こころの千切れた頁
二人の喧嘩が始まってからどれほどが経ったのか定かではないが、お互いに息切れして喉もからからに渇ききり、ぜぇとかはぁとかしか出なくなった頃、勝手に水挿しから水を汲んで、二人とも水は満たされたコップを呷ってごっくごっく喉を鳴らせたのを切欠に喧嘩は止まった。
飲み物を飲むのが二人の喧嘩終了の合図だ。
謝りもせず、どちらが悪いと決着をつけるもしない、そういう終わり方で終わる方法を知っている。コレを言葉で決めた訳でもなく自然と暗黙の了解になる関係を築いている。
まるで、兄弟のように。
そうして落ち着いてからちらりと廊下を一瞥したツキヨミが二人のほうへ顔を向けて報告する。
「やっぱり、誰も来ない。これだけ騒げば誰か来ても可笑しくないのに、本当に誰も居ないみたいだ」
「そりゃ初めからそこの譲ちゃんも言ってたんだからそうだろ?」
当然のことではと首をかしげる豊に対し、ツキヨミが首を横に振った。
ココロの足を見てみると昨日よりも生えていて、足首から先、丁度踵が半分くらい出来上がっている。
「足をもいでるって言っても、俺たちの身体能力から考えれば出ようと思えば出られる部屋なのに、監視もなく一人で置くか? 少なくとも、幾らか金を出して買ってる筈だ。定期的に捕食してるところを見ても、そいつの飼い主は有用な価値を見出してる。それを分かって買ってるんだから、逃げられたり他の売人に盗まれる危険は考えるのが健常者の思考としては普通だ」
「っ!なるほどな……そうなると、何かの目的があるのか」
豊の顔はまだ白骨した牡鹿の仮面を被っているので表情こそ分からないがそれなりに身体が強張り、ハッと緊張したのが見て取れる。
もしかしたら、今夜のことは罠で、どこかで監視されており、豊やツキヨミを捕まえて売買する目的があるのかもしれない。そう予想するに十分なほど、このカゲロウ症を患ったものの活用性を知った健常者というのは同じ事をするのだ。危険を想像するのは普通のことだ。
それを聞いてツキヨミがふっと笑った。
「または、ただの世間知らずのぼんくらかってな……とにかく、放置されてるってのはどう考えても変だ。とっとと帰ろう」
豊が頷いたのを見てから、ツキヨミはまだ幼さが残るが指が長くて大きく見える手をココロへ向けた。
その手と仕草が何を意味するのかココロにも分かる。
しかし、だから、うん、分かったと言って手を掴むことは出来ない。
ココロにはここを出る理由が全くないのだ。
そして首をふるふると横に振ったとき、ツキヨミの顔はどこか裏切られたと言わんがばかりに青ざめ、豊は肩を竦めて、ほら言わんこっちゃねぇと嘲笑った。
ツキヨミはその嘲笑をわかっていて手を下げられず、まだ差し出したまま一歩近付く。
ココロがびくりと身体を強張らせ枕を抱えて小さくなった。
「行かない……」
「話を聞いてなかったのか? ここに居てもずっと食われるだけで、死ぬまで家畜と同じ生活を強いられるんだぞ!?」
「かちく?」
「食うために育てられる動物のことだ! 餌を出され、何も考えず、ただただ同じ毎日を繰り返し、人間の都合のいいときに食われる!」
「……分からない……それの、なにが、悪いの?」
ココロは死んだような目で淡々と尋ねた。
家畜と同じ生活は、ダンボールで暮らしていた数年間に比べれば天国だし、それ以上の天国はないと教え込まれてしまっている。
ココロの乾いた唇が小刻みに震えた。
「かちくは食べる為に育てられているのでしょう? 時間をかけて、その日に向けてお世話してもらっているのでしょう? 食べて、美味しいって、このお肉大好きって言って、死んでもまだ愛してもらえるのでしょう? ご主人様とひとつになって、もう離れないの。それなのに、なにが悪いの? それって……、とても、素敵……」
死んだフナのような、絶望に充ちた目をして今を幸せだと口にするココロを、普通だと思ったのは豊だけで、ツキヨミは違っていて奥歯が軋むほど歯軋りをして差し出していた手をもう一度強く差し出し、今までよりも一層強く反論した。
「外の世界を見てないから思うんだ!! 来い! 俺が、この世界を見せてやる! 世界は広くて、大きくて、どこへでも行けて、すごく良い世界なんだ!!」
その悲鳴に近いような訴えを、ココロは少し痛そうに顔を歪めて聞き、ふっと考え込むだけの間を空けた。
コップに水を注いだときのようなさらさらしているのにどこと無く陰鬱でじっとりとした湿り気を帯びた表情を伏せていく。
下を向いたまま、その首が左右に小さく振れたのを切欠にツキヨミが手を下ろした。
「……駄目なヤツ」
それは吐瀉物みたいな言葉だった。
ココロは例えば怒ったって良かっただろう。何がダメなのだと詰問して良かったし、自分勝手なツキヨミをせめてもいいし、責めなくても良い。
ただ黙ったまま何も言葉が出てこない間にツキヨミは背中の機械に手をかけ、背面にある真鍮色のリングに親指を引っ掛けて細い鎖を引っ張りエンジンを起動させると、窓から飛び出して行った。
羽音が小さくなって聞こえなくなるのには時間が掛からなかった。
割と一瞬のこと。
その音が消えてから、ふかふかの絨毯が敷かれた床を歩いて行く音が部屋を濡らす。
「良いんだぜ、お前は何も間違っちゃいねぇ。俺だって、家畜がダメだなんて一度だって思ったことはねぇんだ。大体、家畜がダメだなんて家畜に悪いじゃねぇか。そうだろ?」
豊の声はどこまでも暗い、底なし沼の重さを含んでいて、耳から入って体中にしみこみ、いつの間にか身体の中に水銀を溜め込ませるかのようだ。ずっと、息が出来ない。そういう心地よさを煙草の臭いと共に運んでくる。
そして、返事をしなくても語りかけてくるのだ。
「それに、ツキヨミの言葉は、あれは嘘だ。世界は広いのにどこにも行けなくて、空はどこまでも繋がってるのに途中で途切れてて、俺たちには残酷なくらい最悪なんだ」
ならば何故ツキヨミは良い世界だなんて嘘を吐いたのか。
そう聞こうとしているのを察したのだろう。もともと、言葉になっていなくても答えられるくらい察しが良い男だ。ココロがそろそろと顔を上げただけでもう悟ったのだ。
白骨した牡鹿の仮面の下で、瞳孔が開いた目をして、最高に狂った笑顔でも浮かべている。そう感じるような声音で肩越しに振り向き、痛みを感じないと言っていた左手で煙草を握りつぶした。
「――――そんで、最高にイカレてる。誰もが気が狂う、まともな世界が、この窓の外にある」
煙草を握りつぶした手を開くと、そこには真っ赤な知恵の実がひとつあった。
赤くつやつやとしていてとても美味しそうな果実。
それを窓際に置いて豊が窓の縁に腰をかけ片膝だけ立てて窓枠を踏みつけると、窓枠は豊の重みに耐えかねギシリと不満を呟く。
白骨の牡鹿が濁った夜空に透けそうだ。
「そんな素晴らしきこの世界の名前を知ってるか?」
ココロが胸の中で首を横に振ると、豊は背中のリングを強く引っ張って機械を起動させ、呪文を呟いた。
「日出処の国。日本だ」
覚えておくといいと呟いて豊は窓から背中に向けて落ちるように出て行った。
機械が飛行を実現させるが故に危険は無い。
やはり、男という性別は、言いたい事だけ言って返事も聞かずに去っていく、そういう生き物が多いらしい。この間からずっとそうだ。
ココロがぎゅっと足に力を入れると、不思議な事に踵の辺りが熱くなり、水蒸気が上がると同時につま先まで足が完全に生えた。
これもカゲロウ症を患った者が持つ能力のひとつで、ココロは誰にも教わってはいないがやり方は今分かった。
それは卵から生まれた稚魚が鰓呼吸と泳ぎ方を知っていたように、産まれたばかりの赤ん坊が呼吸の仕方を知っていたように、産まれ落ちた小鹿が教わらなくても勝手に立って歩き出すように、本能に染み込んで分かっている。
その足で歩き出すと、窓の前に立った。
窓の外は、天蓋が付いたベッドのある部屋とは大違いだ。
瓦の屋根が幾重にも重なり、遠くで蒸気をあげた大蛇がうねりを上げている。
夜の闇は深く、絵本で見ていた世界とは違って空は曇り、どこまでも低い雲が夜空に浮かんで、世界に蓋をしている。
誰もが等しく気が狂う国。
「ひのい、ず……くに、……覚えられないよ」
ココロは途中まで国の名前を言いかけたが、覚えられていなかったし明日には忘れてしまいそうだ。
真っ赤な果実を手にとって、蛇に誘われたようにそれをかじってみると、まるで砂みたいに味が無くてパサパサしていて、美味しくもなくて、最悪な味だった。
それを捨てるでもなく手に持ったままベッドに戻ると丸まって眠ることにした。
何も考えたくなかった。
それなのに目を閉じるとツキヨミの声が戻ってきて不思議と涙が出た。
ぽろーりぽろりとこぼれる穢れ無き雫を、ベッドだけが受け止めてそっと吸い取っていく。
「駄目なやつ」と言われることに痛みを感じはしないが、何かが千切れてしまったのだろう。
眠ることもできず助けを呼ぶことも出来ず、ココロはベッドで過ごした。
それしかなかった。