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<1>遣(や)らずの雨

 頃は江戸中期、享保年間である。朝早いその日、雨が降っていた。

「兵馬さまっ!」

 (かす)かな物音に気づいた芸者のお駒がそう呼び止めて裏木戸へ近づいたとき、兵馬の姿はすでに消えていた。

「ったくっ! 兵馬さまは、いつもこれなんだから…」

 お駒はそそっかしく無情(つれな)い兵馬を愚痴った。片方の草履が裏返って木戸に落ちていた。当の本人は、その頃、呑気に魚川端(うおかわばた)を霧のような春雨に濡れながらほろ酔いで(そぞ)ろ歩いていた。()らずの雨でも兵馬は遣る雨にする男だった。

「おっ! 月影の旦那じゃござんせんかっ!!」

 天秤棒を(かつ)いだ魚屋の喜助が兵馬の後ろ姿に気づき、ぶっきらぼうに声をかけた。兵馬は少し驚いて振り返った。

「おお、喜助か。河岸(かし)の帰りだな…」

「へいっ! そんなところで…。旦那、草履が片方…」

「おう! 片草履で歩いておったか、ははは…。どうだ、皆は達者に暮らしておるか?」

 皆とは喜助が住まう長屋、通称、(すずめ)長屋の住人達のことである。

「それが最近は、そうでもねえんでさぁ…」

「どうした? なんぞ厄介ごとでも起きたか?」

「へいっ! 厄介ごとと申しますか…難儀続きでしてね」

「難儀!? どのような…?」

「辻斬りですよ、辻斬り!」

「辻斬りっ! 辻斬りとは聞き捨てならんぞっ! これでも二百石どりの与力だからのう」

「長屋としちゃ、いいところでお会いしたってことになりやすがっ!」

「ああ…。立っての長話はなんだ、仕事もあろう。夕刻にでも寄せてもらおう」

「あっしの長屋に、ですかい? いや! いくらなんでも、あんな(むさ)いとこへ…」

「ははは…その(むさ)(ねぐら)で、お前は暮らしておるのだぞ」

「まあ、さよですが…」

「いや、なに。寄るだけだ。話は、うどん屋の…ほれ、何とか申したな? 美味(うま)いうどん屋」

三傘屋(みかさや)ですかい?」

「そうだ、三傘屋。そこで詳しい話を聞くことにしよう…」

「へいっ!  分かりやした。それじゃ、暮れ六つにでも…」

「おう、分かった! ではのう、励めよっ!」

「へいっ!」

 喜助は軽くお辞儀をし、兵馬は逆方向の永代橋の方へ片草履を脱ぐと足袋(たび)のまま歩き去った。歩きながら兵馬は考えた。

『辻斬りか…。そういや、ここひと月ばかりの間に辻斬りの訴えが続いておる。喜助の話は、ひょっとすると…』

 味噌田楽の蔦屋(つたや)暖簾(のれん)(くぐ)りながら、事件のつながりを兵馬は思った。この日は非番の休日で、非番の日に寄る蔦屋の味噌田楽は兵馬の好物だった。これを(さかな)に飲むと、(さかずき)が進んだ。

 元照寺で()かれる暮れ六つの鐘が、陰に籠らずグォ~ンと(にぎ)やかに鳴った。

「そろそろ帰る頃だな…」

 空が暮れ(なず)み始めた夕刻、兵馬は雀長屋へと歩を進めた。しばらく歩くと、雀長屋に住む喜助の家の灯りが右前方の板戸障子に映って見えた。兵馬は無遠慮に板戸を開けた。

「喜助! 手土産だっ! もう、飯は食ったか?」

 兵馬は包んでもらった蔦屋の味噌田楽を敷居(しきい)に置いた。

「あっ、月影の旦那! 帰りに三傘屋で食いましたっ! こりゃ、有難いっ! 蔦屋の田楽ですかい? 寝酒で御馳になりやすっ!」

「ところで、昼間の話だが…」

「それなんですがね。どういう訳か、うちの長屋の連中が辻斬りによく出くわすんでさぁ~」

「バッサリか…」

「いや、それがね。妙な話なんですが、峰打ちで命にゃ~別状ねえんですよっ!」

 兵馬が調べている辻斬り事件も辻斬りにあったという訴えだけで、死人が出たという話ではない。死人が出ていない以上、事件としての調べも出来ず、奉行所としても困り果てていたのである。

「そうか…。同じ手口だな…」

「と、言いやすと?」

「奉行所で調べておる話も同じ手口でな…」

「そうですかい。ここの長屋だけじゃなかったんだ」

「そういうことだ…」

「それにしても、バッサリじゃねえってのはっ!?」

「それよっ! 辻斬りってのは、刀の斬れ味を味わうってやつだからなっ!」

「長屋の連中も、気絶から覚め、しばらくして帰ってきたやつばかりですぜ…」

「すまねえがなっ! その連中から、そのときの話を、もうちと聞かせてもらえめぇ~かっ?」

「ようがすっ! お安い御用だ。味噌田楽もありやすしねっ!」

 喜助は兵馬にもらった味噌田楽の包みを見ながら、ニンマリと笑った。

 その次の日の夕刻、兵馬が奉行所より出たところに喜助が天秤棒を担いで現れた。

「おう! 喜助…。待っていたのか?」

「へいっ! そろそろお帰りかと思いやしてね。おっ! 今日は旦那、片草履じゃねえやっ!」

「ははは…馬鹿野郎! で、どうだった?」

「与蔵と又次のヤツは、なんとか都合がつくということでした。まあ、駄賃がわりに三傘屋のうどんくらいは食わせてやって下さいやし」

「ああ、分かっておる。で、二人は店で待っておるのだな」

「そのはずで…。それじゃ、あっしはこれで…」

「ああ、ご苦労だったな。これは、(わず)かだが…」

 兵馬は喜助の手に一朱銀を二枚握らせ、早足で(きびす)を返した。内与力の狸穴(まみあな)に、渋面(しぶづら)で探りを厳しく急かされたということもあった。狸穴は内与力で格上ながら、石高は与力の兵馬より少なく、かねてから鬱憤が溜まっていた。ただ、その鬱憤の捌け口は兵馬だけでなく他の与力達にも及んでいた。与力達にしてみれば、石高の低さは自分達の所為(せい)ではないから、いい迷惑なのだ。

 兵馬が三傘屋へ入ると、喜助が言っていた与蔵と又次の二人が、かけのうどんを(すす)っていた。

「待たせたなっ! なんだ、かけか…。遠慮をするなっ! 勘定は身共(みども)が持つ。親父、もう一杯づつ月見だっ!!」

 兵馬はやや大きめの声で奥の厨房にいる店の親父に声を飛ばした。

「へいっ!!」

 同じ程度の声が奥の厨房から、すぐ返ってきた。

「旦那…」「御馳になりやすっ!」

 与蔵と又次が、かけうどんを啜りながら、小さく言った。

「で、話は喜助から聞いたと思うが…」

「出会ったのは暗闇でしてね。はっきりと、そいつの顔は見ちゃおりやせん」

「へい、あっしもです…」

 又次に与蔵が続いた。

「ってことは、二人とも見ちゃいねぇ~んだなっ!?」

「へいっ! どうもお武家のようではありやしたが…。なあっ!?」

「へいっ! あっしもそのように…」

「武家か…」

「へいっ…」「へいっ…」

 二人が頷いたあと、兵馬も含み顔で頷いた。

「お待ちどうさまっ!!」

 雇われ仲居のお春が大盆に月見うどんの鉢を二杯乗せ、現れた。

「おう! すまねえな、お春ちゃん! 相変わらず可愛いなぁ~」

「まあ、嫌だわ、兵馬さまったらっ!」

 お春はポォ~っと頬を赤く染め、鉢を置くとすぐ奥へ引っ込んだ。

「旦那、年頃なんですから、余りからかっちゃいけやせんぜっ!」

「ははは…そうだな。では、また何ぞ手がかりがあれば、喜助に伝えてくれっ! 釣銭(つりせん)は手間賃だっ! ではのうっ!」

 やや多めの一朱銀を一枚、立ち際に置いたつもりで、兵馬は格好よく店から出ていった。

「毎度っ!」「有り難うございましたっ!」

「お、おいっ! い、一分銀だぜっ!!」

「き、気前がいいねぇ~、月影の旦那はっ!」

 店外へ出た暖簾越しの兵馬に、そんな声が聞こえた。兵馬は、『し、しまった、(ぜに)を間違えちまったぞっ!』と、財布の中を確かめ、大損を(くや)んだ。だがそれが、数日後、大損ではなくなったのだから面白い。釣銭の多さを有難く思ったのか、又次が長屋の連中に探りを入れ、決定的な手がかりを喜助に伝えたのである。喜助から知らせを受けた兵馬は、雀長屋の又次の(ねぐら)へとすっ飛んだ。すでに戌の刻は回っていた。

「なにっ! お前の隣の与兵衛が見たのかっ!」

「へいっ! 一瞬、らしいんですがねっ!」

「一瞬でも二瞬でもいいっ!」

「ははは…面白いことを言いなさる」

「馬鹿野郎! 感心してどうするっ! まっ! 身共にすれば上出来か、ははは…。…そんなことを聞いておるのではないっ! その与兵衛はっ?」

「酔っ払いやがって、もう寝てんじゃねぇ~ですかっ? なんでしたら、叩き起こしやしょうか?」

「おお、そうか。すぐ、叩き起こしてくれっ? 叩かず、二、三発、(なぐ)ってもいいからなっ!」

「またまた…。旦那は面白(おもしれ)ぇ~お方だっ!」

「感心しておらず、又次、頼むぞっ!」

「へいっ! すぐ連れてきやすっ!」

 板戸を出たと思った途端、又次は与兵衛の耳を引っ張って連れてきた。与兵衛は半ば眠っていたが、又次に入り口の(かめ)の水を柄杓でぶっかけられて正気に戻った。

「おら、ど、どうしたってんだっ!」

「馬鹿野郎! どうもしてねぇ~よっ! それよか、旦那に洗いざらい話しちまいなっ!」

「んっ? …ってえと、辻斬りのことかっ?」

「そうだっ!」

「こちらはっ?」

「与力の月影さまだっ!」

「さいですかいっ! こりゃ、どうも…。あっしが見たってのは一瞬でしてねっ! お恥ずかしい話ですが、すぐ気を失っちまって…」

「その話は又次から聞いた。確かにその男を見たのだなっ!」

「そりゃ、もう…」

「見れば、分かるかっ!?」

「そりゃ、もう…」

「ったくっ! そりゃ、もう…の多い男だっ!」

「ははは…旦那も釣銭が多いですぜっ!」

「おっ! そうだったな、ははは…」

 次の日の朝から、与兵衛を伴って兵馬の探索が始まった。探索の手間賃は多めに日当として手渡したが、まあ、釣銭ほど多くはなかった。いつもながら、兵馬が同心を差配することはなく、単独での探索である。同心達を動かしたことが(あだ)となり、しくじって迷宮入りにした苦い経験があった。

 とある町の辻である。

「どうだ、今の男は?」

 通り過ぎたそれらしき風体(ふうてい)の浪人を見た兵馬は、与兵衛に小声で呟いた。

「いや、違いやす…」

 与兵衛は断言した。断言するくらいだから(まった)くの別人だろう…と兵馬は思った。

 二日が過ぎ、そして三日目も探索が過ぎ去ろうとしていた。その夕刻である。二人がその日の探索をやめようと歩いていると、辻占いの易者が手相と墨字された燭台の薄明りに垣間見えた。どういう訳か、顔を隠す編み笠は被っていない。

「だ、旦那っ! あの男ですぜ…」

 兵馬の肩を軽く(つつ)き、与兵衛が小声を出した。

「…易者ではないか。武家には見えぬが?」

「いや、あの面相、間違いありやせんや」

「…そうか。よし! お前はこのまま通り過ぎて去れ。身共が客を装って探りを入れる…。ご苦労だったな、これは今日の駄賃だ…」

「へいっ! それじゃ、お気をつけなさって…」

 二人の会話は無論、聞こえるか聞こえないかといった小声である。与兵衛は兵馬の前へ出ると、易者を通り過ぎ、そのまま歩き去った。

「ちと、見てもらいたいのだが…」

 兵馬は何げなく易者の前へ近づき、対峙した。

『はあ、どのような…』

「いや、なに…。最近、辻斬りが出没しておるのだが、どうも妙な一件で、峰打ちだけの事件にも出来ぬ話でのう。なにか、分かろうかな?」

 兵馬はそう言いながら、片方の手のひらをゆったりと易者の前へ突き出した。

『あの…』

「なんじゃ?」

『羽織の片袖が破れておりまするが…』

「んっ!? どこぞで引っ掛けたのであろう、ははは…」

 そう言った兵馬だったが、芸者のお駒の家で夜っぴいて飲んで寝たとき、フラついて雪隠の釘で鍵裂いたのである。とんだ粗相を、つい忘れていたのだ。気づきもせぬとは…と、お駒を腹立たしく思った兵馬だが、そそっかしい自分も自分だから易者には笑って(ぼか)すしかない。

『では…』

 易者は兵馬の手のひらに天眼鏡を近づけると、しばらく繁々(しげしげ)と見たあと、静かに口を開いた。

『その男、近々、この付近に出没しますぞっ! お気をつけられよ…』

「して、いつ頃ですかな?」

『ほん、今…』

「なにっ!」

『拙者がその辻斬り風の男でござる…』

「まさかっ! 探しておるのは武家だが…」

『フォッフォッフォッ…この風体は世を忍ぶ仮の姿。(まこと)の姿は天界にて姉上に追放された荒くれの須佐之男(すさのお)よっ!!』

「須佐之男!? 須佐之男とは、あの須佐之男命でござるかっ!?」

『そうじゃ!!』

「んっな、馬鹿なっ!!」

『真じゃ…。フォッフォッフォッ…またしても、荒くれが過ぎたかっ! ではのう! トリャア~~!!』

 そう告げると、易者は峰を返し、見えぬ神剣で兵馬の肩を一撃した、兵馬は気を失い、気づくと易者の姿は跡形もなく消え()せていた。いや、そればかりではない。易者の机、燭台なども全て消え、兵馬は地の上で気を取り戻したのである。見上げれば、遣らずの雨が降り出そうとしていた。いや、兵馬だから遣る雨である。

 それ以降、辻斬り? は出没しなくなり、兵馬はこの一件を口にしなくなった。そして、いつしか世間や奉行所からも忘れ去られていった。


               完

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