こころのおそと
「――ヨミ、おい!ツキヨミ!」
声に呼ばれて少年は漸くハッと顔を上げて相手を見る。
それも悪びれもせず、ぼけらーっとした顔でだ。
ツキヨミと呼ばれた少年がそんなだから、今にも怒り出しそうな顔――とはいえ、現在は牡鹿の骸骨を模した仮面をつけているのではっきりとは解らないが、人間声だけで大体わかるものだ――でわなわな震えている呼び声のヌシたる男。名前が長ったらしいので、仲間内では“豊”と短く呼ばれている彼は体毛を携えたふとい腕に血管を浮かせ握りこぶしを作っている。
聞くまでもなく、ぶん殴ってやるぞのポーズだ。
あなや。
「あなや、じゃねぇ!ぼけが!」
「ぶへ!!」
豊の拳がツキヨミの脳天に振り落とされると、反動でおかしな声が出たが、本人は特に気にしてる様子も恥ずかしがる様子も無く「空中でゲンコとか器用だな、おっさん」と唇を尖らせた。
痛がる様子も無いツキヨミと違い、豊の方は殴った拳を擦る。
人の頭とは硬いもので、拳が潰れるまで殴りなれているとは言っても痛いものは痛い。
てか、本当に痛い。
豊は何度も拳を撫でる。
実際、豊は器用だ。
なんと言っても、最新の技術と知恵を駆使して作り上げた長距離型飛行翼機械、通称ドラゴンフライでの飛行の最中に全力で殴っているのだから。
この機械は化石燃料を原料として動いており、発生した水素から電気を作り出すことで稼動している。
大の大人の飛行を可能にするような機械だ。当然、操作は体重移動のみで、必然的に操縦が困難を極める。
それなのに、殴るという具体的に体重移動を必要とする行動を取りながら遅れもしないのだから、器用だと思う。
そんな豊の拳から痛みが消えて漸く小言が飛び出した。
「それで?さっきのは何の真似だ?普通の人間の家の覗きとか悪趣味だぞ?」
「覗きじゃない、女の子が寝てたから、声かけただけだ」
「女児の部屋覗いてんじゃねえか!」
豊からもう一発拳が振り下ろされるが、今回はツキヨミも読んでいたが故に、ごっちりと殴られただけで変な声は出さなかった。
全く、15歳になる年頃の男が、子供――女の子といっていたので子供と解釈した――とはいえ、異性の部屋を覗いた挙句、窓から「こんばんは」するなんて言語道断だ。
そんな小言が聞こえているのか聞こえていないのか、ツキヨミは大きなゴーグルの中にある目を半分伏せて小さく答える。
「あの子、間違いない。俺達の仲間だ」
「まさか……同じ病気だってのか?」
「うん。ただ痛みは微妙にあるらしい。その辺はマシだけど、内臓もがれて普通に話してたし、足も生えかけだ……」
「障害度はパターンⅢか」
豊は少々頭を悩ませる。
共通する病気にはパターンが存在し、数字が小さいほど生命維持に困難を極める。
豊はパターンⅣ。これが一番症状が軽く、最も長生きできる。
ツキヨミはパターンⅡ。二番目に死にやすい。
Ⅲなら、病気に対する知識がなくても十分生きていける範囲内だ。
しかし、と。豊はツキヨミを見る。
「だからなんだ?」
「なにって?」
「俺達に守ってやる余裕なんてねぇ。ましてや他人の所有物の可能性が高ぇんだ、そんなモンに手ぇだしたら、即行でアシが付いちまう。助けるなんて――――」
「知ったことか!!!!」
無理だというよりも先に、ツキヨミが声を荒げた。
顔を背けて一人飛んで入ってしまい、豊が慌てて右手を伸ばすも手は届かなかった。
豊の肩が下がっていく。
確かに酷い言いようをしたとは自覚している。
申し訳ないとも思うし、青臭いなとも思う。
しかし、この、蒸気機関車が地面を走り、飛行船が空を行き交い、馬車も半分浮いていて、夜遅くから朝まではスモッグが発生し、廃棄物で空が曇ってしまっている世界では、貧富の差が著しく顕著に現れており、自分たちが行きいていくだけで精一杯……そういう生活水準の人間は少なくない。
ましてや、国から見捨てられた不治の病
一日しか飛べない虫の意味を込めて「 Eintagsfliegen」「通称:カゲロウ症」を抱えた人間にとっては、尚更だ。
この病については後日説明することになるが故に説明はここまでとして、豊は背中に背負った機械のエンジンを再加熱して飛び去っていったツキヨミを追いかけることにした。