さん
……やはり、不毛ダンスがまずかったのだろうな。
遅ればせながら、冷静に時刻を確認してみれば、すでに日にちは変わったばかりだった。床に就いたはいいが、二階から不毛だの不毛じゃないのと奇声が聞こえれば、誰だってまともに眠れるわけがない。半裸の奇怪なダンスを見せつけられれば尚更だ。その張本人が一人息子であれば……その心中いかばかりか。
とにかく、寝たふりをして、確実にまだ起きてやがるのだ、あの野郎……もとい、ウチの母親は。
そして、部屋で息を潜めて待つこと一時間。素足で音をたてず階下に降り、本日幾度目かののぞき行為敢行も失敗に終わる。騙されん、騙されんぞ。何を隠そう、ウチの母親完全に寝入った時は掛け布団を蹴りのけ、左足を掛け布団に乗っけるのだ。横向きに転んでいるあの状態は、未だ覚醒中の証!
「……」
両親の寝室の前で息を潜め、目を光らせてののぞき行為。
……なにやってんだろ、俺? って、考えるな! 考えたら負けだ、心が折れる!
そんな時こそ、叫ぼう。正義は我にあり! 大義は我にあり! と。こっちも夜明け前にもう一度宮川晴香に会いに行かねばならないのだ。思い立ったが吉日だ。背に腹はかえられないのだ。どうせ、部屋でまた悶悶と無駄に眠れぬ夜を過ごすぐらいなら、こっちから攻め入ってやる。覚悟しろ、宮川晴香!
と息まいてはみたものの……。
こちとら、父親のいびきが、子守唄に聞こえてしまう症状末期。
「……」
――長期戦になりそうだ。
秋の夜長に、仰ぎ見ればぽっかりと顔をのぞかす、中秋の名月。そう、故人も詠っているではないか。名月や――と。名月や――と。後の七五も食ってしまうほど、際立つ名月や。どれ、俺も一句詠ってみよう。
名月やああ名月や名月や。
……何の気休めにもなりませんでした。
今更ながらに、思う。深夜の学校など忍び込むものではないと。今更? そう、今更だ。笑わば笑え。ふっははははは、もう侵入しちゃったし逃げられないぞ、ふっははははは。
なんだ、ここは、RPGの世界か。ラスボスの居城並みにおどろおどろしいな。魔界でもあるまいになあ、ふっはははははははは……はははは……はは……は……。
……何の気休めにもなりませんでした。
要は、精神的な問題なのだ。
昨夜(正確には日付変わってるから二日前だ)、ここへ設楽と忍び込んだ時は、宮川晴香の存在はあくまで架空でしかなかった。しかし、今は実在していることが分かっているのだ。……幽霊として。
さて、ではここで問題だ。一方はおどろおどろしい化け物が出てくるお化け屋敷。中身は人間。一方は、顔見知りのクラスメイトが出てくる深夜の学校。モノホンの幽霊。どっちか一方、入れと言われたらどっちに入る。
……俺なら、間違いなく前者だ。って、考えるな! 考えたら負けだ、心が折れる! そんな時こそ、今一度叫べ。正義は大義は我にあり! 自信を持て、両親の寝室の前で寝る間も惜しみ、二時間ものぞきに没頭できたんだ。ほんとはやればできる子だ。
ここで諦めたら、その犠牲が無駄になる。「その」が何を指すのかは分からんが、きっと人間として失くしてはいけない何かだ。正義は大義は我にあり!
もう、決めたのだ。もう一度、宮川晴香に会うと。もう一度会って、もう一度会って……!
「……」
も、もう一度会って……?
う、うん。もう一度会って……えー……もう一度会って……うー……。
――もう一度会って、どうする!?
おぼつかないながらも、着実に前へ前へと進んでいた俺の足は、ここに来てまさかのどんづまり。ストッピングー! て、言ってる場合か!
もう一度会う、とそのことばかりに気を取られ、全く考えていなかったのだ。会って、どうするのか、を。話の肝を。目的の核心を。まったくもって考えていなかったのだ。
ほんの四か月ほどクラスが同じだった(夏休みは一度も会っていないので除外)だけの人間に「君に会いたかっただけなんだ! 理由なんてない!」などと言われてみろ。意味不明だ。下手したら嫌がらせだ。いや、ちょっと待て。
……今の俺に相手のことを気遣う余裕があるか? 四十時間近く脳を酷使し続け、不毛だの不毛じゃないのと精神的に壊れかけ、挙句の果てに両親の寝室を監視した俺だ。
ヒットポイントは残り3ぐらいだ。ホイミもケアルも使えなければ、ポーションも薬草も持ってはいない。そんなコンディションで、敵に遭遇しないよう一歩一歩用心深く歩きながら村に戻る勇者と同じ状態の俺に、相手を気遣う余裕?
あるわけないだろ、バカ野郎。
そもそも、そもそもだ。
宮川晴香が勝手に死んだりしなければ、俺がこんな思いをすることもなかったのだ。今頃はベッドの中ですやすやと眠り、起床し、登校し、同じ教室の片隅から宮川晴香のことをちらちらと盗み見ながら、小さいながらも意義のある幸福を満喫できていたはずだ。
確かに、その美貌と非の打ちどころのない人柄から天使と謳われていた宮川晴香ではあるが、リアルに人間離れされたらどうだ。出ると噂を聞きつけた馬鹿が一目見たさに深夜の学校に忍び込むなど当然の結果ではあるまいか。とにかく!
筋合いなどないのは分かっているが、文句の一つでもかまさなければ気が済まない。そんなことで気が済むとも思えないが言ってやる。
「――勝手に死んでんなよ……」
「にゃー」
「ほにゃぁーーー!!」
突如足元から聞こえた謎の声に、俺の心臓は陸上選手並みの高跳びを決めた。黒船に来航された江戸城の老中並みの衝撃とパニックだ。なんだ、なんだ、何なんだぁぁあ!
恐怖に凝り固まった体で飛び跳ね、そのまま「しぇー!」と叫べば決まる態勢でびつくりする俺に、しかし、それは「にゃー」と鳴きながら、擦り寄ってきた。
静まり返った空気が、俺の間抜けな悲鳴の余韻を飲み込む。そして、何事もなかったようにまた、辺りは静寂に包まれた。
……猫だ。
黒船ならぬ、黒猫が人懐っこい鳴き声を上げ、俺の足にすりすりと顔を擦りつけているではないか。不意打ちを仕掛けておきながら、奴はまるで仲間にしてほしそうにこちらを見上げている。しかし、深夜の学校に黒猫……不吉以外の何物でもない。
「どっから迷いこんで来たんだお前は……」
「にゃー」
「あれか。俺を呪いに来たのか?」
「にゃー」
「にゃーじ分からんだろう、にゃーじゃ。お前は猫ひろしか」
「にゃー」
「……にゃー」
「にゃー」
精密検査の結果、ただの猫であることが判明。
見たところ、まだ子猫だ。深夜徘徊とはけしからんガキだ、などと偉そうに言ってみたりして、俺はしゃがみ込みこやつの頭を撫でてやろうと手を出したが、逃げられてしまった。とててて、と身軽に歩き出したノラは、ある程度俺から離れると、足を止めてこちらを振り返る。
しばらく黙って様子を見ていたが、暗闇の中、不気味に光る黄色い瞳が動く気配はなかった。……じっと、俺を見つめている。いや、そんなに見つめられても困る。
「にゃー」
鳴かれても、困る。
昼間とは違い、肌をなでる風が冷たく感じるのは、ただの季節の気変わりのせいか、否か。振り返れば、裏口のフェンスはまだ近くにそびえている。あれを乗り越え、ここから逃げ出すことは可能だが、この時だけは俺の辞書から逃げるという項目は抜け落ちていた。
満を持して振り返れば、暗闇に浮かぶ魔性の瞳は未だ俺を監視していた。……上等だ。
腹を決め、俺はへっぴり腰でノラの元へ近づいた。すると、ノラはとてててと一定距離歩を進め、またこちらを振り返る。ただの気まぐれか否かは、ついていけば分かることだ。
三年生専用の自転車置き場をこそこそと横切り、体育館をやり過ごすと、すぐに我が西郷高校の正面玄関の横っ面に辿り着く。ここまで来ると、もう、ただの子猫が俺には化け猫にしか見えなかった。
ノラは迷うことなく玄関の裏を回り、生徒棟へと俺を先導する。
……なんだ、これは。昨日設楽と来た時は、こんな趣向はなかったですが?
生徒棟と管理棟。この二つに挟まれた中庭こそが、昨夜宮川晴香が現れた現場でもある。そして、ノラはとうとう生徒棟の西側へ――つまり、中庭の方へ姿を消したではないか。
「にゃー」
ノラの催促の鳴き声。……上等だ。
恐怖が背筋を伝うが、これはいわゆる武者震いというやつだ。昨夜は設楽が「幽霊」と「深夜の学校」に釣られ、まるで眼前に人参をぶら下げられた馬の如く馬鹿みたいに浮かれていたのだ。怯える気も失せるわ。……だが今だけは、そんな設楽にいて欲しい――なんて感じるほどの恐怖だ。ガッデム(なんてことだ)……!
「にゃー」
もたもたしている俺に、二度目の催促。間延びした呑気な声だが「早く来いよ、腰抜け」にしか聞こえない。拳で会話を交わすボクサーの如く、言葉の壁を越え意思を訴えてくるとは天晴れな奴。よし待ってろ今すぐ一発殴りに行ってやる。
闇に溶け込む暗黒の生徒棟の端っこで震えていた俺は、いよいよ覚悟を決め、中庭へと回り込んだ。
一番に目に飛び込んできたのは、真剣に考えている人だった。岩の上に座り、両足を引きよせ、拳を歯に当てて神妙に考え込んでいる人間のシルエット。ロダン作、考える人だ。何代か前の先輩方が残していったこの卒業記念のモニュメントは、出来そこないの日本庭園にはあつらえたような代物だ。中庭を飾る中途半端な小さな池の脇に添えられた銅像は、仄かな月明かりに照らされ、こんな時間にさえ考え込んでいた。
宮川晴香の姿は……ない。が、どこかに息を潜めている可能性は否めない。なんせ、昨夜は何の前触れもなく、突然目の前にその姿を現した宮川晴香のこと。どんなサプライズが用意されているか分かったものではない。
慎重に辺りを見渡し、警戒する。
「にゃー」
「む……」
姿が見えないと思ったら、考える人の後ろからノラがその姿を現した。
「おい、ノラよ。ここまで俺を先導してきたんだ。当然、お前は宮川晴香の使い魔とか、そういうノリだろ? だったら、今すぐ宮川晴香を出してくれ」
「にゃー」
「違います? おいおい、からかってもらっちゃ困るな。俺がどれだけ大変な思いしてここまで来たのか分かってんのか。眠くて怖くて死にそうなんだぞ、この野郎」
「にゃー」
「留守電の応答メッセージみたいな事務的なノリだな。いいよ。じゃあ、メッセージを残すぞ。宮川晴香に伝えといてくれ。人がわざわざ来てやったのにいないってのはどういうことだ。そっちがその気なら、こっちにも考えがあるぞ。明日も明後日もお前が出てくるまで毎日毎日ストーカーの如くしつこく付きまとってやるからな。覚悟しとけ。あと、最後に一番言いたいことだ。いいか、ノラ」
「にゃー」
「……勝手に死んでんなよ、馬鹿野郎。もう会えないとか、意味不明なんだよこの野郎」
「にゃー」
「よし。じゃあ、復唱してみろ」
「にゃー」
にゃーとな。
……拍子抜けとは、まさにこのことだ。俺は言い難い疲労感と虚脱感に襲われ、池の脇に作られたベンチに座り込んだ。
「マジ、疲れたんですけど……」
渾身のぼやきは、誰に届くこともなく無に還る。
今世紀最大の肩透かしを食らい、もはや立つ気力さえ失った俺に、とててて、とノラが駆け寄ってくる。こいつの気まぐれに付き合わされたおかげでこんな目に……! しかし、伝令役をこの場でどうこうするわけにもいくまい。動物なら、あるいは幽霊と交信することも可能かもしれないではないか。
「おい。さっき俺が言ったこと、一言一句漏らさず宮川晴香に届けてくれよ。頼んだぞ、ブラザー」
そう言って、俺はノラの頭に手を伸ばした。
ああ、もうヤケクソさ。なんか、眠くて眠くて眠くて虚しくて眠くて悲しくて眠いのだ。ここまでして、またこんな思いをするハメになるとは考えていなかったのだ。しかし、そんな傷心の俺の手をかわし、ノラは軽い身のこなしで、ベンチの上へぴょんと飛び乗った。
「……十点」
栄誉ある最高点を叩き出すも、ノラは無関心だ。いや、喜べ馬鹿野郎。
緊張の糸が切れたせいか、絶望的な眠気が俺を支配していた。しかし、ぼんやりとノラの次の行動を見守っていた俺に、ノラは予想外の行動に打って出ていた。
そう。その現象は、もう始まっていたのだ。
ノラの体から、蒸気のような気体がゆらゆらと浮かび出していた。奇怪なその現象に、本来ならその身を心配してやらねばならないのだろうが、そんな余裕などあるはずがない。
なぜって?
深夜の学校で、幽霊が出ると噂されたスポットで、奇怪な現象が起こっている。そして、その奇怪は加速し、俺の心の準備など全く考える素振りもなく、とうとう臨界点を突破したのだ。
ノラの体から抜け出したとしか思えないその現象に対する説明も、前振りも何もなく、蒸気は空中で宮川晴香を生成したのだ。
「……み、み、み、みみみ……みや、みや……」
金魚のように口をパクパクさせる俺を、宮川晴香がじっと見つめている。昨夜とは違う、静かな瞳で……俺を見つめて――。
ああ……世界が百八十度反転している。なんだ、これは、なぜ池の水面が俺の眼前に、って、宮川晴香は何処へ!?
そんな調子で、俺はベンチからひっくり返り、勢い余って後方回転伸身ひねりで、池へダイブを決めた。
……何点だ?