今こそ本当の話をしよう
・ ・ ・ ・ ・
音をたてずにゆらりと立ちあがって、その男は窓のそばに寄った。
ひょろりと細長い背を力なく丸め、首もがくりと落として、男は手中の書類に見入っている。
男のあまりの影の儚さは、薄明に融けいる精霊や幽鬼のたぐいに近かった。それでも彼は、いまだ生きている。男はれっきとした人間だった。
と、と、とん。
扉の叩かれる音に、ぎくりと振り返る。男は手にしていた筆記布を、机上の木箱の中にすべり込ませた。
「――どうぞ」
モイローホ町役場・地上階の片隅。そこにある書簡庫に入ってきたデリアド副騎士団長カヘルと女性文官を見て、文官騎士オーネイ・ナ・ノクラーハ若侯は息を飲んだ。
「ノクラーハ若侯。勤務中に申し訳ありませんが、大事な話があります」
書類と、それらを入れた木箱が折り重なって積まれている机を間にして、カヘルとノクラーハ若侯は向かい合った。閉めた扉口を護る形で、ファイーがその前に立つ。
「≪王の石≫が見つかりました」
「!!!」
「そして、王命どおりに破壊がなされました」
オーネイ・ナ・ノクラーハは、何かを言いかけた。しかし乾ききった彼の喉からは、何の声も出てこない。カヘルは淡々と話し続ける。
「石を横領しようとしていた者は逃亡したので、これより秘密裡に指名手配をします。しかし石の悪用阻止という主要目的が達成されたため、≪王の石≫紛失事件はこれにて解決となりました」
「さよう、ですか……」
ようやく、かすれ声がノクラーハ若侯の口から漏れ出た。
「そして、ノクラーハ若侯。貴侯には所有地に遺された丘砦、および家伝の古文献を保持してゆくという重要な使命があります。貴侯を不敬罪にて捕縛・糾弾し、その使命遂行から離脱させることは、故マエル・ナ・ノクラーハ老侯……お父上の意に反している、と私は感じるのですが。どう思いますか?」
平らかに、淡々と告げるカヘルを見つめて、ノクラーハ若侯は青白い顔をさらに白くさせていった。
「ノクラーハ若侯。ベアルサと名乗るあの不穏な男に、≪王の石≫の話を伝えてしまったのは、一体どういう理由があったのですか?」
つめたく刺さるカヘルの青い眼光に、うらなり文官は耐えきれなかった。がくりとうなだれ、両手で顔を覆う。薄い肩が震えた。
「話して下さい、ノクラーハ若侯。どうか」
低い声が、カヘルの背後から響く。有無を言わせぬ、びしりと芯の通ったファイーの言葉だった。
「……私は、≪王の石≫を売ってはおりません。ベアルサという名の方も存じません」
やがて顔から手を離すと、文官騎士は悲しみと疲労に満ちた顔でカヘルを見た。
「そして、父から≪王の石≫を奪うつもりもありませんでした。……ただ、父の大切にしてきたものが多くの人びとにも知られ、認められればいいと。そう思っただけなのです」
はじまりは、夏に来た一通の便りであったと言う。
イリー都市国家群の中央部、ガーティンローにある大手書店の名をかたる人物が、ノクラーハ所有地にある≪石≫の調査をしたい、と書いてよこした。しかし通信布を一瞥するなり、マエル・ナ・ノクラーハ老侯は眉根を寄せて首を振る。
≪おかしいよ、何の脈絡もなく石の調査だなんて。歴史叢書編纂のため、なんて書いてるけど……これ、史書家ふうの筆致でもないし。何を企んでいるのだか知らないけれど、どうも僕らをかつごうとしているんじゃないかね?≫
正式な学術調査をするのなら、まず石のある丘砦の調査をさせてくれ、と頼んでくるのが筋ではないか。それをすっ飛ばして、いきなり石を調べたいというのは変だ……と老侯は言った。
何かのはずみに、石の歌の伝承が怪談奇談のような形で市井に出回ったか。それにつられた好事家あたりではないのか、と老侯は推測し、その話はおしまいになった。
あやしい便りは捨て置くように、口外もしないようにと父に言われたものの、ノクラーハ若侯は気になって仕方がない。埋もれていた家内の遺跡と史料とが、世の明るみに出て脚光を浴びるよい機会になるかもしれないのに……。時々思い出しては、そんな風に残念がっていたのである。
だからモイローホの町役場へ記者たちが訪ねてきた時、思わず話してしまったのだ。古文献に記されていた、≪王の石≫の伝承を。
今考えて見れば、おかしな記者たちだった。語り口の柔らかな壮年イリー人男性の二人組は上質な麻衣を着て、なるほどガーティンローの人にみえた。しかし歴史書の編纂を目的にしているという割には、年代のことも聞かず周辺地層の話も出ない。ひたすら、≪王の石≫がどのように機能するものなのかを突き詰めて質問してきた。
「彼らが帰ったあと、私の中からは興奮が過ぎ去っていって……。そして父に背いたことに気づき、罪悪感にかられました。だから父にも妻にも、このことは言わなかったのです」
しかしマエル・ナ・ノクラーハ老侯は、その頃からいつにも増して、足繁く丘砦を見回るようになったのだと言う。
若侯は、もしや父は自分のしでかしたことに気づいたのだろうか、と思って心配になる。それでも老侯が息子をこの件で質したり、咎めることはなかった。
平穏のうちに夏が過ぎ、金月が過ぎて嵐月になった。不審な自称・記者たちからの音信は途絶えており、うまく興味を失ってくれたのだと若侯は安心していたのだ。
忘れ切った頃に、 ……老侯が丘砦の上で死んだ。
父の身体を丘から下ろす際、≪王の石≫がなくなっていることに気づいてはいたが、若侯は恐慌を抑えつけて見ぬふりをした。
しかし通夜の晩おそく、父の遺言に従って棺に入れるものをまとめていた時、若侯はふと気づく。
旧友ダーフィ王から送られた便りの束のその内側に、特別かたく巻かれた太い筆記布が抱きこまれているのを。
不思議に思ってひらいてみて、……そして読んでしまったことを、若侯は後悔した。
「――文官になる前、十代だった頃の父が創った詩が……。そこにびっしりと、書き込まれていたのです」
≪丘の上の、僕の王さまへ≫
全ての詩篇は、その呼びかけで始まっていた。――呼びかけて呼びかけて、決して届くことのない想いの数々。世界に唯ひとりの読者にあてて作られた、……しかし受け取られることのない作品群だった。
それで若侯は、すべて理解したのだと言う。
「カヘル侯。私がマエル・ナ・ノクラーハの遠縁にあたる者で、養子であることはもうご存知ですよね?」
「ええ」
「父は生涯を通して独身でした。心の臓の病もちで妻帯できない、跡継ぎの子を成せない。私を養子に迎えたのもごく自然なことと、私も周囲もみな納得していました。けれど、……本当の理由は違っていたのでないか、と思えたのです」
いまや、ノクラーハ若侯の声は消え入りそうなほどに低くなっていたが――それでも彼は、振り絞るようにして続けた。
「王への想いを持って生きた父を、おかしいとか嫌だとは、まったく思わないのです。ただ……ひたすら父が、あわれでなりませんでした。父にとって≪王の石≫は、ダーフィ陛下の正当性を示す大切なものでした。しかしどうやっても王とともに在れなかった父を、その全人生を王とのよすがに縛り付けて放さなかった、あの石を。私は憎み、許すことができなくなりました」
オーネイ・ナ・ノクラーハ若侯は顔を伏せた――ぽたり。机上の布書類に、しみが滲む。
「消えてしまって、……なくなってくれて良かった、と。私はそう思っております」
カヘルの背後で、ファイーが音もなく顔を伏せていた。