもキリアンと名付けてくれ、と……。今では兄弟そろって、棍棒をぶんぶん回して遊んでいるんです」



 ファイーは、いまや誰が見てもはっきり照れ笑いの表情を浮かべて、隣をゆく固まりきったデリアド副騎士団長に言った。



「そのうち時間がありましたら、食事をご一緒にどうでしょうか。息子たちが泣いて喜びます」



 数々の強敵を、自前の戦棍で粉砕してきたカヘルであったが……。彼はこの日初めて、自分自身の脳みそが歓喜と言う名のいぼいぼ鉄球で粉々にくだかれる感覚を経験した。


 丘砦ラースを下りきって、平らかな曠野あらのを歩いていることにも気づかない。


 今日と言うこの日が、永遠に緑の野に在ればいいとカヘルは思っていた。男と女の吐く息は、白かった……しかしそれは淡い橙金色の陽光に照らされて、温かい。





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