余命30000文字
こちらは
村崎羯諦様の作品、「余命3000文字( https://ncode.syosetu.com/n0112gc/ )」のオマージュ作品です。
どうぞぜひそちらをご覧ください。
作者様より了承を得ています
寛大に執筆を許してくださった村崎羯諦様には深い敬意と感謝を。
またこちらを書くにあたり、本庄照様からたくさんのアドバイスをいただきました。
| ◠‿◠ )様にずっと励ましをいただいたことも忘れていません。
お二人がいらっしゃらなければ完成させられませんでした。
本当に心より感謝致します。
2020/04/26
ファンアートをいただきました、ありがとうございます!
お話の最後に挿入しています。
「大変申し上げにくいのですが、あなたの余命はあと30000文字きっかりです」
医者の言葉にわたしは耳を疑う。確認のためもう一度尋ねてみるが、医者はやはり同じ言葉を繰り返すだけだった。
「余命何年なら聞いたことはあるんですが……。一体どういうことなんですか?」
「どうもこうも言葉の意味そのままです。あなたはあと30000文字しか生きられません。30000文字に到達したと同時にあなたはコロリです。ほら、やりとりをしている間に200文字も使ってしまった」
わたしは慌てて自分の口を閉じる。
「えっと、百歩譲ってわたしがあと30000文字弱しか生きられないとして、治療法は……?」
「治療方法はありません。ただ、対策は存在します」
「対策?」
医者が眼鏡をくいっとあげながら答える。
「簡単です。あなたの残りの人生を残り30000文字に収めればいいのです。30000文字が来る前に寿命がくれば、余命もへったくれもありません。そのためにも、できるだけ哲学的な思索はせず、情景への関心をなくすことです。例えば先程の医者が眼鏡をくいっとあげたなんて無駄な描写です。今後は控えるように。会話文も多用はダメですね。地の文よりも文字数を消費してしまいがちですから。そして何より重要なのは、出来る限り同じ毎日を過ごし、当たり障りのない人生を送ることです。そうすればきっと、30000文字もしないうちに寿命を迎えますから」
わたしは半信半疑のまま医者の言葉にうなずく。そして、現時点の文字数を確認してみる。ここまでの文字数は700文字程度。わたしの残りの人生は、残り29300文字。
それまで大雑把だったわたしは、どんぶり勘定をしなくなった。
それでかなり無駄な描写を省けるから。
人間関係も精算した。
この人にはどれだけの言葉を費やせるだろうと考えたら、自然とくだらない付き合いはなくなった。
口数ももちろん減った。
そのうち思慮深い人との評判を得た。
ただ単に長生きしたいだけなのだけれど。
生活全体が整えられていく。
この奇妙な生活を始めた当初は、少なからず戸惑いもあった。
けれどすぐに慣れてしまった。
人生が簡単なもののように思えた。
きっとそれは挑戦することを諦めたから。
起伏がなく穏やかでありながらも、確実に死と終わりを意識した生活。
すべてをルーティンにし、処理が必要な例外は作らない。
そうやって生きても、特別なにか大きな変化があったわけではなかった。
文字数に縛られても、わたしはわたしに過ぎなかったから。
ときどき恋もした。
この人には1000文字を割いてもいいと思ったら、わたしから積極的に声を掛けることもあった。
なんだかんだ、限られた命を楽しく用いて余生を送りたいと思ったから。
いつもはおとなしいわたしに誘われると、驚きつつも喜ぶ男性が多かったように思う。
後腐れなくみんなと良い関係で終わった。
30歳。
隣の部署の同期の男性。
仕事の打ち上げで、わたしから隣に座った。
「髪が綺麗だなって思ってた」とはにかみながら告げられた。
笑うとえくぼが出る可愛らしい人。
驚くと目が真ん丸になる人。
「デートしましょうよ」っていうわたしの言葉に、目を丸くして、えくぼを見せた。
仕事が終わったら別々に職場を出て、待ち合わせ。
笑顔の彼と学生みたいに初々しく手をつないだ。
スキップでもしそうな勢いで。
中学時代に見たアニメの話をして、安い居酒屋で酔って、カラオケで懐メロを歌った。
一番気取らずにすんだ人。
一番素直に笑い合えた人。
わたしを好きでいてくれた。
いつしかわたしとの結婚を考えてくれるようになってしまったから、少しずつ距離を置いた。
わたしも好きでいたけれど。
もの問いたげな瞳を躱して、うやむやにしている内に彼が転勤になった。
会えない日々。
22時に必ず鳴る電話。
「会いたいな」と言われて、わたしは「そうね」と返す。
寂しかったけれど、どこかほっとしていたわたし。
「会いたいな」と言われて、わたしは「むりよ」と返す。
22時にすれ違った。
そうやって半年が経過。
あるときの22時。
「好きな人ができた」
わたしは「おめでとう」と言って、「幸せになってね」と伝えた。
彼は黙っていた。
わたしは少し泣きながら笑った。
特別な22時の終わり。
ときどき「元気か?」ってメッセージをくれたりする。
「元気だよ」と返すと、「そうか」と返ってきた。
こちらからは連絡しなかった。
何度も書いては消した言葉は伝わらない。
あるときのメッセージ。
「結婚する」
わたしは「おめでとう」と打って、「幸せになってね」と伝えた。
「ありがとう」と返ってきた。
わたしは笑った。
700文字を費やして、わたしは31歳になっていた。
残りの文字数をひとりで生きるために、わたしはいくつかの資格の勉強をしながら転職した。
結婚というライフイベントは、確実に文字を食うでしょう。
悲しい思い出も嬉しい出来事も、過ぎるとわたしには身体をむしばむ毒となる。
起伏の少ない平坦な人生で満足して、お布団の上で大往生する。
それが余命27950文字のわたしの願い。
32歳。
「僕の子どもを産んでくれませんか」と言われた。
冗談のような口調で、真剣な瞳で。
びっくりしてしまってとっさに「子どもが欲しいのですか?」と訊ねた。
「はい、欲しいです」
わたしは何も言えなくて、けれどごまかすように話題を変えた。
彼もそれに合わせて、それきりそんなことは言わなかった。
彼は既婚者だった。
風のうわさで、年上の奥さんと上手く行っていないのだとは聞いた。
とても素敵な人だから、略奪しちゃおうかな、なんて、給湯室の埓のないおしゃべり。
やめなさいよって笑って合いの手を入れる、それがわたしだった。
礼儀正しく不必要には近づかないようにした。
なにか言いたげな瞳は気づかないふりをした。
派遣社員と現場の上司。
その関係を慎重に維持していたから、周囲の誰もわたしたちの間にある、はりつめた空気に気づかなかった。
何事もなくそのまま数ヶ月を過ごした。
時折追いすがるような視線を感じた。
あるとき終業後ふたりきりになってしまって手を取られた。
驚いて肩がはねたわたしに、彼はなにか言おうとして、けれどなにも言わずに手を離した。
「お先に失礼します」
逃げるようにしてわたしは帰宅した。
その現場での契約は更新しなかった。
思わぬところで500文字を消費してしまった。
ただ何気なく生きているだけでいろんな事があるものだ。
でもきっとこのペースなら問題なく平均寿命までいけるだろう。
少しだけ胸をなで下ろした。
余命27350文字。
33歳。
特筆することはなし。
いくらかのつきまとい行為があったけれど、悪質なものではなかったし、気が済んだのかすぐに止んだ。
余命宣告されてから、「綺麗だ」と言われることが多くなったことに気づいた。
残りの文字数を大切に生きようと考えていると、前向きな姿勢になるからかもしれない。
わたしは笑うことが多くなった。
つかず離れずの人間関係にも慣れてきて、やりくり上手になった。
新しい現場での仕事も順調で、切られるまではここにいようと思った。
余命は27115文字。
34歳。
20代の頃の服がどれも子どもみたいに思えて、断捨離した。
似合わなかった青系の服を、それなりに着こなせるようになった。
昔の友人から連絡が来たり、思わぬ訃報が届いたりして、ここが生活の変わり目だと意識する。
失くしてしまったものに目を向けず、ここからどうすべきかを考えた。
わたしは終わりに向かって進んで行く。
余命26975文字。
35歳。
すべてを記すことはできないけれど、10000文字も惜しくはないと思ったマサヒトだけは別枠として述べたいと思う。
あのころ、彼がわたしのすべてだった。
「わたし、余命が26830文字なの」
マサヒトは笑った。
「なんだよそれ」と笑った。
わたしが説明すると、茶化さずに黙って耳を傾けてくれた。
「そのうち俺に何文字くれんの」
微笑みながら彼は訊ねる。
「そうね、10000文字あげてもいい」
「まじかよ」
彼は笑った。
「純文学書けちゃうじゃん」
楽しそうに笑った。
運転免許の更新のときに出会った。
講習で見せられる飲酒運転の恐ろしさを描いた映像について、隣の席にいた彼がスマートフォンのメモ帳に「エグいね」と打ち込んで見せてきたのがはじまり。
「だるい」「つまらん」「眠い」「今ので眠気覚めた」と何回も見せてくるので、その度にわたしはうなずいた。
「はらへった」「この後暇?」「ごはん食べに行こ」
慣性でわたしはうなずいた。
ここに至るまで特筆しなければならないことが生じないように生きてきた。
なにか心を激しく乱すような、描写を厚くしなければならない事柄は避けてきた。
けれどマサヒトについて記さないとしたら、わたしの人生そのものが否定されてしまうのと同じではないかとすら思う。
結果的に何文字になるかわからない。
わたしは彼に文字を重ねた。
「玄関で見たときから声掛けようって思ってた」
後々わたしは聞かされた。
まんまとわたしはマサヒトの策略にはまったわけだ。
4歳年下だけれど、自分が年上みたいな顔をしていた。
話しているとわたしもそんな気がしてきたものだった。
わたしの知らない世界を知っている人だった。
話し上手で聞き上手、彼がしゃべっていたかと思うと、いつの間にかわたしがしゃべらされている。
時間が早く過ぎて、次に会えるのはいつかと考える。
うかされたようにわたしは恋に落ちた。
「俺たち、これからだよな」
ある朝マサヒトが言った。
結婚する気はない、とわたしが述べると、彼は「でも一緒にいることはできるじゃん?」と言った。
丸め込まれて二人のための部屋を借りた。
わたしの方が荷物が少なくて、マサヒトはよくわからない雑貨をたくさん持っていた。
「10000文字、俺にくれよ」
そう言って始めた生活だった。
彼は帰って来なかった。
リラ冷えの季節に出会って、わたしたちは互いを見た。
もう誰とも向き合うことなんてないだろうと思っていたのに。
車道側を半歩先に歩く、その背中が広くて素敵に思えた。
打ち水が乾くように湿度のある声、わたしの名を呼ぶ。
それが心地よいと感じられた頃には彼を好きになっていた。
過ぎ去る風が暑くて、かざした手のひらごしに太陽を見る。
秋海棠の花のようだと思ったのはいつだったか。
愛らしくも強くたくましいその存在。
わたしはどこか片思いのような気持ちでうつむく。
ツワブキを茹でて皮を剥きながら、わたしのあくも抜いてしまいたいと思った。
もっともっと身軽になれたら、後悔することなどないだろう。
そう考えつつも、常になにかを背負いながら彼を思う。
季節が二巡したころに、わたしは彼を見失った。
即死だったらしい。
連絡が来たのは真夜中で、心配してわたしが入れた着信の履歴からたどって。
「きっと痛みも感じなかった」と言うのが誰であれ、その声はわたしに響かない。
なにが起こったのかも理解できなかった。
わたしの心はそれきり凍りついた。
マサヒトの親族に罵られ、嘲られ、わたしは葬儀に出席させてもらえなかった。
遺品をよこせと大挙してやってきた彼らは、明らかに女物とわかるもの以外はすべて回収していった。
なにが起こったのかも理解できなかった。
マサヒトとの共有資産もいつの間にかなくなっていた。
気づいたところでわたしはなにもすることができなかった。
こんなときでも、夜は明けて日は昇る。
マサヒトがいなくなってしまったというのに、わたしには25412文字もあるのだ。
それはとても恐ろしいことのように思えた。
しばらくしてからわたしは泣いた。
なにもなくなってしまった、部屋で、ひとりで、理由がなにかもわからず泣いた。
理由? いや、たくさんある。
けれどどれもこれも紛い物のようで、でもつらくて、これ以上ないほどにわたしは泣いた。
ある朝、薄い壁の向こうから、隣人の目覚まし時計の音が聴こえた。
わたしはそれに驚き、恐怖する。
それはなにかが始まる合図のようで、言うまでもなくわたしにとってそれはマサヒトのいない生活だ。
わたしは38歳になっていた。
恐ろしく長い余命がわたしに待ち受けている。
あんなに大切に生きようと思っていた文字数が、厭わしいものへと変わった。
費やしたい言葉などない。
褪せた世界でただひとりきりだった。
いつか、ひとりきりで起とうと思ったときのように、背を伸ばして前を向けない。
ふたりのときを知ってしまったから。
マサヒトがいたから。
わたしはそれまで、本当の喪失を知らなかったのだ。
始めさせられた新たな生活に、わたしは身を縮め怯える。
余命24920文字。
ルーティーンの生活に戻った。
けれど以前のようではない。
ただひたすらやり過ごすだけの毎日。
曇天のような時間が過ぎた。
月のものが来ていないのに気づいたのは、数ヶ月後だった。
あわてて買った検査薬の反応は陽性。
わたしは絶句した。
なんてことだろう。
死んでもマサヒトはわたしに文字を消費させる。
時はもう満ちていて、わたしの生活がまた二人というふりだしに戻った。
男の子だった。
未婚の母になるわたしに周囲の人々は優しかった。
途方に暮れつつもわたしは息子をリヒトと呼んだ。
これは漢字にするとマサヒトとも読む。
名付けに関われなかったマサヒトを偲びつつ。
子どもを育てるというのは一体何文字消費するのだろう。
わたしはこの子がひとりで、もしくは誰かと、歩む道を選択できるときまで生きていられるだろうか。
死ぬことが恐ろしくなった。
0歳。
産休中に派遣契約の期間が終わった。
広すぎる部屋はマサヒトを思い出すので、荷物がなくなったのをいいことに小さなアパートに引っ越した。
いくらかの蓄えと公的扶助により生活はまかなえたが、日々戸惑いばかり。
初めて母乳を吐き戻してしまったときは動揺して産院に電話してしまった。
あまりに取り乱すわたしに、看護師長さんが電話で応対してくれた。
「よくあることだから、大丈夫。
初めてだとなんでも大変なことに思えるけど、そうやって大きくなって行くのよ。
みんな通る道だから、慌てないでいいわよ」
母親サロンを紹介されて、週に二回通うようにした。
孤独感が和らいだ。
3ヶ月ころから夜泣きに悩まされ始めた。
わたしも度々共に泣いた。
そんなときサロン仲間の「うちもうちもー!」という言葉に慰められ、励まされもした。
皆目の下の隈を濃くして、それでも「かわいいから、許せちゃう」という意見で一致した。
わたしのように夫がいない母親も幾人かいて、夫帯者の「ダンナが一切家のことしてくれない」とか、「ダンナが子ども帰りして困る」なんていう愚痴を聞くにつれ、「わたしら、楽なのかもね」なんて言い合った。
首がすわった、寝返りができた、うちはもうお座りするようになった、離乳食いつ始める? と話題は尽きなかった。
写真投稿サイトに登録して、目元を隠しながら息子の成長記録を載せることにした。
それによって多くの悩める母親や父親がいることを知った。
いただけるコメントやリアクションにも励まされたし、なにより「かわいい」とか「頑張って!」という言葉がこんなに嬉しく思えるものなのだと知った。
他の子より少し髪の毛が薄い気がして、わたしは心配していたのだが、「うちの子もそうでした! 今17歳、とんでもない量の髪で美容室ですごいすいてもらってますよ!」というコメントをもらって一安心した。
わたしの真似をして幾人かの母親も投稿を始めた。
サロンで見聞きするような愚痴や疲れは一切そこでは見せなくて、面白いなと感じたものだった。
1歳。
息子が後追いを始めるようになった。
嬉しいし可愛いのだが、トイレのドアの前で毎回泣かれるのは困る。
出ていくと涙いっぱいの顔でにっこり笑う。
本当に可愛い。
この笑顔があれば何でもできる気がした。
公的扶助の期間を考えて、保活を始めることにした。
なかなか時間がかかるとも聞いていたし、生まれてすぐに始める人もいるらしい。
すぐに決まらなくてもいいように節約生活を送る。
母親サロンへは足が遠のいてしまった。
新しく入ってきたママさんのノリが合わなくてストレスになったため。
しばらくしてその月齢グループは解散したと聞いた。
夫がいない母親たちとは頻繁にやり取りをして、ときどき会ったりもしていた。
この頃にはもうそれぞれの子どもたちにも個性がでてきて、うちの息子は「のんびり屋さん」と言われた。
確かに、ものごとに動じずに泰然としている。
他の子にぶたれたときも驚愕した表情をしただけで声も上げなかった。
人見知りもせず、初めて会う人は顔をずっと凝視している。
しかし言葉が遅くて、「ママ」もまだ言えないことがわたしの気にかかっていた。
「だいじょぶだいじょぶー、そういうこともあるよ。
リヒトはのんびりなだけだから」
歴戦練磨のママ友の言葉が支えてくれた。
なので、1歳10ヶ月で初めてわたしを見て「まっ!」と言ったときは泣いてしまった。
十分だ。
この子はこの子として成長している。
りんごの離乳食をあげてみたら、かぼちゃの離乳食を食べなくなってしまった。
好き嫌いが始まって、自己主張も激しくなってきた。
2歳。
公的な職業訓練に通うことにした。
自分ひとりで生きていくわけではない状況下では、派遣社員として生活していくのは得策ではないと感じたため、なにかしら手に職をつけたかったのだ。
息子を一時保育に預けて、わたしがいない状況に慣れさせる訓練にもなると思った。
やってみるとどちらかというとわたしの気持ちの方が大変だった。
リヒトは今どうしているだろう、泣いていないだろうか、先生方にご迷惑はかかっていないだろうか、と絶えず気にかかる。
しかし今の保育施設はとても進んでいて、そんな親の心情をおもんぱかって、ライブカメラが設置されている。
15分休憩に眺めては、のんびりな息子の様子に癒やされた。
「なに見てるの?」とクラスメートに訊ねられては、「息子」と親ばかを披露した。
もちろん飲みの誘いはすべて断って直帰する。
迎えに来たわたしの姿を見ると、そこで思い出すのかはっとした顔をしてから泣き出すのが常だった。
「リヒトくんママがだいすきねえ」と先生が言うと、にっこり笑いながらばいばいをする。
語彙は他の子と比べてまだまだ少ない。
けれど着実に成長を感じることができて、わたしも成長しなければ、と強く思った。
9ヶ月を職業訓練に費やした。
生活がかかっているわたしを応援してくれるクラスメートは多かった。
「リヒトくんにあげて?」とおもちゃをもらったこともあった。
保育所に持たせていって、遊んでいる所を見てもらったらとても喜んでもらえた。
多くの人の善意と好意で生活できていると感じる。
わたしができる恩返しがあるとすれば、息子を立派な人間に育て上げてこの世に旅立たせることだ。
このころにショッピングモールでマサヒトの親族に出くわした。
あちらは驚いた顔をしていたが、声をかけてはこなかったので会釈して通り過ぎた。
どうやらその後、マサヒトとわたしが住んでいたマンションに押しかけたらしい。
大家さんから「気をつけなさいよ!」と電話があった。
同情心溢れる大家さんは知らぬ存ぜぬを貫き通してくれ、電話番号も変えていたわたしは特別被害を受けることはなかった。
3歳。
よく耳にする「魔のイヤイヤ期」は経験せずに済んでほっとした。
のんびりな息子のことを考えたらもしかしたらこれから来るのかもしれないが。
続けていた写真投稿サイトに、このころからコメントをくれるようになったアカウントがあった。
名前は「マサヒト」。
別人だとわかっていてもわたしは嬉しくて、その名を見る度に涙ぐんだ。
まるでマサヒト自身が、リヒトの成長を喜んでくれているように思えた。
プロフィールを見れば20代の独身男性で、子どもの成長を見るのが好きなのだと書いてあった。
「いつもコメントありがとうございます、励まされています」とメッセージを送った。
「いえいえ~! 女性が一人で子どもを育てるのは大変ですよね~! 応援しています!」と返信があった。
少しだけ感じた違和感があったけれど、特にそれを追求することなくそのまま流した。
以前所属していた派遣会社から、そろそろ現場復帰する気はないか、と連絡があり、できれば正社員の職を探していたのだが、話を聞くために息子を連れて事務所を訪問した。
女性スタッフたちからの大歓迎を受けて、最近愛想笑いを覚えた息子はにこにこしていた。
一定期間を勤め上げれば正社員になれるという、ありがちな謳い文句のリストがたくさんあった。
目を引いたのは病床数400の総合病院の医療事務だった。
正社員登用はなし。
しかし残業もなしで土日祝休み、手取りは17万円。
月に一度の土曜出勤あり。
院内保育付きで、業務中の受診、各種ワクチンは無料。
年一で健康診断あり。
最初だけ半年、その後は二年おき更新で、特別な瑕疵がない限りは基本的に契約は続行。
わたしは飛びついた。
何を隠そう、受けていた職業訓練は医療事務だったから。
さっそく面接に伺った。
医療事務長が面接をしてくれた。
「うん、いいよ。
来週から来れる?」
あっさりと決まって、わたしは椅子から飛び上がりそうになった。
「今週中に息子ちゃん連れておいで、院内保育の様子を見てごらん」
後々になって聞いたが、看護師の方の中でもシングルで子育てをしている方が多数勤めていらっしゃるらしい。
払われた配慮に、わたしはひたすら感謝した。
新しい職場で、新しい仕事。
当然ミスもしたが、若くはないわたしにも先輩たちが丁寧に教えてくれ、どれだけわたしは恵まれているのだろう、と思った。
保育所の子どもたちがお散歩に出るときは総合玄関前を通るので、受付にいるわたしの姿を見つけると、息子が大声で「ままーーー!!!」と言う。
自動ドア越しにも聞こえる声にわたしは戦々恐々とするが、患者さんたちは一様ににこにこと「かわいいねえ」と言ってくれるのだった。
本当に、理解がある職場だった。
ありがたくて申し訳なく思えた。
お絵描きした画用紙を持ってきて、息子が得意顔で見せてくれた。
「これはなに?」と訊くと「うったん」と言った。
黒いなにかは人間だったらしい。
保育士の先生に訊ねたら、「うったんという子はいないですねえ」とのこと。
「あるあるですよー、このくらいの子って、イマジナリーフレンド作りがちですからねえ。
今度うったんについて訊いてみますねえ」
あっけらかんといわれて、そういうものなのか、と納得した。
半年後の更新も無事切り抜け、「今後もよろしくな」と医療事務長に言われた。
4歳。
院内保育はその性質上、いろいろな年齢の子どもがひとつのクラスになっている。
あるときお迎えに行ったところ、息子より少し大きい女の子から「リヒトくんのママー!」と声を掛けられた。
「リヒトくんのママ、わたし、リヒトくんとけっこんするってやくそくしました!」
なんてことでしょう、トイレトレーニングがやっと終わったばかりだというのに。
「お名前はなんていうの?」
「アヤカです!」
「リヒト、アヤカちゃんと結婚の約束したの?」
「はい」
まったく意味がわかっていないにこにこ顔で息子は答えた。
困ってしまって先生に助けを求めると、先生は「リヒトくんは誰が好きなのかな~?」と訊ねた。
「まま~」
「だよね~」
「わたしだってママがすきです!」
奮然と言うアヤカちゃんは、「ママのほかには? わたしのことすき?」と息子に訊ねた。
「うったんすきー」
誰だよ、とわたしは内心つっこんだが、まだ色恋がどうのは息子にはわからないのだ、と一安心した。
「あー、あー、なんか騒いでますね、スミマセン。
アヤカ、帰るぞー」
「もうすこしまって、パパ! いまわたしのこんやくのはなししてるの!」
「こんやくって……」
ショックを受けた声色で、第一内科病棟の看護師の男性は呟いた。
「パパと結婚するって言ってくれてたじゃないかアヤカ……」
「だって、パパはママとけっこんしてるじゃない!」
「うん、うん、アヤカ、アヤカのためならパパ離婚だってしちゃうぞ。
帰ろう、今日はアヤカの好きなカレーにしちゃおうかな~」
「わかった、かえる!」
上機嫌でアヤカちゃんは帰って行った。
あっけにとられたわたしに先生は笑って言った。
「アヤカちゃんおませさんで、いろんな男の子と婚約結ぶんですよ~。
肉食女子ですよね~、わたしも見習わなきゃ~」
男の子と女の子でここまで発育差があるのか。
婚約騒ぎについて写真投稿サイトで述べたら、様々な反応が返ってきた。
すべてに返信はできなかったが、皆だいたい女はいくつでも女、という結論だった。
そんな小さなハプニングが多い年で、とても思い出深い。
5歳。
あるとき「リヒトくん、一生懸命お兄ちゃんしてくれてますよ」と保育士の先生に言われた。
まだ1歳にならない子たちや他の年少の子を、先生の見様見真似でお世話しようとしているらしい。
「かえってお邪魔になっていませんか?」と訊ねたところ、「いえいえ、すごく助かってます~! お布団敷くのも手伝ってくれるし、泣いてる子あやしてくれるし、蜘蛛がでたら外に逃がしてくれるし、大助かりですよ~!」とのことだった。
これは院内保育だからこそかもしれない。
一般の保育所であれば同じ年齢の子どもたちとクラス分けされてしまう。
家ではわからない成長を知り、わたしは嬉しかった。
「リヒト、先生のお手伝いしているの?」と訊ねると、息子は恥ずかしそうに笑った。
そのことを写真投稿サイトに記載した。
たくさんの反応があり、同じように院内保育園に通っていた人からのコメントもあった。
一般の保育園のように同じ地域の学校に通えるようになるわけではないけれど、その分本当の兄弟のように助け合う精神が培われた、とあって、少しだけ安堵した。
もしこのまま小学校に入学してしまったら、保育園からの持ち上がりのお友だちがいないのだ。
それでなくとものんびりとした子だから、新しい環境に馴染めずにいじめられたりしたらどうしようと思っていた。
そのことを率直にサイト上で述べると、「マサヒト」からコメントがあった。
「大丈夫ですよ~! リヒトくんはいい子ですから!」
わたしはそれを見て身震いし、即座にそのコメントを削除し、「マサヒト」をアクセス禁止にした。
恐ろしくなって、他のコメントへの返信もやめてしまった。
ママ友から「どうしたの?」と電話があった。
「わたし、息子の名前がリヒトだなんて、あのサイトで一度も書いていない」
相談の上、わたしはアカウントを非公開設定にした。
数日後、公開設定のままのママ友から連絡があった。
「あんたに送って欲しいってDMがあったよ。
たぶん『マサヒト』から。
あっちもう退会してるけど、一応送るね」
『ごめんなさい。怖がらせるつもりはありませんでした。
リヒトくんのことを知ったのはたまたまです。
以前会ったことがあって、写真を見てそっくりだなーて思っていました。
リヒトくんが大きくなっていくのは、見ていて楽しくて、叔父のような気持ちでいました。
なので、特定して迷惑をかけようとか、そういうことは考えていません。
今更遅いかもしれませんが、怖い思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした。
私は退会しますので、どうか今後も続けてください。
お元気で。ありがとうございました。』
その内容に一体誰なのだろうと悩むことになった。
「マサヒト」というハンドルネームを使っていたことも気にかかる。
かなりこちらの事情に詳しい人物ではないかと思え、わたしは軽く人間不信に陥ってしまった。
職場の人だろうか、それとも友人だろうか。
そんな不安定な日々を過ごしていたら、年の終わり頃にとある弁護士事務所からの手紙が届いた。
マサヒトの家族からのリヒトへの面会交流の申し入れだった。
なにもかも調べ上げられていた。
わたしは騙し討ちを受けたような気分になって、周りの誰かに相談することもできなくて、インターネットでたくさんの調べ物をした。
親権問題に強い弁護士にメールで相談した。
それによると、面会交流の資格は親であることで、祖父母による面会交流は一般には認められない場合が多い、とのことだった。
まして、これまで養育実績があったわけでもない。
あちらが弁護士を通してきたのは一か八かを託したのか、わたし自身に養育能力がないと判断したか、だとのことだった。
わたしは激怒した。
ふざけないでほしい、わたしはこれまで必死にリヒトを育ててきた、誰からも後ろ指さされるいわれはない。
わたしは弁護士事務所からの手紙をそのまま送り返した。
数日後に電話があった。
低姿勢で話す担当弁護士は、事を荒立てるつもりはないことを強調した。
先方はただリヒトくんに会いたいだけだ、と。
わたしは先方の誠実性に疑問があると述べ、断った。
マサヒトとの共有財産を着服された経緯についても弁護士に伝えたところ、電話の向こうで沈黙があった。
「承知しました、こちらで把握できていない事情もあるようです。
依頼人と話し合った上で、またご連絡差し上げます」
もう連絡はしないでください、とわたしは電話を切った。
その月の内に内容証明郵便が届いた。
どれだけわたしの気分を逆撫でる気なのだろう。
共有財産については手を着けていないこと、また先方が謝罪したいと述べていることが記載されていた。
知ったことか。
一度失われた信頼が謝罪一つで戻るとでも思っているのだろうか。
わたしも内容証明にて、断る旨を送達した。
ひと月後に、小学校入学のための支度金という名目で現金10万円が郵送されてきた。
マサヒトとの共有財産の通帳も同封されていた。
確かにお金が動いた様子はない。
通帳のみ受け取り、現金は返送した。
わたしにも、譲れない矜持がある。
息子と一緒にランドセルを選んだ。
通うことになる小学校に下校時刻に寄ってみて、お兄さんお姉さんの様子を見て二人で相談した。
「みずいろがいい」と言っていた息子だが、実際に買いに行ってみると目移りして、いろいろなものを手にとっては試しに背負ってみたりしていた。
最終的に息子が手にしたのは深いモスグリーンに茶色の縁取りがある大人びたデザインのものだった。
「水色じゃなくていいの?」と訊ねると、「こっちのほうがいい」と離さず、家に帰ってからは寝るときまでずっと背負っていた。
翌日家を出る際に「せんせいにみせる」と言ってきかなかったが、「入学のときに一緒に見せに行こう」と言うと、「それがいいね」と納得した。
いつの間にかはきはきと自己主張するようになったのは、やはり小学生のお兄さんになるという自覚ができたからだろうか?
小学一年生。
入学式の前日、指定されたものがちゃんとランドセルに入っているか、何度も何度も確認していた。
自分の名前が上手く書けるように、何度も「ひ」と「と」を練習して小学校に臨む。
背は小さくて、前から三番目だった。
どの子も皆緊張した面持ちで、男女の二列、手をつないで体育館に入場する。
とても可愛らしくて、けれどどこか感慨深くて、わたしは少しだけ涙ぐんだ。
席に着いた新一年生たちは、前を向いたまま固まっている子もいれば、きょろきょろと落ち着きなく周囲を見回している子もいる。
リヒトは保護者席の方へ首を向けて、わたしの姿をみつけるとにこっと笑って前を向いた。
ひとりずつ名前が呼ばれて、返事をしていく。
隣の席の男性がボイスレコーダーを使っていたので、わたしも慌ててスマートフォンを起動する。
しっかりと答える息子の声を録音して、そっと鞄にしまいこんだ。
式が終了後、各教室に戻って先生の自己紹介と、もじもじしながらそれぞれの子が自己紹介。
席は出席番号順だった。
廊下から二番目の列の真ん中あたり。
家族総出で来ている人たちもいるようで、教室の後ろにぞろりと並んだ保護者の数は明らかに生徒よりも多かった。
もしマサヒトが死んでいなかったら。
そんなことをふと考えてしまって、慌ててわたしはハンカチを目元に当てた。
帰りには自分の下駄箱の場所を忘れないようにと、「ママ、スマホして!」と写真を取ることを要求された。
「ちゃんととれた?」と息子が確認すると、他の子も「わたしのもとって!」とねだっていた。
手をつないで校門へ向かう。
どこのクラスかはわからないが、わたしのように単身の親も見かけて少しだけ安堵する。
これまでもそうだったようにこれからも、二人でこうして生きて行く。
校門を出たところで、三人の人に頭を下げられた。
反射的にこちらも頭を下げたが、姿を見てすぐにマサヒトの両親だとわかり、わたしはタクシーを留めてすぐに乗り込んだ。
スーツ姿の若い男性が駆け寄って扉が閉まるのを妨害する。
「すみません、ひとつだけ聞いてください。
俺マサヒトの弟です、そしてあのSNSの『マサヒト』です。
お二人のこと調べたのも俺です。
どうにか助けになりたかった、兄貴の代わりにリヒトくんの成長見守りたかった。
うざいのわかってます、でもなにかできることがあれば、なくてもいいんで、連絡ください、お願いします」
押し付けられた名刺を受け取ってがむしゃらに扉を閉める。
空気を読んで運転手さんはすぐに発進してくれた。
呆けて行き先を告げられないわたしに代わって、リヒトがはきはきとわたしの職場の病院名を告げた。
「お兄ちゃん、しっかりしてるねえ。
さすが一年生だねえ」
得意顔になった息子は、わたしの手を握ってくれていた。
とても小さくて、とても心強かった。
院内保育園と医療事務課両方に挨拶しに行く。
すれ違った患者様は笑顔で「おめでとう」と言ってくれた。
先生方も同僚たちも、寂しがりながらも共に喜んでくれた。
医療事務長が、「リヒトくん、お兄さんになったんだから、お母さんをちゃんと守ってあげるんだよ」と言った。
息子は入学式と同じように「はい!」と元気よく応じる。
わたしは手洗いに行く素振りをして少し泣いた。
その後、マサヒトの親族からの接触はなかった。
もし誰かに声を掛けられても、決して着いて行かないように、と何度も言い含めた。
マサヒトの弟からもらった名刺は食器棚の奥にしまっている。
感情に任せて捨ててしまいそうになったが、息子が大きくなったときに会いたいという可能性があるかもしれないことがふと頭をよぎったのだ。
息子の権利まで侵害してはならないと思った。
「お友だちはできた?」とある日恐る恐る訊いてみた。
「たっくん、ひろくん、うったん」とのことだった。
朝登校するときは真っ直ぐ歩かないでふらふらとして、道端に屈んではなにかを見ている。
「はやく行きなさい!」と毎朝のようにその背に発破をかけて、わたしも慌ただしく出勤する。
夕方はわたしの方が遅いので、こども館で過ごしているように言いつけている。
どうやらそこでマンガを読むことを覚えたようだ。
「なにを読んでいるの?」と訊いたら、「どらえもん」とのことだった。
一学期の成績は、よくできましたがみっつ、がんばりましょうがふたつ、あとはできますの、平均的なものだった。
『いつもマイペースなリヒトくんです。
おおものになりそうです。
みんなといっしょにこうどうするれんしゅうをしていきましょうね。』
という先生からのコメントだった。
申し訳なくなった。
二学期は学習発表会。
道端の草の役をもらったらしい。
なんと息子に適役なのだろう。
毎日いろいろなことを一生懸命伝えてくれるのだが、「あたったー」「なにが?」「いうやつー」「だからなに?」と要領を得ない。
先生の連絡帳のありがたさ。
どうやらセリフを言うことになったらしい。
スマートフォンで動画を撮り切れるか不安だったので、思い切ってビデオカメラを買った。
たった20分の劇に大げさなことだが、わたしには必要なものなのだ。
もっと早くに買えばよかった。
息子の成長を見届けることは、わたしの生き甲斐だったから。
気づいたら、もう随分と余命を数えていない。
自分のために生きることを辞めたら、文字数など気にならなくなった。
けれど息子が独り立ちする前に文字が尽きてしまうのは恐ろしい。
これからは学年の終わりに数えることにしよう。
発表会当日、息子は立派に草の役を果たした。
撮った映像を何度も二人で見た。
二学期の先生のコメントは、『がくしゅうはっぴょうかいがんばった! みんなといっしょにさぎょうすることが、たのしくなってきたのかな? きょうしつのおそうじもいつもはりきってくれています。』とのことだった。
三学期にはすっかりランドセルも板についてきたように見えて、登校時に道草も食わなくなった。
よく見かけるランドセルをお腹に抱えて雪の道をスライディングする遊びはやっていないようだ。
訊いてみたら「あれは二ねんせいから」という回答だった。
息子の中でけじめがあるらしい。
冬休みに自由研究で作った紙粘土のきりんが、クラスで選ばれて図工室に展示されることになったそうだ。
真剣に作っていたので「なぜきりん」とは問わなかったが、親の贔屓目をおいても良くできたと思う。
嬉しそうに報告してくる様子に、わたしも嬉しくなった。
『あっというまの一ねんでした。
リヒトくん、いつもせんせいのおてつだいありがとう。
二ねんせいもがんばりましょうね。』
というのが三学期の先生のコメント。
余命は15000文字。
小学二年生。
一番下の学年ではないということは、どこか息子の背筋を伸ばすらしい。
今までは集団下校時には指示されるままに従っていたのが、今度は新一年生を見守る立場になったというのは大きいかもしれない。
こども館にも新しい子たちが来るようになって、輪に入れなかったり退屈そうにしている子たちを面倒見ているのだと人づてに聞いた。
迎えに行ったときに保護者から声を掛けられ、お礼を言われた。
「うちの子に今日は誰と遊んだのって訊くと、よくリヒトくんって言うんですよ。
でもクラスにリヒトくんって居ないし。
訊いたら二年生だって。
いつもお世話になってるみたいで、ありがとうございます」
息子に「お世話しているの?」と訊くと、恥ずかしがって先に歩いて行ってしまった。
一学期は写生会。
皆で校庭の木を描いたそうだが、息子は空の色をグラデーションにして、授業参観の懇談会にて先生にしきりに褒められた。
家に帰ってから先生がとても褒めていたことを告げ、「絵本かなにかを真似したの?」と訊ねると、「絵のぐが足りなかったの」と正直に告白された。
けれど褒められたというのが嬉しかったようで、家でもときどきチラシの裏に写生のようなことをするようになった。
元々家の中でおとなしく絵本を読んでいるような子だったから、きっと性に合ってもいたのだろう。
あるとき仕事の帰りにふと思い立って、お絵かき帳を買ってみた。
まだスケッチブックは早い気がしたから。
水彩色鉛筆も買った。
息子が使うかどうかはわからないが、絵の具よりも手軽に水彩絵が描ける。
わたしにしてみれば気に入るかどうかもわからずに買った気まぐれのプレゼント。
受け取った息子は言葉なくしばらくじっと手に持っていた。
「これ、くれるの?」と訊ねた様子は恐る恐るといった体だ。
「そうよ、好きに使いなさい」と言って、水彩色鉛筆の特性を教えた。
何度も頷いた息子は、「やってみる」と机に向かった。
そのとき描いたのは写生会での木で、先生に褒められた空の色を再現していた。
すぐに色鉛筆の使い方を覚えた息子は、どこか嬉しそうに微笑んでいた。
そして家にいるときはいつでも机に向かうようになった。
二学期。
去年学習発表会で役をもらった息子は、今年は音楽隊になったらしい。
お絵描きよりも鍵盤ハーモニカの練習をすることの方が多くなった。
今年も不慣れなビデオカメラを持って臨んだ。
背が低いと前の列になるので撮影しやすいというのが利点だ。
息子もすぐにわたしの姿を見つけ、にこっとした。
練習の成果が出ていたと思う。
三学期。
ある日にこにことして帰ってきた。
念願の雪上ランドセルスライディングをやったそうだ。
「でもね、カバーつけてたからきずついてないよ!」
一生懸命見せて弁明してくる様子に、少し笑ってしまった。
ここにきて余命の文字数が気にかかる。
少し描写を抑えよう。
余命13826文字。
三年生。
初のクラス替え。
仲良くしていた子と離れてしまって少ししょんぼりとしていた。
けれどすぐに新しいクラスにも馴れたようで、特別不満などは口にしなかった。
春の遠足では、350円までのお菓子をスーパーの駄菓子コーナーで真剣に指を折りながら選んでいた。
外国からの観光客に話しかけられてびっくりしたことを、帰ってきてから一生懸命身振り付きで話すのに微笑む。
二学期には、読書感想文が苦手なようで家でうんうん唸りながら書いていた。
「感想ってなに?」と深刻な表情で問うので、「思ったことを書けばいいのよ」と述べると、さらに悩みは深くなったようだ。
「思ったことって、なに」
「楽しいなあとか、悲しいなあとか、良かったなあ、て読んで感じたりはしないの?」
「する」
「それを書けばいいのよ」
納得したようなしないような顔で、「やってみる」と言う。
悩んだ甲斐はあったようで、それなりに本人も満足して提出した。
学習発表会の劇は、三年生にしてはなかなか重いテーマだった。
割と重要な役をもらって、一生懸命セリフを覚え、家ではずっと呟いている。
あまりに真剣なので、良かれと思って台本の読み合いを提案したら、「お母さんは当日に見て!」と断られてしまった。
この頃からわたしを「ママ」ではなく「お母さん」と呼ぶようになった。
ママ呼びはもう恥ずかしいのだそうだ。
急に成長したように思えて少し寂しくもある。
余命13235文字。
四年生。
保健委員になったとのことだ。
他にやりたい人がいなくて引き受けてしまったと。
押しの弱さは一体誰に似たのだろうか。
確実にマサヒトではないから、きっとわたしなのだろう。
それでも責任感を養うには良かったように思う。
保健だよりの文面を辞書を引きながら考えたりして、文章力も上がったのではないだろうか。
交通遺児支援の寄付金を集める活動にも携わった。
自分以外の親をなくした子どもたち、とりわけ息子のように生まれる前にすでにいなかった場合ではなく、ある日突然の訃報が舞い込んで生活が一変してしまった子どもたちの存在を知り、いろいろ思うところがあったようだ。
自分ひとりのためではなく、誰かのために行動することについてこうして学んでくれてとても嬉しい。
同時期に金銭感覚を培うために毎月お小遣いをあげることにした。
500円。
何に使うのかと思っていたら、100円均一でスケッチブックと水筆を買ったようだった。
消耗品はわたしが買ってあげるのに、と言うと、自分で買いたいのだ、と返ってきた。
そして毎月100円、交通遺児募金に寄付することにしたようだった。
わたしは少し泣きそうになった。
この年に息子が授業で描いた「動物と人間」というお題の絵が、地域の小学生水彩画展四年生の部で佳作になった。
象を描いたのだが、皆が灰色で色を塗る中、息子は灰がかった茶色で塗っていたのだ。
観察眼がすばらしい、と先生に褒められて、照れ笑いをしていた。
余命12622文字。
五年生。
クラス替え。
低学年のときに仲良しだった子とまた一緒になって喜んでいた。
そして学級委員長になったとのことだ。
「リヒトやれよ」と言われて引き受けてしまったと。
もう少し自己主張ができるようになるといいのだが。
委員長、と呼ばれるのはあまり得意ではないらしい。
けれど仕事自体は嫌いではないようだ。
違うクラスの女の子に告白された、とある日相談された。
もうそんな日がやってきてしまったのか。
「リヒトはその子が好きなの?」
「よく知らない子だよ」
「お付き合いするというのはとても責任があることよ。
そのことをちゃんと考えて結論を出してね」
「責任とか、よくわからない」
「でもちゃんと考えなきゃ、その子に失礼でしょう」
わたしの言葉にうつむき加減に黙考した。
それなりに悩んで、結局断りの返事をしたようだ。
「よくわからないのに、付き合うとか、失礼だと思ったから」
こうやってまたひとつ成長してゆく。
余命12222文字。
六年生。
生徒会副会長になってしまったらしい。
さすがにそれは誰かに押し付けられてということはないだろう。
「委員会活動ってけっこう楽しいんだよね」とのこと。
それならばよかった。
修学旅行ではこれまで渡したことがない額のお小遣い上限で、「こんな大金失くしたらどうしよう」と何度もちゃんと入っているか確認していた。
結局半分も使わないで帰ってきたが、ほとんどがわたしへのお土産だった。
もらったガマ縁財布はへそくり入れとして食器棚に置いている。
「母さん大事なものって食器棚にしまうよね」と息子は笑っていた。
三学期にはスキー遠足がある。
冬休み中に友だちのお父さんがスキー場へと練習に連れて行ってくれることになった。
朝イチに出てナイターまで滑り、帰ってきたのは日付が変わる頃だ。
最初からその予定であったとはいえ、帰りが遅いとやはり心配にもなる。
帰ってきたときに先方に深々と礼をする。
「いやー、リヒトくん筋がいいですよ」という褒め言葉に、息子は照れ笑いをした。
その日はすぐに泥のように眠って、翌日の夕飯時にどんな様子だったかを訊いた。
最終的には上級者コースまで行ったらしい。
「おもしろかった、また行きたい」
その願いをわたしが叶えてあげられないのが悲しかった。
「お父さんに似たね」とふと言葉が漏れた。
息子はそれに反応し、「なに、どういうところ?」と訊ねてきた。
「お父さんもスキーが得意だったのよ。
ひとりでスキー旅行いっちゃうくらい。
わたしは全然滑れないもの、お父さんに似たんだわ」
少しだけ迷うようにうつむいてから、「お父さんて、どんな人だったの」と小声で問われた。
こんな話をするのは初めてのことだった。
「聞いちゃいけないって思ってた」
夜遅くまで二人で話した。
そしてぽつりと息子は言った。
「昨日、スキー連れて行ってもらえて、お父さんっていいなって、思った」
それは偽りない本音だろう。
言いようのない気持ちがわたしの中で渦巻いた。
マサヒトが、もし生きていたら。
そんなことを考えながらたくさんの思い出を息子に話した。
わたしは笑ったり、ときどき泣いたりした。
弱い母でごめんなさい。
余命11340文字。
中学一年生。
少し大きめの学ラン。
そして学校指定のバッグに上靴。
いつの間にかわたしと並んだ背丈。
涙もろくなるのは仕方がないだろう。
わたしは50歳になっていた。
せめてあと10年を生きられるだろうか。
息子が成人し、立派に歩んでいくのを見届けるまで。
それで、きっとわたしは思い残すことはなく逝ける。
息子は部活には入らずに、放送委員会に入ったとのことだった。
少しだけ意外だったが、前から興味があったのだそうだ。
中学ともなれば、勉強の量も質も変わってくる。
他の家の子のように学習塾に通った方がいいのだろうか、とわたしなりに考えて話を向けてみた。
「家で自分で勉強する」と言って、その代わりにラジオを買ってほしいとねだられた。
放送委員会の先輩が、ラジオ好きの方ばかりらしい。
滅多に欲しい物を言わない息子のお願いに、もちろんわたしはすぐに応じて購入した。
息子が選んだのは、赤くて可愛らしいミニコンポだった。
1DKのアパートで、勉強机はキッチンと同じ部屋にある。
わたしが洗い物をしているとき、息子はラジオをかけながら机に向かう。
会話はなくとも穏やかな時間を共有できた。
ラジオパーソナリティの他愛ない話に、共に笑った。
中学生ともなれば年頃なのに、自分の部屋を用意してやれなくて心苦しく、せめてわたしはダイニングの方に布団を敷いて別々に寝ようと提案した。
「いや、むしろ俺がダイニングじゃん? 母さんはちゃんと奥の部屋でゆっくり寝なよ。
仕事してるんだからさ、もう若くないんだから」
そう言ってさっさと自分の布団を移動してしまった。
示された気遣いと大人びた言葉に、息子の成長を見て感慨深く思った。
そしてこの時期、わたしはとても悩んでいた。
それは息子にわたしの余命のことを告げるかどうか、ということ。
小学生のうちはまだ早いと思っていた。
だが、そろそろじゃないかと心のどこかで思う。
わたしになにかあった時、頼れる人はどこにもいない。
わたしは食器棚からマサヒトの弟の名刺を取り出した。
ずっとそこに置きっぱなしで、これまで触りもしなかった。
ある日の午後、もう通じないかもしれないと思いながら携帯電話にかけてみた。
『はい』
6コールでぶっきら棒な声で男性が出た。
「こんにちは、突然お電話申し訳ありません。
憶えておいででしょうか、わたし、リヒトの母です」
慌てた様子がスマートフォン越しに伝わってきた。
しどろもどろの相手と、数日後に会う約束をする。
仕事の調整をして、昼間にファミリーレストランへと向かう。
約束通りマサヒトの両親には告げず、一人で来てくれた。
お互いに前にあったときとは違う。
わたしはさらにおばさんになって、相手もいいおじさんになっていた。
いくらかの近況を共有する。
マサヒトの両親は今も健在。
弟さんご自身は未婚。
わたしたちは変わりなく過ごしていること。
「今日来ていただいたのは他でもありません。
お話しておきたいことがあります。
わたしの余命のこと。
そしてリヒトの今後のことをどうすべきか。
今の所あなた以外にリヒトをお願いしたいと思う人はいません」
絶句してわたしを見る瞳は真剣そのものだった。
マサヒトの弟はわたしのもしもの時のことを請け負った。
これでひとまずは安心だ。
わたしはすべきことをすればいい。
余命10000文字。
中学二年生。
声変わりが始まってきたのか、とても話しづらそうにしていた。
それで最近は昼の放送も息子はパーソナリティを勤めていないらしい。
背丈も靴のサイズも抜かされた。
「母さん小さくなったんじゃない?」と嬉しそうだ。
学ランが丁度よくなった。
来年は受験でそれどころではなくなってしまうから、今年話そうと思っていた。
ラジオで若い人に流行りの曲がかかっている。
「リヒト、話があるんだけれど」
「なに」
「ラジオ止めてくれる?」
それで真剣な話だとわかったようだ。
電源を落とし、食卓にやってくる。
「お父さんの、弟に会ってみない?」
驚いて目が見開かれる。
年々マサヒトに似てくると思う。
「どういうこと? なんで?」
「母さんにもしものことがあった時、おまえのことを頼んでいるの。
一度会っておいた方がいいと思って」
「もしもってなんだよ、そんなのないよ」
「いつなにがあるかなんてわからないわ。
母さんも若くはないんだから」
寿命についてははぐらかしてしまった。
いくらかの言い合いの後、息子は会うことに同意した。
「ユキヒトさんっていうんだろ」
息子の言葉にわたしは驚いた。
「知ってる。
去年、食器棚に新しい名刺増えてた。
会ったんだろ」
もう、上の棚じゃ隠したことにならないのか。
なにもかもを見通されているような気分になった。
その場でユキヒトさんに電話をする。
リヒトと会ってほしいと言うと、上ずった声で了承が得られた。
週末にいつかのファミリーレストラン。
ものすごく緊張した面持ちでユキヒトさんはやってきた。
大きくなったリヒトを見て、言葉が出ないようだった。
「はじめまして、マサヒトの弟のユキヒトです」
「二度目ましてですよ、小学校の入学式で一度会ってる」
「……憶えているの」
「もちろん。
母さんは泣いていた」
わたしは胸がいっぱいになってしまった。
それからはお互いの話や、これからのことや、たまたま息子とユキヒトさんが二人とも好きだった深夜ラジオ番組の話や、学校の話、受験のこと、と話題は尽きなかった。
ユキヒトさんは昔と違って今はフリーで仕事をしているので、都合をつけやすいのでいつでも連絡をくれと言ってくれた。
余命9110文字。
中学三年生。
息子はパソコンのメールでユキヒトさんとやり取りしているらしい。
高校受験を頑張ったら、スマートフォンの好きな機種を買ってくれると約束したそうだ。
「だから、高校からスマホ持っていい?」とおねだりされた。
「そうね、そのくらいからね。
頑張らなきゃね」
普段からそれなりに自分で勉強をする子だったが、さらに独習に熱が入った。
進路志望について共に話し合った。
「行きたい高校があるんだけど」
不安げにこちらを窺いながら言ったのは少し遠い公立校。
「片道一時間以上かかるわよ、どうしてここがいいの?」
「俺の内申だったら推薦取れると思うし……一応進学校だし、制服可愛いし、評判悪くないし」
椅子に座り直しながら言う様子は、そわそわとしていた。
「……美術科、入りたい」
うつむいて呟いたのは、恥ずかしかったからかもしれない。
寝耳に水の言葉で、わたしは驚いた。
確かに小学校のときはよく絵を描いていたが、中学校に入ってからはそんな姿はぜんぜん見かけなかった。
「ちゃんと絵、描いてみたいんだ」
それは夢と言うには不確かなものかもしれなかったけれど。
三者面談の時にも同じ相談をした。
先生は「おまえならもっといいとこ狙えるんだけどなあ」と何度も惜しんで、それでも息子の気持ちが変わらないことを見て取ると応援してくれた。
一学期の早い段階で気持ちが固まっていたため、推薦枠にも問題なく入れそうだった。
二学期の半ばには校長推薦が確定して面接試験に臨んだ。
試験当日かなりがちがちになっていて、帰宅した時本人は絶望的な表情をしていたが、しばらく後に問題なく合格をいただけた。
クラスでは一番最初に進路が決まったらしく、皆から恨みがましい目を向けられるとぼやいていた。
約束には少し早いが、合格祝いにスマートフォンの契約をすることにした。
「ユキヒトさんと行ってくる」
親離れをしてしまったように感じて少し寂しいが、文字数のことを考えたら、それがいい。
余命8300文字。
高校一年生。
定期で電車通学も、お弁当を持っていく生活も初めての息子は、毎日が楽しそうにしていた。
そんな姿を見てわたしは毎日に感謝している。
余命を知っているからこそ悔いなく過ごせているこの時間。
息子は生徒会に入ったらしい。
念願の美術科で、やりたいことが思いっきりできるとあって心に余裕もあるからだろう。
その分行事があるときなどは帰りがわたしより遅くなることがあって、心配でメッセージを送る。
『大丈夫だって言ってるじゃん、先にごはん食べてて』
21時頃まで帰って来ないこともあり、わたしは気が気ではない。
やっと帰って来たと思ったら、「外で食べた、ごはんいらない」と言う。
高校生になると皆こうなのだろうか? ラップをかけたおかずを冷蔵庫に入れながら、わたしは少しだけ気分が落ち込む。
余命7955文字。
高校二年生。
いわゆるスランプというものに陥ったらしい。
描いても描いても思い通りに行かないと。
わたしとしては若いのだからこれからいくらでもどうにかなると思うのだが、本人にしてみれば初めての経験で、絶望的な気持ちになるのには十分だったようだ。
家でも荒れていた。
いつもはそのままかけていたラジオも、ヘッドホンをして聴くようになり、話題を共有できなくなった。
ユキヒトさんとはときどき会っているらしい。
わたしにも定期的にメッセージが届く。
今度三人で食事をしないかと誘われた。
彼が気にしているのはわたしの余命のことだろう。
結局息子には話せずじまい。
荒れている今の時期に言うようなことでもない。
わたしは都合のいい日付をいくつかあげて、息子と相談してほしいと頼んだ。
翌週ユキヒトさんの行きつけの居酒屋を指定され赴く。
息子とは別々に向かった。
開いてしまった距離を埋められなかった。
久しぶりの朗らかな夕飯だった。
食事の最中に息子が訊ねる。
「それ、どういうこと」
ユキヒトさんが「義姉さんの時間を大切にしなければ」と私についてぽろりと述べたことを聞き咎めて。
「……話していないんですか、義姉さん」
「なに、母さんなにを隠しているの、俺に」
真顔で詰め寄られて、わたしは観念した。
まさかこんな形で告白することになるとは思わなかった。
「わたし、余命が7387文字なの」
高校三年生。
生徒会長に推薦されたが、断ったらしいと耳にした。
二年間続けた生徒会も辞めたそうだ。
夜、共にラジオに耳を傾ける穏やかな時間が戻ってきた。
そしてその頃息子の絵がそこそこ大きなコンクールで入選した。
タイトルは『母』。
作品展示会場で初めて見たその絵は、これまでわたしが見てきた息子の絵とはまるで違った。
どこか鬼気迫るもので、物悲しくもあった。
これは息子から見たわたしなのだろうか。
それともわたしへの息子の気持ちなのだろうか。
そこで美術科の担任の先生にたまたまお会いした。
「これを描いている時のリヒトくんは、ちょっと声を掛けられないくらいでしたね。
僕としてはもっと上の賞に行くと思っていたのですが。
でも、初コンクールで入選はすごいですよ」
進路の話になった。
「ぜひとも彼には、この道を進んでほしいと思っています」
熱く述べる先生に、わたしは「本人の願い通りにしたいと思っています」と返した。
夕飯を食べながらその話をした。
「俺、大学行かない。
働くよ」
びっくりしてわたしは息子の顔を見た。
てっきり美大に行くのだと思っていたから。
「どうして、絵を続けるんじゃないの?」
「母さんもう十分働いただろ。
今度は俺が養うから、好きなことしなよ」
わたしは笑いながら「何言ってるのよ」と言う。
「せめておまえが成人するまでは働くわよ。
大学行くお金のこと心配してるんでしょ? 奨学金とかは利用しなきゃいけないかもしれないけれど、そこまで考えなくていいわよ。
母さんへそくりたくさんあるから」
「そうじゃなくて」
息子は箸を置いた。
「もう、自分のために生きなよ、母さん」
なにを言っているのかわからなかった。
「わたしは好きなことをして生きてきたわ」
「嘘つけ。
俺に何文字使ったんだよ」
責めるような声色に咄嗟になにも返せなくて、わたしは押し黙った。
「俺が苦労かけ過ぎたんだろ、だから残り4桁しかないんだろ。
もう母さんはじっとしてればいい。
要らない苦労なんてしなくていい」
「そうじゃない、そうじゃない、リヒト」
わたしは首を振って否定した。
「おまえのお父さんに会ったとき、10000文字でもあげられるって思った。
でも違う、おまえには全ての文字を費やしたっていいと思ってきた。
苦労なんかじゃない、わたしがそう望んだからそうしたの」
「ほら、やっぱり俺じゃん」
涙声で息子は食卓に顔を伏せた。
いくつもの涙が降り落ちる。
すすり上げながら息子は言った。
「生きててよ母さん、生きててよ母さん」
わたしも共に泣いた。
どうしていいかわからなかった。
後日、ユキヒトさんに連絡した。
なんだかんだ結局頼ってしまっている。
「俺から話してみます」と請け負ってくれた。
わたしはなにか間違ってしまったのだろうか? 祈るような気持ちで連絡を待った。
数時間後に電話があった。
「しばらく俺のところから学校通わせてもいいですか?」
息子はいくらかの着替えを取りに来て、無言で行ってしまった。
小さなこのアパートで、初めてひとりになった。
もしかしたら、わたしにも必要な時間だったのかもしれない。
いろいろなことを考えた。
今できるだけの身辺整理も始めた。
やたらと手続きが面倒だったが、マサヒトとの共有財産の口座を、息子の名義に変えた。
通帳が手元に戻って以来ずっと積み立ててきたので、いくらかは残せる。
わたしとマサヒトから、息子へはそれだけ。
振り返ってみてもなにが良くなかったのかわからない。
わたしの心は凪いでいた。
わたしは、精一杯生きてきた。
それがすべてだった。
ユキヒトさんからは定期的に連絡が来た。
二学期になる前には帰る、と約束しているとのこと。
進路については、もう一度考え直すそうだ。
「義姉さんの気持ちも、リヒトの気持ちもわかるつもりです。
遅くなる前に結論を出すと言っていますので、もう少し時間をください」
わたしは「リヒトを宜しくお願い致します」と言った。
心から。
少しの沈黙の後、「はい」とユキヒトさんは言った。
進路のことは息子一人で決められることでもない。
もし指定校推薦を受けるつもりならすぐにでも先生と相談しなければならない。
「進学する。
大学行くよ」
そう電話があったのは二週間が過ぎた頃だった。
わたしは胸を撫で下ろし、「ありがとう」と言った。
わたしの文字数に、息子が縛られていいはずがないから。
余命5627文字。
大学一年生。
私服登校が小学生以来で、「何着て行けばいいかわからん」とぼやいていた。
もう母親に服を買ってもらうような年齢ではない。
友だちと「大学デビュー」服を買いに行っていた。
大学での友だちもすぐにできたようだ。
大量に持って帰ってきたサークル勧誘チラシを見て、その出来栄えがどれもプロのようで驚いたものだった。
おしゃれな服装よりも汚れてもいい服装で通学するようになったのはわりと早い段階から。
「へたに綺麗な格好してるより、ガッシュで汚れた服着てる先輩のがかっこいい」
という理由かららしい。
また、しばらくしてから「ハチクロなんかなかったんや」と遠い目をして呟いていた。
意味はわからないが現実と向き合ったようだ。
想定以上に画材などにお金がかかるらしく、ときどき単発のアルバイトなどもするようになった。
そのバイト代から少し家に入れてくれたりもする心遣いが嬉しい。
息子は自宅から通っているが、息子の友人には遠くからやってきて一人暮らしをしている子もたくさんいるようだ。
大変だろうから、そんな子をときどき連れてきなさいと言って、夕飯を共にすることがあった。
バイトの給料日前は特に喜ばれて、「白いごはん……」と涙ぐむ子もいたりするので、気の毒になってついつい冷凍していた保存食を持たせて帰らせてしまう。
一般的な男の子から見たら、うちの息子は小食なのだと初めて知った。
「リヒトのおばさんいい人だ」という評判だと聞いてしまっては、毎月二人で5kgの消費をしていた米を10kgにするのも仕方がない。
なんだかんだといって充実しているのだろう、愚痴りながらもとても楽しそうに日々を送っている。
息子が誘って、ときどきユキヒトさんも食事に来るようになった。
わたしに対するよりも饒舌に学校のことを話す息子の様子を見ていると、とても穏やかな気持ちになる。
「なんか美大って自由だなあ、羨ましい。
俺の大学は上下関係がキツかった、一年のときは行きたくなくて仕方なかった」
ユキヒトさんがぼやいた。
「いいでしょう、めっちゃ楽しい」と息子は笑う。
それを見てわたしも微笑んだ。
とても幸せだ、と感じていた。
尽きてしまうのはいつかと考えながら時を数える。
余命4716文字。
大学二年生。
彼女ができたらしい。
おめでとう。
同じ学科で他県から来ている子。
実は前から気になっていたらしい。
馴れ初めはマルセル・デュシャンについて二人で討論したことだそうだ。
なんだかよくわからないがすごそうだ。
「一人暮らしなんでしょう、ごはんに呼んだら?」と何度か水を向けたのだが、恥ずかしがらずにいろいろわたしに報告してくれる割には、連れてくることは恥ずかしがった。
「だって、マザコンだって、バレる」
理由を訊いたらそんなことを言うので、「もうバレているんじゃないかしら?」とわたしは笑った。
天然パーマが可愛らしいお嬢さんで、ミュージカルのアニーみたいだ、と思った。
がちがちに緊張して「はじめまして!」と挨拶するので笑ってしまった。
「いびったりしないから普通にしてちょうだい」と告げても、とても小さくなっていて息子にも笑われていた。
手ぶらで来るようにと伝えていたのに、わざわざ二駅隣りの有名店のケーキを買って持ってきてくれて、軽く夕飯に招待したつもりが却って気を遣わせてしまったと反省する。
「次からは本当に手ぶらで来てね、リヒトのお友だちは皆そうしてもらっているのよ」
「はいっ」と、やはり緊張したまま返事があった。
感心するくらいごはんの食べ方が綺麗な子だった。
打ち解けてみるととてもひょうきんな子だ。
きっちり洗い物の手伝いまでしてくれた。
親御さんの教育がしっかりしていたからこんなに素敵なお嬢さんに育ったんだろう。
うちの息子も見る目があるわね、と安心した。
きっと今後も間違いを選択することは少ないだろう。
そして、早生まれで少し成長が遅くて、幼い頃には心配もした息子が成人した。
レンタルの白い紋付き袴で成人式へ。
親バカが過ぎるが、会場まで行ってしまった。
中には入らなかったが、式が終わった後に入り口付近で友人と戯れる様子を見て涙した。
やっとここまでやってきた。
遺していく準備をしなければならない。
見守る時間はもう少し。
余命3900文字。
大学三年生。
夕飯に連れてくる友人の奇抜度が格段に上がった。
息子自身はあまり目立って変わった様子はなかったが、とても素朴な男の子だった子が、ある日ジュディ・オングのようになって現れた時はびっくりした。
「今更だけど、変人多いんだ、うちの大学」
大真面目に息子は言った。
それでも素直で可愛い子たちばかりだ。
帰省後に「うちの親からお世話になってますって……」とお土産を持ってきてくれる子も多数いた。
そろそろ将来のことを考えるときになって、夕食後にぽつりぽつりと真剣な話をしていく子もいる。
「もーそろOB参りしなきゃなんねーのかな」と切実な声も聞こえた。
まだ早いんじゃない? と思ったが、もしかしたら最近はそういうものなのかもしれないので黙っている。
それが他の親御さんとは違うところらしい。
「いいよな、リヒトのおばさんは理解があって」というのはジュディ・オングくん。
「うちはもう、将来どうするんだ、就職はあるのかって、しょっちゅう電話来る。
遊んでるようにしかみえないんだろうな」
「しかたねーよ、実際サラリーマンなるには微妙な学科だし。
楽しいからやってるのは本当だし」
息子も神妙に応じた。
「うちの母さんは、心が広すぎるんだよ」
「うちのと替えてくれ」
「断る」
真剣ながらも他愛ない会話に、わたしは笑った。
息子は先生と相談して、一足早くOB訪問を始めた。
それによって見えてきた将来の展望もあったらしい。
なんであれ、望み通りになればいいとわたしは願う。
この年の冬は雪が多く、息子の大学ではにわかに雪像制作大会になったらしい。
写真を見せてもらったらどれもこれも完成度の高い芸術作品に仕上がっていて、才能の無駄遣いに大いに笑った。
楽しい大学生活もあと一年。
悔いなく過ごしてほしいと思う。
ご迷惑がかからないようわたしは長年勤めた医療事務の派遣業務を辞した。
惜しんでもらえて本当に幸せ者だと思う。
わたしも長生きしたものだな、と思った。
余命3000文字。
大学四年生。
「美大にも卒論てあるの?」と訊ねたら、「それっぽいものはある」とのことだった。
その他に卒業制作があり、就職活動もしなければならない。
かなり忙しい一年になりそうだ。
いずれにせよわたしに手伝えることは何もないので、応援しているだけだけれども。
あの可愛らしい彼女とは方向性の違いで別れたそうだ。
喧嘩も何もしていない、円満破局で、今は以前のように仲のいい友だち関係だと。
確かにスーパーで出くわしたとき、あちらは「リヒトくんのお母さん」と笑顔で声をかけてくれる。
息子抜きでお茶をしたこともあったくらい打ち解けたので、少し残念ではあった。
その時期にユキヒトさんからマサヒトの両親に、つなぎを取ってもらった。
もうすぐいなくなるわたしとの間にいざこざが残ったままになるのは、息子にとっても良くないことだろう。
わたし、ユキヒトさん、ご両親の四人で会食を持った。
ご両親は頭を下げて、ひたすらいつかのわたしへの横暴をわびてくれた。
もう長い時が経ってしまって、わたしの中でも整理がついていた。
リヒトと会わせないようにしていたわたしの意地も、今となっては無意味に思えることもあって、こちらからも頭を下げた。
わたしは不完全な人間で親だった。
立派に何もかもできたわけじゃなかった。
間違いを犯し、未熟で、すぐに迷い、いくつもの選択肢でつまづいてきた。
それについて悔やむ気持ちはあるけれど、ではわたしはどうすれば良かったのだろう。
そのときそのときで、最善と思えることを為してきたつもりだった。
きっとわたしはこれ以外の生き方を選べなかったと思う。
これがわたしの人生なのだ。
そのことに、ただ責任を持とう。
わたしは前を向く。
息子の卒業制作は、いつかと同じタイトルの『母』。
それは春の訪れを告げるような、さわやかで美しい抽象画だった。
きっとわたしの今の気持ちを見透かされているのだ、息子には。
わたしの心は、とても穏やかだ。
悲しみの余地がないくらいに、とても。
息子の就職先はわりと早い段階で決まった。
昨年のうちにOB訪問をしていて覚えが良かったらしく、ミュージアムの経営もしている総合デザイン会社に声をかけてもらえたそうだ。
「web苦手なんだけど……まあ、頑張るよ」
多少の不安はあるのかもしれないが、それでも嬉しそうだ。
「ねえ母さん」
あるときラジオを流しながら、息子が声をかけてきた。
「なあに?」
「俺卒業したらさ、旅行いこう。
どっか、温泉とか」
「なに、卒業旅行? それってお友だちと行くものじゃない?」
笑ってわたしが言うと、息子も笑った。
「俺、母さんと行きたい」
「他には?」
「母さんと二人で」
「あら、ユキヒトさんにも言わないの?」
「うん、二人がいい」
「マザコンって言われちゃうわよ」
「もうとっくにバレてる」
息子は笑った。
ラジオパーソナリティも笑っていた。
「そうねえ、それもいいわねえ。
どこに行こうか」
考えてみれば、旅行なんて連れていってあげられたこともなかった。
余裕のない毎日で、ただ寄り添ってきただけだ。
きっとたくさん我慢をさせてきてしまったと思う。
わたしひとりで息子を育てるという選択は間違ってはいないとは思うけれど、申し訳ない気持ちと、深い感謝の気持ちとがわたしの頭を垂れさせた。
「立派に育ってくれて、ありがとう」
わたしが言うと、「なんだよそれ」と息子は笑った。
それがいつかのマサヒトのようで、わたしは笑いながら少し泣いた。
本当は大学の卒業式には親は参加しないものなのかもしれないが、わたしにとっても最後のそのイベントをどうしても見たくて、「行っていい?」と訊ねると、「むしろ来てよ、母さんはいろんな奴の世話してて、あいつらにとっても母さんなんだからさ」などと嬉しいことを言ってくれた。
卒業式は皆思い思いの服装をしていて、仮装大賞のようだった。
それでなのか思いの外親御さんの姿も見られたし、もしかしたら一般の見学の方もいらしたかもしれない。
本当にこの卒業証書が最後で、息子は社会へと出ていくのだ、と考えると、わたしはわたしの役目の終わりを明確に意識した。
ユキヒトさんがいらした。
ご両親も一緒だった。
これからはこの人たちがリヒトの人生を見守ってくれるのだ、と、わたしは深く頭を下げた。
ユキヒトさんは複雑な表情でじっとわたしを見ていた。
式が終わるといろんな子がわたしのところに来て、就職報告や感謝の言葉を述べてくれ、それでわたしは感極まって泣いてしまった。
「おばさんはもうひとりの母親です」という言葉をもらって、何も言えなくてただひとりひとり抱きしめた。
この後は皆で朝まで飲み明かすそうだ。
わたしはひとりで家に帰り、部屋を見回した。
変わらない位置にある息子の勉強机の上には、いつか求められて買った赤いミニコンポ。
わたしはラジオのボタンを押した。
初めて聴いた頃のパーソナリティから代替わりしていて、けれど番組の構成はほとんど変わらない。
わたしは聞き入って笑った。
ひとりで笑った。
近隣の県の有名温泉に二泊するため、わたしと息子は列車に乗り込んだ。
鈍行だからなのか昼間だからなのかわからないがとても空いていて、ボックス席に二人で座る。
「母さん、俺、ずっと考えていたよ」
澄んだ瞳で息子は告げた。
「俺は、母さんを失う覚悟があるかって」
わたしはその瞳を見返した。
「でも、そんな覚悟する必要ないって結論が出たんだ。
何があっても、どうなっても、俺は母さんを失わない。
ずっと一緒に生きてきた。
それを否定することなんて、誰にもできないから」
各駅停車で、やがて目的の駅に着く。
二人の二日分の荷物を息子が軽々と持った。
少しの坂道を登ったところにある宿。
わたしは息を切らして息子に手を引かれた。
「おぶってやろうか、母さん」
からかうように言われて、「じゃあお願いしようかしら」とわたしがからかい返すと、息子はしゃがんだ。
「あら、本気にしたの?」
「いいよ、それくらい、なんともない」
いつのまにか大きくなった背中に身を預けた。
「母さんさ、憶えてる?」
歩きだすと息子は言った。
「なにを?」
「園児時代、よく帰り道に、俺をおぶって帰ってた」
「あんたはすぐ寝ちゃってたわね」
「あれさー、起きてたよ、俺」
「嘘、歩きだしたらすぐ寝ちゃってたわよ」
「起きてた。
母さんがさ、歌ってるの。
それ聞いてた。
なんの歌かわかんないけど。
そんでさあ、泣いてんの。
俺、あのころどうしていいかわからなくて、寝たふりしかできなかった」
「あらあ、やだわ、バレてたのね」
「俺あのとき、母さんの気持ちが知りたかったけど、わからんかった。
でも、なんか、今ならわかる気がする」
少しずつ坂を登る。
「あのときの歌、うたってよ」
「いやだ、音痴だもの」
「いいよ、それで。
うたってよ、聴きたい」
請われて、わたしは懐かしい歌を口ずさんだ。
今は涙は出なかった。
とても心が晴れやかだから。
「母さん……ありがとう」
息子が代わりに泣いた。
「俺に、何文字かかったの?」
「そんなの、いまさら数えきれないわ」
坂を登りきったところはのどかな場所で、薄い青空がとても高かった。
心地よい風も吹いている。
降ろしてよ、と言ったが息子は動かない。
「幸せだった、母さん?」
「もちろん!」
わたしは心から言った。
「おまえの母になれて、本当に幸せだった」
泣きじゃくるその頭を撫でた。
少し硬いその髪の毛はマサヒト譲りだった。
いつか10000文字も惜しくないと思った、あの人に似た息子に、わたしはすべてを捧げた。
「だからね、おまえも幸せになってね」
ありがとう、ありがとうと呟きつづける息子の声を聞きながら、わたしはゆっくりと、目を閉じる。