じゅうご
本当に、あの時はケルベロスだって怖くなかった。
後で後悔することになっても、情けなくても、辛くても、惨めな思いをすることになっても――構わない。そう、思った。でも、本当はそうじゃなかった。
全部、抱えるのが怖かった。だから、求めない振りをして、望まない振りをして、ただ、宮川晴香のためだけに――そう自分に言い聞かせて、本当の気持ちから逃げてたのも分かってた。
苦しくないのか、ふざけるな、死んだからって、もう消えてるなんて、諦めるな――って。あいつに偉そうに言っといて、諦めてるのは俺の方だってことも先刻承知してたのに。
(――……なんで、私のためにそこまでしてくれるの……?)
あの夜、嘘で固めた強がりが溶けて、消えた。
全部決めたはずだったのに。これでいいはずだったのに。自分の気持ちも諦めきれたと思ったのに。
やっぱり……どうしたって、やっぱり。
――あいつのことが、好きだった。
学園祭のその日が、Xデーであることは誰も知る由もなく。
キャッチフレーズの「学園祭? 笑わせんな、愚民共。イッツァ、オカルト生誕祭!」の実体が「失恋公(大ヤケ)一発打ち上げ花火」であることは、オカルメンツの知る由もなく。そしてまた、Xデーが人知れず自然消滅し、人類が救われたことも同様に。
全部、あらゆるもの、何もかも。
――片っ端からどうでもいい、今日この頃。
一度ならず二度までもお上(守衛)の世話になった問題児は、もはや笑って済ませられるレベルを超越し、また一つ新たな伝説を生み出した。あの夜の俺はまさしく「ダメ。ゼッタイ」のキャッチフレーズで禁止された薬(自主規制)の禁断症状のまさにそれ、とばかりに警察に連行された挙句、尿まで取られた。……マジだ。マジ話だ。もちろん、シロだったからといってタダで済むはずもなく、母親には泣かれ、父親には思いっきり殴られるおまけ付きで、今度は二週間の停学処分。そして、その瞬間、これまでの俺の努力は全て水の泡――。
そういうわけで、生まれ変わるなら貝になりたい俺は、伝説立ち上げ以降、ひたすら部屋にこもり、ベッドの上で貝になりきっている。いっそ、このまま死んでしまいたい。
三日三晩、殻に閉じこもり、結果明日に控えた学園祭。あいつの成仏可能までのリミットまで後二日……つまり、後二日このまま殻に閉じこもっていれば、何もかも全部終わらせられる。その間、なにもせず、全部忘れて俺は――。
何度も込み上げてくる感情を飲み込んで、寝返りを打ち様、そのままベッドから転落した。後頭部を強打して呻いていると、床に散乱した写真が嫌でも目についた。
その写真全部、学年行事毎に張り出される記念写真の中から俺がセレクトした宮川晴香の写真だ。何が悲しくて自分の心霊写真を毎回見に行っていたのかと問われれば、好きな女子の写真が欲しかったからだと答える。おそらく、今後俺が行事毎の記念写真を買うことは二度とないだろう。
冷ややかなフローリングの上で胡坐をかく。床に手をつき、天井を見上げ、蛍光灯を凝視して、ギュッと目を閉じる。瞼を上げると視界がぼやけた。蛍光灯から注がれる光の輪郭を見つめながら、溜息も底をつく。考えるなと言い聞かせても、その考え自体が、一番考えたくないことを連想する。いくら硬い殻に立てこもってみても、この痛みだけはどうしたってごまかせない。
視線を落とすと、また胸の奥の奥が疼いた。根付いた気持の根っこは思っていたよりずっと深くて厄介だった。写真を床に撒き散らしてみたところで、気持ちごと全部捨てられないことなんて、宮川晴香が死んでからもそれを捨てられなかった時点で確定してた結果なのかもしれない。でも、こんなのは聞いてない。想像もしてなかった。
散乱した写真の中の一枚を手に取って、宮川晴香の笑顔を見ずに済むように裏返す。卑怯だとしても、それを言われる義理は誰にもない。そのまま両手の中で握り潰すと、薄っぺらい写真は簡単にへしゃげてただのゴミに姿を変えた。十数枚の丸まったゴミを、勉強机の脇に置いたゴミ箱に狙いを定めて投げるのに、一つだってゴミ箱の中に丸めたゴミは入らない。
音もなく、ゴミはまた床の上に転がる。拾おうとして立ち上がろうとしても、足腰に力が入らなかった。やけに視界がぼやけると思ったら、涙がぽたぽたと床に零れた。
……確かめようと、しなければよかった。
こんな気持ち、こんな思いをするぐらいなら、分からないままでもよかった。
「……馬鹿みてえ」
意味もなく呟いた声は、想像以上に情けなく震えて――消えたと同時に誰かが俺の部屋をノックした。
慌ててシャツの袖で涙を拭ってから、投げやりに「なんだよ」と声を荒げる俺に帰ってきた声は。
「……こんにちは、高山君」
母親ではなく、間違いなく、六道のものだった。