二 光差す①
街は雅ながらも賑やかしい。
選んだ道は大通りでもありながら、市場。人は隙間を縫うように上手く歩いて、それでも人同士でぶつかる事はなく人の流れが続く。
慣れない街並みを眺めて歩こうものなら方角すら見失いそうな。だからなのか、前を行く天擂が何度と背後を歩く睡蓮の姿を確認していた。
「不思議な匂いね」
「香辛料だろ」
そう言って、天擂は一つの屋台を指差す。先程見た街並みの如く、赤赤とした様々な種類の唐辛子が山のように積まれている。その隣の店でも、赤くはないが花椒や桂皮、八角と……様々な香りを放つ香辛料が混じり合って、睡蓮の鼻腔を惑わした。
物珍しそうに赤く染まった店を覗き込んだ睡蓮に、天擂は「齧ってみるか?」と悪戯に笑いながら言った。
「これが辛いのぐらいは知ってるのよ」
「そうだったか」
冗談を軽く口にする天擂はただ楽しそうだった。
何を見るのも真新しい。睡蓮は降る坂の先まで続く市場に目移りしながら、天擂が背後にまわっている事にも気付かずに歩き続けた。
◇
街は山肌を削って創られた。当然ながら基本的に道は坂か階段である。曲がりくねった道が多く、平坦な道は僅か。
山頂とも言える明月城から市場の端まで。そこから寺院や廟を廻って、漸く茶館まで辿り着いた次第。睡蓮は以前に汕枝が体力が要ると言っていた事を痛感しながら、茶館の前に用意された縁台に腰を下ろした。
店頭で売っている胡餅(※焼いた肉饅のようなもの)を手にしながら、睡蓮は「明日は足が棒になってるかも」と言って空いた手で脚を摩る。
「城まで戻る事を考えると……まあ、そうなるかもな」
天擂は吹き出しながら同じく手に持っていた胡餅に豪快に齧りつく。中にはしっかりと甘辛く味付けされて葱と大蒜と生姜の風味がついた肉餡。蒸した包子とは違い、皮が香ばしい。そこへ姿を現した肉饅の大蒜と生姜、花椒が際立って、睡蓮の食欲を刺激した。
睡蓮も一旦脚を摩るのを止めて、小さな口で頬張る。皇都で食すものよりも、花椒が強い。舌がピリリと痺れ、その度に睡蓮は茶ではなく水を口に含んだ。
「はは、辛かったか」
そんな睡蓮の姿を見てか、天擂は愉快そうに目を細めて笑った。
長く伸びた髪は表情を隠してしまう為、近くで見なければ無頼漢さながら。しかし、今隣に座る睡蓮には、清々しくも優しい男が瞳に映る。
今までも何度と見る機会があった筈の表情は新鮮で、意味を見出そうと妙に意識をしてしまう。そうやってじっと見つめていると、天擂と目が合う。視線から逃れるように睡蓮は思わず目を逸らしてしまった。
「どうしたよ」
「……何でもないです」
汕枝との会話で僅かに疼いた胸の底。それが、意識させているようで、更には意識する度に疼きは少しづつ大きくなっていくようで。
――秋雪様に感じるものとは、また違う……
睡蓮は胡餅を喰みながら、昨晩の記憶を掘り起こす。明確な差異を言葉では言い表せない。しかし今思い悩んでも答えが見えてこない事は明白だ。
睡蓮は汕枝の『今日を楽しみなさい』という言葉を思い出して、考える事をやめてしまった。目線を上げて縁台から見える街並みへと目を向ける。
赤い都は何処までも明媚な姿。時には敷かれた石畳まで赤く染まっている。鼻を掠めるのは、何も香辛料だけじゃない。茶館の奥からは、芳しい茶の匂いが続いて、飲茶を楽しみ客で賑わっている。
睡蓮の手の中には未だ暖かい胡餅だ。
何もかもが初めての事ばかりで、感情だけでなく身体中の指先一つまで刺激されているような。世界が鮮明になったような気がした。
そうまるで、生きている事を実感したその時のように。
睡蓮は隣を見やる。既に天擂の手には何もなく、茶杯を傾けながらも、その目は睡蓮を映していた。しかし言葉はなく、静かに頬を緩めてふっと笑うと視線を逸らして睡蓮を倣うように都を眺めた。
――誰かが隣にいた事を意識した事もなかった
――私は今まで、何も見ようともしなかったんだ……
◆◇◆◇◆
八つの鐘の音――日昳(※十四時頃)を報せる鐘が赤い都に鳴り響いた。そろそろ帰ろうと言った天擂に促され、今度は来た道を登っていく。
その途中。道を変えたのか、行きとは違う屋台の郡に遭遇した。今度は食材ではなく、食器などの日用品から、古着。簪や櫛などの装飾品もあれば、貴族相手には売れない割れた玉なども並んだ。
時刻も昼を過ぎたからなのか、大通りの市場程の賑わいもなく商品も少ない。
しかし、睡蓮にはどれも物珍しい事にも変わりはない。吸い寄せられるように店から店へ移ろい覗き込んでいった。
その途中、睡蓮の隣で覗き込んでいた天擂が足を止めた。女性向けの装飾品ばかりだが、無骨な手が伸びた先にあったのは、白い睡蓮の花の簪。木製の柄は黒漆の光沢で輝き、細工は流水を表す。先端は金属の花弁を重ねた睡蓮の花が一つ吊り下がる。派手さは無いが、睡蓮の花の清らかさを現して、店の中でも一際よく目立った。
「綺麗ね」
装飾に惹かれ、睡蓮の瞳が輝く。
「気に入ったか?」
「え?」
「これをくれ」
天擂が店主に向かって告げると、睡蓮が何を言う間も無く、提示されたままの金銭を渡していた。
「まいど」
天擂の手の中で簪の装飾が揺れた。店を離れても、天擂は壊れ物を扱う繊細な素振りで簪を手にしたまま。睡蓮は気になりながらも目を逸らす。簪を視界に入れるたびに自惚れた思考ばかりが湧くのだ。
――私の為に買ってくれた……? でもそれって……
そうやって視線を落として悩んでいると、睡蓮の髪にそっと何かが触れた。細い――簪の柄が、耳の後ろ辺りに添えられたのだと気付いて、足を止めて簪を刺したであろう人物を見上げた。
睡蓮を見下ろす眼差しは穏やかでいて、だが秘めたる熱がある。その熱が情愛からくるそれな気がして、自然と辿り着いた憶測に戸惑い俯いてしまった。
「えっと……」
どもる睡蓮に、天擂は察したように簪の睡蓮の花に触れた。
「睡蓮の花も、白も、お前によく似合う」
似合うから贈った。そう告げられているとしか思えない言葉に、睡蓮の顔は紅潮する。睡蓮は自身が世間知らずである事は承知しているが、男が女へと簪を贈る意味ぐらいの知識はあった。
『あなたを守りたい』
『愛している』
『生涯を共に』
昨日、天擂の行動は勘違いだと言い聞かせたばかり。けれども、難しく考えるのは止めた睡蓮に一つの感情が浮かんだ。
純粋に天擂からの贈り物が嬉しい。そう考えたなら、睡蓮の顔は自然と綻んだ。
「……ありがとう」
そんな睡蓮の表情に、天擂の手が再び睡蓮の髪に触れた。
「簪の意味を今は無理に考えなくて良い」
手櫛で髪を梳くようにゆっくりと、毛先まで指を滑らせる。
「睡蓮の心に余裕ができたその時に、答えを聞かせてくれ」
天擂の声は今まで聞いたどれよりも優しく、睡蓮の疼き始めた感情を芽吹かせるには十分だった。




