こころのトンボ
それからいくらか眠っていたらしく、ココロが目を覚ますとお腹の傷は塞がっていた。
完全ではないにせよ、出血も落ち着いており、傷跡は赤く少々みっともなく腹の上を這いずっているが、服を着てしまえば問題が無い。
のっそりと起き上がって腹に触れる。
傷の具合を見る為だったが、何かべたべたしていて自分の肌ではないような感じがする。
血が乾いてもこうはならない。ねとねとぷるぷるしている血――少女がもう少し色んな本を読めたら、それが血餅という名前があるとわかっただろうが、そこまでの知識は無かった――でさえも、完全に乾いてしまえばぱらぱらと砂か埃のように落ちていくのに、それでもない。
これは何なのかと首をかしげていると、部屋の空気を割るような声が聞こえてココロは反射的に窓を見た。
「臭っせぇな。なんだ、これ?」
「――――っ!!!!」
そこには思っていた通り、山羊の仮面を外し、金色のゴーグルをかけた少年が居た。
真っ白な髪が、今夜は月一つ無い曇天の夜空の下で不機嫌そうに揺れた。
「なんの臭いだ?生臭いっつーか、キャベツ?生のイカとキャベツ?何日も風呂入ってねぇっつーか、魚屋の魚が詰まった箱の中に間違えて入っちまって、慌てて出たは良いけど、そのまま乾いちまって、急いで風呂入って何回身体洗っても臭いは取れねぇし、服は着れなくなっちまうし、最低な事になった時っつーか、とにかく臭――――ぶへ!!」
精一杯表現しようとして努力していた所に、全力の拳が振り下ろされた。
脳天に食らった衝撃のせいで変な声が混ざった息が吐き出される。
全く痛くもなさそうに顔を上げる少年に、立派な角が付いている牡鹿の白骨の仮面をつけた男が、先制してしかりつけた。
「コルァ!ツキヨミ!!女の部屋の臭いを指摘すンじゃねぇ!っつーか、あの臭ぇのそんなことがあったのかよ!どおりで可笑しいと思ったぜ!!覚えてんだろうな?三日は部屋に魚臭がこもってたんだぞ!?この、ばか!ばか野郎!ばか助!」
ばかばかという度に、男の拳がぶんぶん振り下ろされ、その度に少年がちょっと待てとかおい本当に馬鹿になるとか言う言葉が途中で途切れていく。
何がなんだかさっぱりわからないココロはただ目を丸めてベッドの上で両膝を抱きかかえ身体を小さくしながらその様子を見守る。
痛みという概念が乏しいココロにとって、殴り殴られることは怖いことではない。
しかしだ。見ず知らずの男と少年が、窓際に立ってぎゃンぎゃン言い合いを始めたら誰だってヒク。
ヒクはずが、ココロはそうではなかった。
その時、突然笑い声が聞こえて二人の喧嘩が止まった。
ふふふ、と。くすくす、と。小さな花が咲いた平原を翔けるような明るくて軽やかな笑い声だ。
二人が見ていると気付いてハッと息を呑み、ココロは口を閉ざし、たった一言「ごめんなさい」と恥じた。
恥じたのだろうか。
それは牡鹿の仮面を付けた豊に恥とは何か違う感情のようにも感じるも、明確に表現する言葉が無いもので、そういう似たような感情だと解釈しておいた。
そして、先に声をかけたのは少年、ツキヨミの方だった。
「謝る必要なんかない。俺達は同じなんだから」
「お、同じ?」
戸惑うココロにまっすぐな瞳で肯定を返す。
「同じだ、何も変わらない。俺達は仲間だ。同じ病気を抱えてる」
病気という言葉を初めて聞いたココロは「びょーき??」と、心底混乱した顔でツキヨミを見て身体をこわばらせた。
それだけで余程閉鎖された排他的な空間で飼育されていたことが容易に二人には分かった。
簡単に言ってしまえばこういう反応は珍しくもないからだ。
部屋の中にシンと耳が痛くなるような静寂が訪れる。
その静寂はココロが知らないことは悪いことだったのとか細い声でうろたえながら尋ねて漸く破られる。
二人が片手を振って、パーだのグーだのを出し、数回同じ手の形を出し合ってから、漸く勝敗が決した。
ぐうと唸りながら、今しがた負けたばかりの拳を握り締めて悔しさを噛み締めた豊が、大きな溜息とともにごつくて広い肩に入っていた力を抜き、根気良く病気のことについて話して聞かせる事となった。
「俺達はカゲロウ症という病気を抱えてる」
「カゲロウ??」
「トンボの事だ」
トンボは知っていたから、ココロはすぐにこくんと頷いて理解を示す。
豊はそのまま続けた。
「カゲロウ症ってのは痛覚が鈍い奴から全くない奴までいる。痛覚ってのは痛いって事だ。痛いはわかるか?」
「痛い?うーん……なんとなく。手と足が切り落とされたり、お腹の中が引っ張り出されると痛い」
「じゃあ良い。お前はまだマシだ。その調子だと汗もかくだろう?」
ココロが汗はかくと頷く。
肩を軽く竦め、頭をやや傾けた牡鹿の白骨化面の下で豊がへらりと笑った。
その雰囲気は、豊の本質でもあるのだろう。
ねばっこくて重く絡みつくのに、具体的な形がなくて掴みどころがない、深い闇の中から、ぶわりと魑魅魍魎が湧き上がって来そうな、そういう独特の雰囲気が彼自身から放出されている。
ココロがぶるぶると身体を震わせ冷や汗を一筋額ににじませたのを気付いていてか気付かずか、豊はハッと笑えば「そいつは重畳」と呟き、軽く握った拳に親指だけ立て、その親指で自分の胸の中心をとんとんと叩く仕草だけで自分自身を示し話を続けた。
「パターンⅣ、身体の右半分だけ普通の人間と全く同じだ。半分の解釈はいろいろある。腹から上下で痛覚があるかないか、とか、四肢と頭部と胴体の割合で痛覚があったりなかったり、ってな具合でな。俺の場合・・・・・・左側は痛いっつーより、じんじんびりびり痒い感じがするタイプだから、汗もかくし食中りすりゃ吐きそうなくらい腹も痛いから、かなりまともな方だ。そうだろ?」
尋ねられても、ココロには語彙力が無く、話の七割くらい何の話なのか理解できていないし、仮に全て理解できたとしても、それがまともなのかどうかさえ判断基準を持たないが故に分からない。だから、わからないままコクコクと頷く。――そういう風に飼育され躾けられてしまった。
知ってか知らずか、豊はそれに対して指摘せず、次にココロを指差す。
「お前は恐らくパターンⅢ……俺の左半分側、痛みが鈍くなってる状態が骨と内臓に至るまで全身に及ぶ」
斬り付けられればジンと痒く、内臓が引きずり出されれば吐き気がして苦しい。足首から先が無くなった足を見て、切り落とされたときは痛いような気がした。
これをパターンⅢというのかと、ココロは漠然とそう思うしかない。
そもそもなぜこんな話をしに来たのかわかっていないから、相当困惑していて理解が追いつかないのだ。
それを見越した豊が、ココロの足を指差し先手を打って答えを出す。
「尤も、カゲロウ症ってのは痛覚異常が問題なわけじゃねぇ。一番の問題は一般を越えた再生能力と、身体能力の上限の無さだ。露骨に言うぞ? 健常者は、足を切っても生えてこねぇし、内臓を引きずり出されたら高確率で死ぬ。痛みに狂う。 手足をもがれても生えてきて、内臓を引きずり出されても一晩で治るのは、化け物だ」
化け物――ココロの胸に見えない大きな穴が開いた様だ。
親からそう言われ続けてきたココロにとっては当然の言葉。
痛みは感じないが故に、傷ついたりしないが、気がつけば涙が溢れていた。
白い頬を伝う涙は冷たく、感情の起伏を物語るようで、僅かに豊の身体が傾いたが、それっきり何の反応もしないまま、話を続けた。
「こんな化け物も利用価値はある。この細胞を経口摂取することで一時的に同じか同等の症状を体感できる。つまり、俺たちを食えば、俺たちと同じ病に冒されるって事だ。血液感染はしねぇ、健常者の消化酵素と、カゲロウ症のたんぱく質が反応を起こすことで、一時的に擬似変化が起きる。――晴れて、化け物の量産の完成だ」
ココロを食べた主人は見た目的にも変化を起こしていたのを思い出し眩暈を覚えた。
許容範囲を超えた知識量に頭の芯がジンと痺れて額が熱い。
なにも考えたくなくなってしまい俯いたココロを見ながら豊は後頭部をぽりぽりと掻いて、
「まあ、なんだ。とりあえず、服でも着ろよ」
と、今更なことを言った。