<3>徳利坂(とくりざか)の怪
その日も兵馬は奉行所の勤めを終え、味噌田楽を肴に蔦屋で杯を傾けていた。他に客の姿もチラホラとはあったが、そう混んでいる風でもなく、時は流れていった。六つ半近くとなり、いつものホロ酔いで兵馬は勘定を済ませるか…と腰を上げた。そのときである。別の客の話す声が偶然、兵馬の耳へと届いた。
「徳利坂だろっ! ありゃ、おめえ、危ういぜっ! おめえが、どうしてもって言うんなら、止め立てはしねぇ~がなっ! まあ、避けた方が身のためじゃねぇ~かっ! ははは…なにせ、かどわかされちまってからじゃ~遅えからなぁ~」
「ってことはだっ! 世間の風聞は真だっていうのかよっ!」
「真もなにも、現に皆、その刻に通った者は消えちまってんだからよぉ~」
兵馬は瞬間、いつやらの峰打ち事件を思い出した。思い出したくて思い出した訳ではなかったが、得体の知れない事態を自分も体験している身としては心に残るというものである。兵馬の足は、いつしか話し声の方へと戻っていた。
「おめえ達、その話を誰から聞いたんだっ!?」
「いやぁ~誰からって訳じゃねえんですがねっ! 徳利坂あたりじゃぁ~誰彼となく話してますぜっ!」
「そうか…。いや、邪魔をしたなっ!」
兵馬は踵を返すと勘定を済ませ、店をあとにした。
『ははは…いつやらの荒くれの仕業ではないとは思うが…』
すでに夜寒の風が染み、秋も深い。辻を通る火の番の拍子木の音が遠くから聞こえた。
次の朝早く、魚屋の喜助が生きのいい鰻を木桶に入れて現れた。兵馬はその日、非番で、朝早くから剣道場へ出ていたが、丁度、汗を拭きながら屋敷へ戻ってきたところだった。
「これは旦那っ! 朝から御精が出ますっ!」
「おお、喜助かっ! しばらく見なんだが、元気で何よりじゃ!」
「女中頭のお粂さんに頼まれました鰻が入りましたんで、お届けに…」
「そうか、ご苦労だなっ! 柳川風に卵でとじさせ、熱々を食らうとしよう!」
「それは、よろしゅうございますっ!」
「ところで、喜助。徳利坂の怪だが、何ぞ聞き及んでおらぬかっ!?」
「へいっ! 聞き及んでおりますともっ!」
「早耳のお前じゃ。やはり聞き及んでおるかっ!」
「聞き及んでおる相場の話じゃござんせんよ、旦那っ! あっしも危うかったんでございますよっ!」
「と、申すとっ!?」
「へぇ! 知りたがり屋のあっしですからねっ! 丑三つ時に通ってみたと思いなさいやし…」
「ああ、思おう!」
「すると、出たんでございますよっ!」
「何が出たっ!?」
「得体が知れぬものでございますよっ! あっしの体が宙に浮き上りましてねっ! 危うく、かどわかされそうになったんでさぁ~」
「ははは…冗談も大概にせぇ! 体が宙に浮くなどというようなことが…」
兵馬はそこまで口にしたとき、ふと、自分が気絶した峰打ち事件をふたたび思い出し、口を閉ざした。
「どう、なすったんでっ!?」
「いや、なに…。奉行所でも人さらいの一件として探っておるのだが…」
「さようでございましたか…。あっしは先を急ぎやすんで…」
「おお、引き留めたなっ! お粂に届けてくれっ!」
「へいっ! ではっ!」
喜助が木桶を手に勝手元へと消えたあと、兵馬は、ふと、思った。
『よしっ! 某も喜助に見習うとするか…』
そして、数日が経った丑三つ時のことである。徳利坂を歩く兵馬の姿があった。しばらく、何事もなく歩いていた兵馬の身体が宙に浮き始めた。
「で、出たな、物の怪っ! 正体を現せっ!」
『物の怪とは心外ぞ! 儂はのう~、徳利の精じゃ。勝手に儂の名を地名にするとは何事ぞっ! と、腹いせに夜な夜な人隠しをしたのじゃ! 地の名をかえればそれでよしっ! すぐにでも消え失せた者どもを返そうではないかっ! いかがじゃ!?』
「なぜ、某の前に現れたっ!?」
『フフフ…知れたことっ! 実はのう、須佐之男さまが江戸をお去りになる前、変わったお武家がおるでのう、万が一、姿を現わさば訳を話すがよい。悪いようにはせぬであろう! と、お告げになられたのじゃ!』
兵馬はその声が聞こえた瞬間、やはり荒くれ絡みか…と納得した。
それ以降、徳利坂の地名は銚子坂に改称され、怪は忘れ去られた。ただ、それが兵馬の力によるものなのか? という真偽までは分かっていない。地名が改称されて間もなく、かどわかされた人々は、どこからともなく現れ、元の暮らしへ戻ったという。
完