1.コルシェ・ド・ピアジェ
1台の馬車が山道を疾走していた。
馬車の主は大商人ピアジェ家の令嬢、コルシェ・ド・ピアジェ。
彼女はある貴族との結婚をひかえ、大急ぎで結婚式場へ向かっていた。
「ヴァンクリフ様の元へはまだ着かないんですの?」
コルシェは苛立ち混じりの言葉を御者に投げる。
「この山を越えればすぐですよ、お嬢様。そのための近道だ」
年老いた御者の男は馬を走らせる手綱を緩めずに答える。
ロイズ・ヴァンクリフ。それが婚約者の名前だ。
地方領主である彼とコルシェは、婚約者にも関わらず面識がない。
商人であるコルシェの両親が資金援助を求めるための結婚、いわゆる政略結婚であった。
大貴族である彼は時間に厳しいことでも知られ、彼に仕える者が少しでも遅れるようなことがあれば厳罰に処されるという。
そして、今回の結婚にも奇妙な取り決めがあった。
『日が沈むまでに必ず結婚式場に来ること』
一分一秒の遅れで婚約が無くなるとは考えられなかったが、ピアジェ家ではこれはこちらの誠意を見るための条件であると考え、今こうして馬車を走らせている。
「お嬢様、どうか旦那様と奥さまをお許しください。領主様とはいえ、顔も知らぬ男とのご結婚は不安でしょう」
「我が家が資金難であることは存じております。私ももう16ですもの。商家の娘として、お役目は心得ておりますわ」
コルシェの言葉にはやせ我慢も含まれていることを御者は察していたが、それには触れず黙って馬を走らせる。
馬車は岩肌の露出した、細い曲がりくねった道に差し掛かっていた。
「それにしてもこの道は大丈夫ですの?私たち以外に誰もいないようですけど」
「普通は皆あまりここは通りたがらないんですがね。急いでるんで仕方ありません」
その時、横の岩壁の一部が崩れ、石の雨が降った。
幸い馬に怪我はなかったが、その衝撃で馬が驚き、暴走を始めてしまった。
「こ、こら!おとなしくしろ!」
御者は手綱を引っ張り落ち着かせようとするが、馬は急カーブに猛スピードで突進していく。
「うわぁっ!」
カーブに気づいた御者が慌てて手綱を引っ張ると、馬は暴れながらもなんとか曲がり切った。
「ハァッハァッ……ご無事ですか、お嬢……さ……ま?」
落ち着きを取り戻した馬を停止させ後ろを振り返る。
そこには外れた馬の留め具だけがぶら下がっていた。
御者は慌てて周囲を見渡すと、留め具が外れ、崖に向かって直進する馬車を見つけた。
先ほどの落盤で留め具に傷がついていたのか、カーブの時に切れてしまったのだ。
「キャアッ――――!!」
崖に飛び出した勢いで宙に投げ出されるコルシェ。
虚空に向かって手を伸ばすが、そのまま馬車と共に落下し、やがて見えなくなってしまった。
「お嬢様ッ―――!!」
コルシェが落ちた崖下に向かって必死に叫ぶが、返答はない。
「な、なんてことだ……」
御者はしばらく呆然と落ちた先を見つめ続けていたが、やがて立ち上がると、
「――ま、お嬢様なら何とかなるじゃろ」
そう言って馬に乗り直すと、そのまま山道を進んで行った。