こころの絵本
散々とお腹の中を掻き回して満足した男性は、愛しているよと囁いてそのまま部屋から出て行った。
たったそれだけ。それだけ言って出て行くと男性は戻ってこない。
切り裂かれた腹からは出血があり、ところどころから内臓がでろりと落ちかけているが、これはまあ心配は無い。
この世界には極少数の人間に、こういうなかなか死なない者が存在しており、少女ココロもまた、その内の一人だったからだ。
暗い部屋の中、灯りも灯らないベッドの上で、お腹を裂かれたままで短い呼吸を繰り返す。
お腹の中が熱くて仕方ない。開いた肋骨が軋みをあげて元にもっどって行く。取られた内臓も小さな蕾のようなものを形成しつつ、千切れた臓器が繋がり、大きく開かれた腹の肉も黄色い脂肪を適度に纏いつつ血を止めてふさがろうとして蠢く。
この時が一番熱い。感覚としては強烈な痒みに近い。
しかし、動くと修復も遅くなるので少女はこらえていた。
その間ココロはこう思うのだ。
今日も愛してもらえた、と。
その事実がこの熱さに他ならない。
ふふふと嬉しそうに笑って、掻き回したくて仕方ない腹に触れ優しく撫でる。
こうして傷が治る間はなにもする事が無いので、ココロは専ら本を読んですごしている。
仰向けになって本を持ち上げる。
少し血が飛び出したが少量であればすぐに治ってしまう。
読むといっても字は読めないが故に殆ど絵を眺めるだけだが、これが唯一の娯楽だ。
見たことが無い平面の向こう側。
あきあかね……赤いとんぼ
しおからとんぼ……白っぱい
おおしおから……青、そらみたいな青
“そら”を飛ぶという“とんぼ”はどんな風にして飛ぶのだろう。
まだ癒えきらないお腹にそっと絵本を乗せて抱きしめ、以前男性から教えてもらった外を思い出して口に出してみた。
「おそら、そとに広がる大きな天井」
外にも天井がある、ここにもある。
外とここの決定的な違いがわからなかった。
この部屋に来るまで、少女は段ボール箱の中で育てられていた。
糞尿まみれで臭くて汚くて堪らない。それでも泣けば火を点けられ、箱ごと刃で刺されるから泣くのも我慢した。お腹がすいても食べるものもないから、気が付けば自分の腕や足を食べていた。
痛みは“無かった”。
ちょっとだけちくちくと痛いような気はしたが、翌日になればもげた肉は再生して元にも戻るため、自然と自分の肉で飢えを凌ぎ、自分の血液で喉を潤した。
なぜこんな目に合わされているのか解らない。
優しかった父と母はある日を境に豹変し、こうして閉じ込めて、気が狂うのを待っているようだった。
それが、ココロが五歳のときの話。
それに比べればここは天国だ。
綺麗なベッドと部屋、真っ白なドレス。良く血で赤く汚してしまうが怒らないご主人様。
なにより自分自身を愛して求めてくれるのだ、どこにも問題は無い。
「……??」
幸せなひと時に包まれていると、かすかに頬が撫でられて不思議そうに顔を上げる。
撫でた正体は風だった。そよそよと頬を擽って通り過ぎ、部屋の中で霧散する。
これは可笑しい。
“開けていない窓から風が入る”ということだからだ。
しかしそんなはずは無い。
風が入ってきたということは、窓が開いた――全てまたは、部分的にでも――に他ならないのだが、ココロには開ける人は知らなかった。全ての人はドアから出入りするし、ご主人様である男性から外を見せるなと言いつけられていたのでわざわざ開けない。
ましてや、くるりと巻いた角が耳の横から生え、骨のように真っ白な長い顔に、空洞だけの目が開いている恐ろしい人であれば尚更だ。
「……だれ?そのお顔、どうしたの?」
「コレ?仮面だよ。山羊の仮面。」
「やぎ??」
ココロにとって世界は四角い箱の中のみ。
山羊なんて見たことも聞いたことも無い。
ぱちくりしていると山羊の仮面を外した。
ココロは初めて見る少年に目を奪われる。
大きな金色と青い瞳が零れ落ちんばかりに目を見開いた。
少年は仮面の下に鈍い金色の大きなゴーグルをかけており、仮面なんて無くても顔の造形はあまりはっきりとしない。
そのゴーグルも月と夜空を映すので、外からは目も確認できないのだから尚のこと。
しかし、それを加味しても、確かに少年が自分とは違うと解った。
年の頃は少々年上で、15~16才くらいだ。
真っ黒な褐色の肌に相反する純白の髪。
乱雑に切りっぱなしにされた白より白に近い白の短髪から、細い二本の三つ編みが風に靡いた。
どうやら右耳の後ろのそこだけ長いまま伸ばしているようでアクセサリーのようにも思える不思議な髪型だ。
その背中には、向こうが空けるくらい透明な羽根が四枚付いていた。
ぱりっと張りがあって、なのにガラスとは全く違う。
鈍い金色の歯車やフレームが張り巡らされていて、ココロはハッと記憶に新しい生き物を思い出した。
「とんぼだ」
今、見たばかりだ。見間違えるはずが無い。
その言葉をどう受け取ったのか解らないが、少年は是とも否とも言わずに少女の指を指す。
「その腹、どうしたんだ?」
「ご主人様が食べてくれたの……なんで??」
「食べて、くれた?」
はてと首をかしげてから身体をこわばらせる。
もし少年が“食べてくれる”なら嬉しいが、少年が“食べて欲しい”なら話が別だ。
とんぼを食べられると解ったらご主人様は自分を捨ててしまうかもしれない。
もしかしたら、またダンボールに閉じ込めて、今度こそ死ぬまで出られないかもしれない。
それが嫌だったから口を閉ざしていると、少年は指していた指を一度引っ込めて拳を作ってから、手を開いてココロへと差し出した。
「可哀想なやつ……来いよ、連れ出してやるから」
少年は、この世のあらゆる卑下を集めた荒みきった眼差しをむけた。
可哀想という感情が理解できずココロは自分の手を胸元でぎゅっと組み合わせ、精一杯首を横に振った。
その表情には悲壮といえるものがある。
少年は手を引かないまま重ねて問いかける。
「なんでだ?」
「連れ出すってなに?ここから出てどうするの?」
「逃げるんだ。世界はここだけじゃない」
「なんで?……だって、ご主人様から逃げるなんて悪いことしたら、わたしは愛してもらえない」
何度も首を振って泣き出しそうな顔で拒否すると、少年は自分の唇を噛んで手を下ろす。
噛んだ唇から赤い血が流れたが、少年は気付いてもいない様子だ。
そしてまた、可哀想なやつ。と、呟いたとき、ココロが聞いたことも無い野太い男性の声で「おい!何してんだ。行くぞ!」と夜風を割って聞こえ、少年は窓枠に立ち上がる。
腰の鎖紐を強く引っ張ると、背中の機械から蒸気が上がり、それが消えるころ透明の羽根にある歯車が動き始めて、透明の四枚の羽根がはためいた。
その音は実に静かで、夜の静寂を崩しはしない。
「明日、また来る」
それだけ言い残して少年は窓枠から飛び降りて夜空に飛び去っていった。
どうやら、男という性別は、言いたい事だけ言って返事も聞かずに去っていく、そういう生き物が多いらしい。少なくともココロの人生に於いては、そんな人しかいなかった。
そして、これからもずっと、目の前に現れる男というのは、こういう人ばかりだと、ココロはなんとなくわかっていて、ほうと息を吐き出す。
「かわいそう……」
わたしはかわいそうなの?その答えを、黒いカーテンが覆いかぶさった様な夜空に浮かぶちかちかした小さな光る虫に聞いてみても答えはないし、忘れていた、月という夜空の大きな光に尋ねても答えは無い。
恐らく、この答えが出るのは明日。
少年が来てからなのだ。
それまで眠ることにした。