じゅうよん
まるで校門から内側に特殊な結界でも張ってあるかのように、校内に入ると体感温度が二度ほど下がる。夜の冷気を帯びたコンクリートの校舎も壁も人目を盗んで闇属性に豹変する深夜。月夜のテリトリーを支配するは、懐中電灯常備の守衛のおっさん。普段の影の薄さは世を忍ぶ仮の姿。その正体は夜の国をさすらうタフガイ(用心棒)――とばかりにここ最近はその包囲網が厳しくなっているのは自業自得というものか。
窓際の圭一さんが都市伝説と化して以降、教え子を全く信用しない担任教師の差し金で「家庭でも圭一君には注意していてください」などと告げ口されようと、普段の己の素行を顧みれば「信用してちょ」などと抗議するのもおこがましい。親が我が子も信用しないこのご時世。 時代の犠牲となった宿命の申し子は、プチ家出少女になりきり、夜な夜な窓から部屋を抜け出しましたとさ、という冗談みたいな本気の話。つまり、それほどの犠牲を払わなければ幽霊とは張り合えないのだ。俺としては「きぃえぇええ! 悪霊退散! 封魔滅殺!」などとテレビ画面の向こうで叫ぶ独りよがりな霊能力者よりはよほど自分の方が現実的で健全で気配上手と勝手に自負はしている。
などと、苦労話に花を咲かせてみても苦労はすぐに俺の身に降りかかる。一日の始まりから(只今の時刻は0時過ぎ)異常事態の対処を急かされる俺は結構な不幸体質だと今更ながらに自覚する。
この三週間顔を合わせれば一口目には「ウザい。来んな」などと俺をはねつけるのが日常茶飯事なだけに、この事態をエマージェンシーエマージェンシーと言わずなんと言う。なんてったって、宮川晴香から俺が来るのを待ってましたなんて、皆既月食よりもお目にかかれるチャンスは少ない、怪奇現象だ。ちなみにここは笑うとこだ。自分で言ってていろんな意味で虚しいけど。
とにかく、宮川晴香の性格を考慮して拡大解釈すると「話があるけど、素直に話すのなんか癪だし」といったところか。もしかすると本当に偶然、ええ、偶然あの辺を散歩ならぬ散浮していただけの話かもしれないし、可能性としては後者の方が高そうで、偶然の確率に勝てない俺の存在価値って? と凹まないこともないが、このチャンスを逃す機会はないだろう。
全部、うん、ぜーんぶ、付け込まれるような隙を見せた宮川晴香が悪いのだ。この機に乗じて、積もりに積もったうっぷんを今夜……ケッケケケ……などとやましいことはこれっぽっちも思ってはおりませんよ、ええ、はい、決して!
「――っつか、どこに隠れてんだあいつは……」
ニ十分ほど物騒な校内を散策するも、宮川晴香の姿は見当たらない。夜になればクロから抜け出し三次元の住人へと昇華する宮川晴香に気配はないので、ガチで隠れられてはこちらに勝ち目はまるでないのだ。
とりあえず、宮川晴香の隠れそうな、校内すべての女子トイレの奥から三番目の個室も、音楽室も美術室も化学室も回ってみたがいなかった。いや、洒落じゃなくてあのバカはホントにそうやって俺に学校七不思議コースを回らせるのだ。毎夜宮川晴香にはかくれんぼの鬼をさせられているが、あいつが笑顔を見せるのは、幽体を利用したリアルいないいないばーをかまされて、思わず悲鳴を上げてビビる俺のリアクションを馬鹿にする時ぐらいだ。なんだかんだ言って、最後まで俺主体のかくれんぼに付き合う辺り、あいつも少しは楽しんでいると俺は思う。
……そして、まあ――密かに宮川晴香の笑顔を見るのが楽しみだったりもする。
しかし、ひとしきり笑った後には必ず宮川晴香は一人屋上へと姿を消す。まるで夢から醒めるように笑顔が曇ったその後に、明るい笑い声は余韻さえ残さない。俺はそんな宮川晴香の傍にいることも出来やしないし、気休めの言葉すら与えてやれない。分かってる。宮川晴香がその笑顔を本当に向けたい相手。傍にいて欲しい相手。それは――俺じゃないことぐらい。
だから、俺はなることにしたのだ。
宮川晴香を超越したひねくれ者に。
「――でも、あいつがあの調子じゃ……そもそも、あいつ以上のひねくれ者ってありえねー。てか、あいつまさかとっくに屋上行ってんじゃないだろな。ったく、あの馬鹿は。呑気に黄昏れてる場合じゃねえだろが。もうリミットまで五日しかねえのに……仕方ねえこうなったら――」
「なによ」
「ぎゃああ!」
全身の毛穴を吹き出さんばかりに仰天して振り返ると、そこには宮川晴香が立って、いや、浮いていた。
「――っくりしたー……。お前いつの間に――いや、そういうことか。お前、もしかして、ずっと俺の背後に張り付いてやがったな。そーだろが、きったねえ」
「そんなことどうでもいい。それより、なにって聞いてるの」
「は? なにって……なにが」
いつもなら、とっくに俺のリアクションを馬鹿にしているはずなのに、隠す気のない怒気を孕ませたその顔が緩む気配はまるでなかった。おまけに、こちらが目を丸くすると、まるで対抗でもするように、細められた瞼の隙間からのぞく瞳に熱がこもる。いや、訳分からん。
「知ってんだから、私……」
「な、なんだよ。も、もしかして、今俺が言ったこと怒って――」
「そんなことどうでもいいって言ってんでしょ!」
まるで、背伸びでもしたようにズイっと俺の顔の高さと同じところに宮川晴香の顔が迫った。宙に浮くことのできる宮川晴香の伸縮自在の反則技はこんな時にさえ心臓に悪く、俺は思わず後ずさる。顔面すれすれで破裂した宮川晴香の声は吐息さえ失くして、俺の顔にかかるのは冷たい空気だけだった。
追い打ちは――どうやらない模様。
勝手に詰め寄ってきといて、俺の顔を少しの間睨んだだけで、宮川晴香はその目を逸らした。おそらく、表に出した不満も不安も、下唇を噛み締めただけでうまく噛み殺せると思ったのだろう。自分が今、泣きそうな顔をしてることさえ、多分宮川晴香は気付いていない。
「……もういい」
まるで横暴な審判の如くそんな独りよがりな言葉を落として、俺に背中を見せる宮川晴香。どうやら、ここまでやってもまだ俺に本音を見せるのは癪らしい。これ以上、俺にどうひねくれろというのだ、このひねくれ者。
「おい、待て。なに勝手に一人で納得して話終わらせようとしてんだ、お前。つーか、訳分からんから、まずは順を追って話せ。とりあえず、お前が西門にいたのは俺を待ってたってことでいいのか」
「……ほざけ、ハゲ」
「言っとくけど、お前がこっち向かないと俺は俺の好きに話進めるぞ。で、俺を待ってたのはなんか言いたいことでもあったからだと見受ける。なんだ、素直に言ってみろ」
「……もういい。あんたに付き合ってると、馬鹿がうつる」
「ああ、そうか。それで馬鹿菌に汚染されたお前は今、馬鹿みたいなのか」
「……うっせえ」
挑発にも乗って来ず、宮川晴香の華奢な背中が俺の傍から遠ざかる。離れていく細い肩に手を伸ばしてから、俺はこの手が決してそこには届かないことに気付いて、頭をかいた。
「――あのな。俺はテレパシーとか使えないんだよ。言いたいことは言ってくれなきゃ分かんねえだろ」
「……うっさい。ついてくんな」
言葉とは裏腹に、早足ならば追いつく程度の速度で逃げる宮川晴香のお望み通り、俺はその後を追いながらため息をつく。
「ったく。ほんとお前逃げんの好きだよな。それともお前の正体ってメタルスライムなわけ? 毎日毎日俺から逃げて逃げて逃げて逃げて逃げまくりやがって。そうやって、このまま何もせずに最後まで逃げおおせる気かよ、このメタルチャンピオンキングヘビーデストロイスライム」
「……」
「おい、宮川」
「……」
「宮川?」
「……」
「……あの、宮川――さん?」
まあ、その。なんとなくそろそろ危ないかなー? とか思ってはいたのだが……。
ちなみに、西門から校内に侵入した場合、一番に拝むことになるのは生徒棟と管理棟の横っ面だ。そして、そこから東側に向けて伸びる校舎の管理棟側の廊下を宮川晴香は突き進んでいるわけだが、ここで注意点が一つ。東の最果てには正門が鎮座し、その手前には当然の如く玄関が存在する。そして、正門スペースには地獄の番犬ケルベロス、もとい守衛のおっさんの砦、もとい守衛所があるわけだ。
何を血迷ったか宮川晴香は廊下を出て、デッドゾーンへ突撃開始。管理棟を背に、玄関前のロータリーも突き進み、正門前のスペースのど真ん中で歩みを止めた。
正門付近は満月の恩恵を受け、校舎の影も届かない。月明かりをスポットライトに、宮川晴香の姿は薄闇の中、鮮明に浮かび上がっていた。
まるで、夢の国から抜け出してきた妖精、とこれは宮川晴香が好きだからとひいきしての感想じゃなくて。額にかかる前髪も、整ったその顔も、身に着けたシャツの白さも、プリーツスカートの色柄も、腰の下で佇む両手の指先も、細い腰も、華奢な脚も――預けられたそのまなざしも。体温さえ感じさせそうな現実的な光景なのに、地に足のつかない非現実的な光景も加わって、その存在感は夢のように曖昧になる。
その曖昧さが触れただけで壊れてしまいそうな儚さに姿を変える瞬間がある。だから、触れることもできないのかもしれないと、本気で信じそうになる瞬間がある。全部自分の弱さのせいだと分かっていても、強い自分が想像できない。もしかしたらとか、夢じゃないかとか、曖昧さに頼って願望に負けそうな時がある。
もし、宮川晴香が生きていたら、一ミリだってこんな思いはせずに済んだのにとか思ったり。でも、いつも宮川晴香は俺に弱音なんて吐く暇も与えないほど自分勝手で、だから、一緒にいる時だけは、辛さも全部忘れられた。
正直、まともに付き合うには面倒くさい宮川晴香のひねくれ方が、俺にとっての唯一の救いなのかも知れなくて。その手加減のなさが、このあり得ない状況の元凶だろうと、俺はやっぱり宮川晴香を嫌いになれそうにはない。
――人目もはばかる必要のない宮川晴香は、堂々と正門スペースのど真ん中で、ケルベロスの召喚に見事成功。俺は、真っ向から勝負を挑んでくる宮川晴香に対し、校舎の影にこそこそと身を隠すことしかできず「卑怯者!」の文句一つよこすこともできない。宮川晴香の横に馳せ参じる守衛所は、こんな時間にも消灯せずに俺達の平和を守っている。
「ほんともう、最悪。意味分かんない、あんた」
宮川晴香の本音がいよいよ満を持して現世に顔を出す。しかし、その台詞はそっくりそのままお前に返す。などと、俺は心の中で独り言を呟いた。
「私があんたのこと待ってたって……? ――馬っっっ鹿じゃないの! 私がいつあんたにそうしてって頼んだのよ! 私がいつあんたに助けてなんて言った?!」
確かに言われた覚えはない。
「私は言ってない! 助けてなんて言ってない! そうしてなんて頼んでない! ここに来てほしいとも思ってない! 毎日毎日毎日、あんたが勝手にやってることでしょ! 馬っ鹿じゃないの! なにが私の秘密を知ってるよ! 笑って成仏しろよ! 私の思い残しがなんだって、あんたには関係ない! 関係ないんだからっ!」
確かに、三週間前のあの夜に俺は言った。俺はお前の秘密を知っている。お前の思い残しを知ってて、その上で全部晴らすつもりだ。何が何でも笑ってお前を成仏させるつもりだ。――と。
その言葉を宮川晴香に信じさせる物的証拠を、俺はこの手に握っていた。その瞬間から、宮川晴香にとって俺が敵になったのか味方になったのかは置いといて。両者合意の上で、あえなくその夜、宮川晴香を召喚するのに使った俺の究極極大呪文はただの「自虐ネタ」として丸く収まった。
「関係ない関係ない関係ない関係ない、あんたには関係ないっ! 私にだって! 関係ないもん! 今さらあんたがあの女となに画策してたって、私には関係ないんだから!」
……はい?
「私のこと除霊する気なら初めからそうすればよかった! 私! ここにいちゃいけないんでしょ! ――初めっから私……あんたのことなんてぜんっぜん信用してなんかなかったんだから!」
……つまり、えっと。お前もしかして、今日(正確には昨日の放課後)六道の後をつけてる俺をたまたま見かけたと? それで、挙動不審な俺の様子を裏切りの決定的瞬間だと思いっきり勘違いしていると? 実はこれ、アイタタタな決定的瞬間だったのか?
――ようやく宮川晴香の異変に答えがついたのはいいが、未だ興奮冷めやらぬ奴は、決壊したダムの如く、図らずもこれまで貯め込んだ本音を俺に晒した。
「なんとか言ってみなさいよ卑怯者! 私の前に出ても来れない臆病者のくせにっ! なによっ! 私のこと全部知ったような顔してっ! なんにも知らないくせにっ!」
「……人のこと言えんのかよ」
「いい加減もう止めてよ! こっちが忘れようとしてんのに、なによ! 馬っ鹿じゃないの!」
「……」
「どうせ、もう死んでるんだから! もういいんだからっ……! 私っ……私の声……もう……届かないんだからっ……」
散々人のこと罵って、怒って、糾弾して。おまけに、地獄の番犬まで脇に据えて。そこまでしないと弱音も吐けない宮川晴香の乙女心も何も、汲んでやる気は俺にはない。その程度で俺が手も足も出せないと思ってるなら、その生クリームより甘い認識を後悔するまで改めさせてやる。
その涙も嗚咽も、どうせ全部お前は俺のせいにするから。その見返りぐらい、求めたって俺に罰は当たらないはずだ。
心の中で開直を唱えて、俺は捨て身覚悟の玉砕戦法に打って出た。
校舎の影から抜け出し、まっすぐに宮川晴香の元へ向かう。歩み寄ってくる俺に、宮川晴香は濡れた瞳のまま、まるで信じられない生物を目撃したような間抜け面を向けていた。
「……あ、あんた、なにして――」
「言いたいことは腐るほどあるが、とりあえず全部飲みこんでこれだけ、訊いとく。お前、ホントにそれでいいのか」
俺の言葉に、案の定宮川晴香は目を逸らす。
「……いいって言ってんでしょ」
「それがいいって奴の面か」
「……」
目を逸らして、次には俺に背を向ける。馬鹿の一つ覚えのその意思表示が無意味なことにこいつはいつ気付くのだろう。
「言ったはずだろ。お前がこっち向かないと俺は俺の好きに話進めるぞ」
「……そっちこそ、いい加減守衛に気付かれるから」
「そんなもんが怖くてお前のストーカーが務まるか」
「……キモいのよ」
「言ってろ。こっからは真面目な話だ。いいか。――俺も、もういいやって思ったことあるんだよ。叶わないぐらいなら、もう忘れようって、なかったことにしようって思った。でも、その時苦しかったよ。苦しくて苦しくて、その苦しさってのは自分の気持ちに嘘ついてる証拠で。……なあ。どうせとか、もういいとか。じゃあ、今お前は苦しくねえのかよ。なんともねえのかよ。こっち見ろよ、今俺が話してんだ。……お前! 自分の気持ちに嘘ついてねえのかよ!」
俺の声に、宮川晴香はビクッと肩を震わせた。主の身の危険を察知したように、守衛室からおっさん面のケルベロスが威勢よく飛び出してきた。それでも、頑なに宮川晴香は振り向かない。
「……ばっかじゃねーの。嘘なんてついてない。私もう死んでんだよ……今さらなにしたって……どうしようもないの!」
「じゃあ、何でお前泣いてんだよ! なに勝手に諦めてんだよ、ふざけんなっ!」
宮川晴香をすり抜けて、ケルベロスが俺の前に立ちはだかる。俺はそいつを力任せに突き飛ばして、宮川晴香の背中に叫んだ。
「死んだからって、お前の気持ちはまだ生きてんだろ! もう消えてるなんて言わせねえ、俺はお前の涙をもう見ちまったから! 性悪で、口が悪くて、ひねくれてて、でも、一途にずっと好きな人のこと想い続けてて! 周りの奴に見えてなくても俺はそんなお前のこと見てるから! だから、俺は絶対諦めたりしねえ! お前の最後の心残りが晴れるまで、お前のずっと貯め込んでるありったけの気持ちを昇兄ちゃんに伝えるまで! 絶対! 俺は……!」
気がついた時には、俺はケルベロスの餌食となり、地面に押し倒され羽交い絞めにされていた。耳元でケルベロスの鳴き声は響くのに、その言葉の意味はまったく聞き取れない。口の中に広がる血の味も頬に押し付けられる地面のコンクリートの冷たさも。全部放り出して、俺の目には宮川晴香しか映らなかった。
「……そんなの。頑張っても笑われるだけだよ」
震える声を落とす宮川晴香に、俺は地べたを舐めたまま、声を振り絞った。
「昇兄ちゃんは、絶対笑ったりしない……。お前の気持ちきっと――」
「違うよ……違う。私のことじゃないよ……」
その時、やっと振り返った宮川晴香は、今まで一度だって見せたことのない顔を俺に見せて。
「――……なんで、私のためにそこまでしてくれるの……?」
そう、呟いた。
あまりにも不用意に、線引きした気持の内側に踏み込まれて、俺は。
なにも、答えることができなかった――。