よん
十年程前の卒業生が寄贈して以来、全く手入れのなされていないバクテリアの巣に飛び込んだ俺は、清浄された空気を求め池から這い出した。命からがらベンチの脚にしがみつき、上半身を池から引き上げたはいいものの、気管に侵入したバクテリアの猛攻にさらされ――。
「げほげほげほ! げほっ! げほげほげ……ぅえ!」
えずきながら、命からがら顔を上げると――。
「み、みみみみみ――」
みーんみんみんみん、季節外れのセミですよー。季節外れの水遊びですよー。季節外れの怪談ですよー。
「――みやがわ……は、はる、か……?」
――が、ベンチの上に立っていた。
……いや、言い直そう。浮かんでいた。浮かんでいるのだ。
突如宮川晴香が現れたショックと、寒中水泳の後遺症は如何ほどのものか。少なくとも、吹き飛んだ眠気を言いわけに使うわけにもいかず、今体感している感覚全てが、悲鳴を上げてこれが現実だと訴えていた。
濡れた肌に吹きすさぶ秋風の冷たさ+半分ヘドロ化した池の味+胸の詰まる息苦しさ=ベンチの上に浮かんでいる宮川晴香。学者も裸足で逃げ出すであろうこの公式が導き出しているのは、目が眩みそうなほどのリアルだ。そのくせ、足がないときた。
いっそ、半透明にでもなってくれればまだ幽霊だと折り合いも付けられたかもしれない。これほど血色のいい幽霊など、見たことがないのだ。今まで幾度となく見てきた心霊写真の住人達は一様に真っ青な顔をしていたというのに、宮川晴香は違った。それにだ。
腰まで届こうかというサラサラの黒髪。しゅっとした一重瞼の瞳に、高すぎず低すぎない形のいい鼻に、薄い唇。凛々しさと美しさと可愛さの絶妙なそのブレンド加減は、その辺の喫茶店のマスターには真似できまい。加えて、すらりとした一点の無駄のないそのスタイルが加われば誰もが「天使」と謳いたくなるのも無理はない。気体から昇華したとは思えないその姿は、生前の姿そのままに三次元の住人になりきっている。
しかし、惜しむらくは、足首から下がないことだ。物理法則さえ無視していなければ、誰も幽霊などとは思わないだろうに。
しかし――再会の喜びは、皮肉にも由々しき事態を引き起こす。
誰か知っていたら教えて欲しい。正しい幽霊との接し方。絶対馬鹿にしないと誓うから。いい加減、このまま黙って見つめ合うのは心臓に悪すぎる。「出て来い」とこちらのリクエストに応えながら、宮川晴香から声をかけてくる気配はないのだ。ならばこちらからアプローチするしかないのだが、しかし……!
幽霊との交信の仕方が分からないのだ。
……うん。意外に冷静な俺がいる。頭に上った血は全て、水に濡れた体をいじめる寒風が体温もろとも下げてくれているから大助かりだ。マジで風邪ひく五秒前だが、さっきから飛び跳ねている心臓の鼓動が鳴り止む気配はなかった。
かたや窓際の住人。かたや学年一の美少女。同じクラスとはいえ、住む世界の違う俺達に接点などあるわけもなく、まともに口を利いた覚えなど数えるほどしか記憶にない。それが、どうだ。今は、こうして手を伸ばせば届く距離で見つめ合う、俺と宮川晴香。
なんか、ロマンチックじゃあるまいか。住む世界の違う(文字通り)二人がようやくの再開を果たしたのだ。ここだけ切り取れば、まるで恋愛ドラマのワンシーンのようではないか。キモい? 一人よがり? ふははは、なんとでも言うがいい。
「ふ……ふぇ……ふぇっくし!」
でも、くしゃみが出ちゃう。だって、寒くて死にそうなんだもん。
俺のくしゃみに驚いて、ベンチの下に潜り込んでいたノラが「にゃん!」と悲鳴を上げて、すたこらさっさと逃げだした。それを合図に、止まっていた時間が動き出したではないか。確かに、俺は見た。宮川晴香の唇がゆっくりと動き出したのを。
「あなたも、私のことが見えるのね」
発信された電波の受信に見事成功。うわあ、幽霊って普通にしゃべれるんだぁーすごいなあー。などと内心で感心しながら石化する俺を一瞥し、宮川晴香は小さく息をついた。そして。
「っていうか、何なのあんた。超マジキモいんですけど」
「……はい?」
……い、今なんておっしゃいました?
「超、マジ、キモいんですけど」
……や、やはり人間と幽霊の言語は違うものなのだろうか? ご丁寧に言い直してもらって誠に恐縮なのですが、あなたのおっしゃっているお言葉の意味が私にはさっぱり……。
「超・マジ・キモいんですけど」
「……」
初めて知ったよー幽霊ってザラキが使えるんだー。人って死んだら魔法が使えるようになるんだねー……って……――幻聴? 幻聴だろ? ああ、幻聴に決まってる、頼むからそうだと言ってくれぇ!
しかし、そんな俺の心の叫びも虚しく、宮川晴香は腰に手を当て、その冷めきった瞳で俺を見下ろし――。
「黙ってないでなんとか言いなさいよ。あんたなんなわけ? ってかじろじろ見ないでよ、キモッ!」
――容赦なく、瀕死の俺に止めを刺した。
それからはもう、なにがなんだかだ。あんた昨日(正確には二日前)も来てたでしょから始まり、キモいだの、ストーカーだの、近寄るなだの、こっち見るなだの、存在自体あり得ないだの、容赦ない集中砲火。なんだ、なんだ、俺はひょっとしてお前の宿敵かなにかだったのか? この期に及んでそれって照れ隠し? なんてちょっぴり疑う自分を可愛く思ったりしたが、宮川晴香の口撃は鳴り止む気配もなくヒートアップ。
「こんな時間にわざわざ学校にまで来るなんてマジあり得なくない? そんなに私に会いたかったわけ? あは! キッモーい」
……俺の知らない宮川晴香がそこにいた。
天使と謳われた面影は微塵もなく、人の心を容赦なく足蹴にしながら、冷笑を浮かべるそいつは、もはや悪魔が乗り移ったとしか思えなかった。それとも、一度死んだことによるこれは副作用か何かか?
「ってか、いつまでダンマリ決め込んでんのよ。人がせっかく姿見せてやってんだから、なんかリアクション取んなさいよね。あんたのキモい視線受けるこっちの身にもなって――」
そのスピリチュアルアタック(精神攻撃)は、俺の脳髄にまで響き、トラウマコース直行だ。このふつふつと沸き上がってくる怒りは、不当なものか? 騙される方が悪いのか? ここでキレたら何ギレだ? ああ、めんどくさいこと考えるのなんてもうヤメヤメ。てへ。
……ひ、と、の、じ、ゅ、ん、じ、ょ、う、ふ、み、に、じ、り、や、が、っ、て、えぇぇぇぇぇ――!!!
「――さっきから黙って聞いてりゃ、べらべらべらべらべらべらべらべら……」
「はぁ?」
「それが、わざわざ会いに来てやったクラスメイトへの態度かっ!」
池から飛び出して、俺はベンチの上に飛び乗り、宮川晴香の眼前にビシっと指を指して言ってやった。言ってやったさ。こうなったらもう止まらんぞ、クソ女。
「は? クラスメイトって……あんた、誰よ。見憶えないんですけど?」
……しかし、現実とはかくも厳しいものか。
「な……み、見憶えないわけないだろ! 一学期も同じクラスにいて知らんで済むかっ!」
「知らないわよ。何キレてんの馬鹿じゃないの」
「キレるだろ普通! ってか、知らないんじゃなくて忘れてるだけだろ、今すぐ思い出せ! 同じクラスの高山圭一だよ! 出席番号十一番! 窓際の圭一さんとは何を隠そう、俺のことだ!」
やけくそになり、胸を張ってみせる俺に、宮川晴香は怪訝な顔を見せた後に、思いついたように「あー」と声を出した。
「知ってる知ってる、思い出した」
「ふ、ふん。やっと思い出したか。まあ、同じクラスメイトのよしみで――」
「口利いただけで呪われるって噂の窓際の圭一さん。そんなのが確かいたわね。あんたがそうなの」
いや、そんな噂が蔓延してんのか、初耳だぞ?
「あのキモオタ(絶対設楽のことだな)といっつもつるんでで、クラスの粗大ゴミと評判のツートップペアの高山圭一でしょ?」
忘れてもらってた方がましだったな……もう手遅れだが。
「ふーん、あんたがそうなんだ。道理で――」
それ以上は聞きたくねえぇ!
「と、とにかく思い出したんなら、詫びろ! 今すぐこの場で謝れこの偽者野郎!」
「……は?」
あからさまに眉間にしわを寄せるそいつに、俺は気を取り直して、腕組みをして見せた。気分は名探偵とでも言っておこう。簡単すぎるトリックではあったがな。
「は、じゃないだろう。お前みたいなのが宮川晴香なわけあるか。本物の宮川晴香は超とかマジとかそんな俗な言葉使わないんだよ。キモいなんて問題外だ。さっさと正体現わせこの偽者が。いくらモシャスを使っても、中身までは真似できなかったようだな、馬鹿め」
ふ、と微笑む俺に、宮川晴香は白い目をして、一言。
「あんた、馬鹿?」
はい、私はこの辛すぎる現実から目を逸らしておりました。
「うっせえぇ! 偽者だって言え! 頼むから偽者だって言ってくれえ! こんな性悪俺の知ってる宮川晴香と違うんだぃ!」
「だ、誰が性悪よ!」
「お前以外のどこに性悪がいるんだよ、この性格ドブスが! 自覚ないってんなら、真実の鏡持って来てやろうか、あぁ! そこに映り込んでる醜いババアがてめえの正体なんだよ、逃げずに黙って受け入れろぃ!」
「こ、この……!」
一瞬言葉に詰まる宮川晴香。この隙を見逃さず、俺は畳みかけてやった。一度は面食らいはしたが、口喧嘩でこの俺に勝てるとは思わないことだな、ふははは!
「大体なあ! 人のことキモいって、お前はどうなんだよ! この場に化けて出てるお前の方がよっぽどキモいんだよ! さっさと成仏しろよ、バーカ!」
「……!」
その瞬間に見せた宮川晴香の表情を、俺は見逃さなかった。いや、どうせなら、見逃していた方が良かったのかもしれない。なぜなら、宮川晴香の表情はみるみる曇り、しまいには噛みついてきそうだった勢いは見る影もなく、俺から目を逸らし、俯いてしまったのだ。
そして、俺は気付いた。たった今放った俺の言葉が、あまりにも不用意だったことに。
「な、なんだよ……。なんか言い返してこいよ、このヤロ……」
形勢は逆転した。それなのに、この重い空気はなんだ? 今ならば、煮るなり焼くなり俺の思いのままだ。
――宮川晴香は泣きそうな顔をして、無防備に俯いているだけなのだから。
それなのに、俺は待っていた。キモいでもストーカーでもこっち見るなでも近寄るなでもいい。もう取り消すことのできない俺の言葉を上乗せてくれるなら、どんな非難も喜んで受け入れる準備はできていた。でも、宮川晴香の口から漏れた言葉は……。
「あんたの顔なんて、二度と見たくない……」
悲しみに滲んだ宮川晴香の瞳を目の当たりにした途端、ズキンと胸が疼いた。それは、宮川晴香に対して今まで感じてきた胸の痛みとは全く別物で、後悔だけを俺の中に残して消える。
謝りたかった。それなのに、宮川晴香の表情は俺にそれを許さなかった。そして、まるで瞬間移動でもしたように、宮川晴香は俺の前からその姿を消した。
「ふざけんなよ……そんなの反則だろ……」
消える間際、確かに宮川晴香は――泣いていたのだ。
「――おい」
「ほぎゃああ!」
突如背後から響いた謎の声に、俺は驚きの余り勢い余って池へダイブを決めた。必死にもがいて命からがら生還した俺の顔に、まばゆい光が注がれる。懐中電灯という人類の英知を手にした謎の人物は、池の傍へ歩み寄り俺を見下ろした。
「こんな時間に学校に忍び込んで、何やっとんだお前」
「えっと……あの……その……」
「ちょっと、一緒に来なさい」
そうして、俺は守衛さんと仲良く深夜の学校を取調室を目指し探検することとなった。
これが後に語られることとなる「都市伝説。窓際の圭一さん」の真相である。……笑わば笑え。