こころのせかい
彼ら、ツキヨミと豊が去ってから一週間ほどが過ぎていた。
その間はこの屋敷に仕えている家女中や執事といった管理人達がココロの世話をしているのだが、彼らはココロという所謂カゲロウ症を患った奇妙な生き物を嫌っており、出される食事は吐瀉物のように妙な酸味があるどろどろの流動食ばかりで、顔を見れば「足が生えてる、気持ち悪い」「身体も汚い、何、この形」「うわっ、化け物じゃない」など、誰もが似たような言葉を吐き捨てた。
ココロの立場――主人に飼われ、主人が望むときに身体を食べられる。その為だけに生かされている――それを踏まえたとしても、蔑まれるような謂れはないのだから怒っても良かったのかもしれないが、ココロの精神は、食べられるために生かされているのだから怒る必要もないと、そんな良く分からない理屈から怒ることはなかった。
そんな時、いつも豊の言葉が頭の中を巡る。
俺だって、家畜がダメだなんて一度だって思ったことはねぇんだ。大体、家畜がダメだなんて家畜に悪いじゃねぇか。そうだろ?
聞いた当初は、ツキヨミの発言に対して家畜に失礼だと叱責したのだと解釈していた。しかし、なにかが違うような気がして、ココロは何度も何度も考えて、結果的に――家畜は家畜として生を全うし死後に糧となって死さえも全うしているのだから立派だと言ったのではないかと思い始めてきた。
仮にそうなのだとしたら、ココロがしていることは人間としてもカゲロウ症の化け物としても生を全うしていると言えるのだろうか。それは良いことなのだろうか。と、責めていたのかもしれないし、そんなことどうでも良かったのかもしれない。それでもココロはそんな風に疑問に思い始めていた。
そしてそんな折、屋敷内が俄かに騒がしくなっていた。
廊下を忙しなく走り回る家女中達の足音や、執事の受け答えする声が聞こえるのだ。
こういうことはこの一週間で≪何度かあった≫のでココロは気にしていなかった。
会話も聞こえないし、聞こえたとしても、どんな内容でも興味は無い。
仮に不要になって処分されるとしても、死ぬまで食べられるのだとしても、もっとっもっと言ってしまえば、主人が死んでしまったとしても、ココロは気にしない。
カゲロウ症を患うと痛みに鈍感になってしまうので、精神的な部分も痛みを感じず鈍くなるのが常で、ココロもそれに漏れず、とても鈍感だ。
考えてみれば主人が死ねば愛してもらえないのだから、やはりそれは嫌だなと、その程度には考え直す。
そういう事を考えるとまた豊の言葉は胸を刺した。
考えるようになっただけ人間らしくなったのだが、慣れないことをすると面倒臭さが増すもので、ココロはとてもではないがこのままでは息苦しくて不愉快だった。だからこそ、こんなときは主人たる男性に身体を食べて愛して欲しかったのだが、日が暮れても帰ってはこなかった。
そう思っていた矢先のことだった。
ココロが与えられた自分のベッドで大人しく眠っていた時、事というものは起こってしまうものだ。
使用人も居ない静まり返った夜の屋敷。
足に違和感がありココロはもぞもぞと身動ぎし、長い瞼が縁取る両目を開いてみると、不思議な事に右半分の視界が狭く、半分だけ真っ黒の絵の具で塗りつぶされたかのようになっている。
どうして片目が見えなくなっているのかと疑問に思っていると更に不思議な事が起きた。
どこかからぴちゃりぴちゃりと水遊びをする音が聞こえるのだ。
しかし、この部屋は外界から閉ざされているし、誰もいないはずの屋敷から聞こえてもいい音ではない。
水道を閉め忘れたとかそういう音でもなくココロは不思議で仕方ないがままに上半身を起こそうとして、漸くその水音が“自分から響く音”だと気付いたのに、その光景が俄かには信じられずただただ目を見開いて息を呑む。
ごくりと音が鳴ったが、それはココロのものではなく、足元で捕食している男性が、ココロの肉を飲み込む音だ。
「ご、ご主、人…さ、ま……??」
ココロから見える光景といったら描写しがたい狂気がある。
それは差し詰め、ひき肉を作る回転のこぎりに足から突っ込まれ、白い両足が下からミンチにされていっているかのような光景だ。しかもその回転のこぎりは、白い歯をむき出しにした中年男性の顔をしている。
足は両方とも膝上まで食べられており、見えない右目も食べられた後でぽっかりとした空虚があるばかり。このまま食べられ続けたら、股まで達して臀部から腸を吸いだして内臓を食べ、上半身も綺麗に食べてしまった後、残った頭部の柔らかな頬肉を食べ、ふくよかな唇を引きちぎり、耳と鼻をこりこりとした食感を楽しんだあとは、脳漿も残らずすすり、豆腐のようにとろとろにとろける脳まで完食されるのだ。
少し痛いが、大丈夫。そう思って手を握り、勇気を振り絞って小さな右手を伸ばせば、男性の頭を優しくそっと撫でてみる。
「ご主、人…様。……美味し、い??」
ココロが口角を滲ませたときのこと、ぎょろりと男性が目を動かし、弾け飛ぶように視線がぶつかるや否や、ココロの手が文字通り“跳ね飛ばされ”ベッドの端に手首が転がった。
何が起きたのか分からずココロはただ唖然とした表情で見詰め続け、しばらく経ってからガタガタと全身が震える。出血が多くそのせいで寒く感じているのもあるが、それ以上に説明しきれないつんざく寒さが血管の中を駆け巡り、ぶわりと冷や汗が出たのと同時くらいに、ココロの目から涙がこぼれる。
拒絶されたのが悲しいわけではない。食べてもらえて嬉しいのに、頭の中をめぐる言葉が、ツキヨミと豊に言われた言葉ばかりで、とてもではないがこれから起きる末の未来が、どうあがいたって受け入れられず、ぶんぶんと首を横へ振ってみる。
逃がさないと言いたげに男性の両手が鷲の鍵爪のようにココロの腰にがっしりと食い込み爪が肉に食い込む。目は合ったままなのに、常軌を逸しているのか、視線が合っていないような気がする。
「い、い、や……待っ……」
声が出そうで出なくて殆ど吐息のようにベッドに染み込む。
ツキヨミは、歪に歪んだココロを可哀想だと言った。出ようと言ってくれたのに手を拒み、駄目なヤツと怒って出て行った。怒られて当然のことをしていた。
豊は元々察しがいい男だ。家畜としての一生を全うする動物がいる中で、それさえも受け入れられなくなっていると気付いて、彼なりに遠まわしに諭してくれていたのに、それにさえも気付けず、ただ知恵の実を口にしただけで満足した気になって、ベッドで丸まって考えることを放棄していた。
「いやぁ……ツキ、ヨミっ……助け、てっ」
悲痛な声も殆ど出なかった。涙で視界もぼやけて何も見えはしない。
気がついた時にはココロは“片腕の力だけで”男性の拘束を振りほどいてベッドから転げ落ち、長さが違う“両足の残り”でかろうじて立ち、背面の窓枠に片手を引っ掛ければ、真っ赤な血を振り乱して逆上がりの要領で身を回転させ窓まで登った。
到底、10歳やそこそこの女児が出来ることではないがカゲロウ症の人間には容易いことだ。
そうして、どこへも行けないのに、ココロはそのまま窓へ背中からぶつかり、割れた窓ガラスの破片と共に落下した。
死を選んだわけではない。“逃げる道”を選んだのだ。
きらきらと光るガラスの破片を見て落ちる間、ただ男性から逃げてしまったことを謝罪し続けた。
死にたくなかった。ただそれだけの理由で、ダンボールから出してくれた人から逃げたのだ。
なんて恩知らずなのか。
やはり、ツキヨミが言ったように駄目な子だった。ごめんなさいと言う度に涙が零れ、ガラスが身体にこすれてあっちこっち切れていく。
ただ、愛されたかっただけの人生。
こんな可哀想と不憫がられ、醜いと蔑まれ、化け物と閉じこめられて、そして差し伸べられた手を拒んだのに、助けてくれた人を裏切って捨てて逃げだしていく。なんて、愚かな一生なのか。
こんな子供に再びは無いと思うが、それでも次があるのなら、次の人生では、愛されて終わる生を全うしたいと思う。その為ならば、例え何でも捧げる。
目を閉じてそう心に誓った。
「がんばったんじゃねーの?」
どこと無く淡い月光のような優しい声がして、ココロは意識を手放した。
その後はどうなったのか知らない。
ここまでお目通しいただきありがとうございます。作者の雨松時雨と申します。
紛らわしい区切りになってしまいましたので、まだ続きますと、それだけお伝えしたくこちらのスペースをお借りいたしました。
どうぞ、どなた様にもある何もする時間が無い余暇を過ごすための、ほんのささやかな暇つぶしになれば幸いです。