覚悟 1
おまえには覚悟がないと言われて生きてきた。思えば小学生のとき、親にねだって初めて買ってもらったペットが十姉妹だったが、最初の間だけしか世話をせず、死なせてしまったときに親に言われた。何故最後まで飼う覚悟もなしに欲しがったのかと。
高校を受験する際、ランクを落とせば確実に合格できるが、大学進学のときに不利になると担任に言われ、俺は迷わずランクを落とした。高校に入りさえすれば、あとは自分の努力次第でなんとかなる、と考えた訳ではない。それすらも考えなかった。中学生の段階で大学に進む覚悟など、まったくなかったのだ。高校の3年間は、何の覚悟もなく過ごした。そして中学の担任が言っていた通り、進路で困ることになる。高校を出てすぐに働く覚悟などなかった。4年間の自由を求めて大学に進もうとしたが、行ける大学を選べるはずもなく、名前を書いただけで合格できるレベルの大学にしか進路はなかった。しかし大学で何を学ぼうという覚悟も当然あるはずがなかった。
「大学では教員資格を取れ」
受験のとき、親にそう言われた。反発する心も多少はあった。だが自分で自分の人生を切り開く覚悟など、俺にはなかった。まあ、資格は持っていても邪魔にはならない。親も親なりに息子の将来を心配しての言葉だろう。そう思い、黙って従うことにした。けれど教師になる覚悟ができた訳でもない。
「近道流一くん!」
「はいっ」
俺は夕日の照らす廊下であわてて振り返った。どっと笑い声が起こる。そこにいたのは4年3組の女子児童たち。俺が担当しているクラスの子供らだった。
「こら、おまえら」
俺はにらみつけて見せた。だがカエルの面に何とやらである。
「近道先生、考え事?」
「ふらふら歩いてたよ」
いかん、ぼうっとしていたのか。俺はいま自分が卒業した小学校に教育実習に来ている。だがこれがキツイ。毎日毎日教師連中にこき使われて、とんだブラック実習である。早く実習期間終わらないかな、そればかりを考えていた。しかしそんな愚痴を子供に言う訳にも行かない。いまはイロイロうるさいのだ。下手なことを口にすれば、保護者は乗り込んでくるし、教育委員会からはにらまれるし、ろくなことがない。黙っているのが得策なのである。
「先生は大人だからな。考えることも多いんだよ」
「えー、子供だって考えること多いよ」
「そうだよ、いくつ習い事やってると思ってるの」
「中学受験なんかもう対策始まってるんだよ」
女子たちは次々に不満を口にした。ああそれは大変でございますね、そう言いたくもあったが、さすがにそれは大人げないのでやめた。しかし正直、知ったことではない。俺は自分のことで精一杯なのだ。それに俺が子供の頃は、特に習い事もやらなかったし、中学受験もしなかった。どのみち気持ちはわかってやれない。
子供たちの不満はなかなかやむことがない。いい加減ほうっておいて職員室に戻らなければ、そう思った俺の視界の端に、離れた場所でひとり佇む女子の姿が映った。こちらを見て、何か言いたそうな顔をしている。俺に用だろうか。不満を並べ立てていた女子たちのひとりが、それに気づいた。
「あいつ」
他の女子も気づいたようだ。
「ああ」
「あいつ、嫌い」
「おいおい、何だ、いじめか。いじめは良くないぞ」
正直、面倒臭い。面倒臭いが、実習には評価というものがある。少しは一所懸命なところも見せておかねばならない。どうせ実習はもうすぐ終わる。そしたらこの学校ともオサラバだ。後々自分に火の粉が降りかかることもあるまい。しかし女子たちはそんな俺を小馬鹿にするように笑った。
「いじめじゃないよ」
「そうだよ、何もしてないんだから」
「無視もしてないし、無理に仲間はずれにもしてないし」
「ただ嫌いなだけ。仕方ないじゃん」
「あいつ暗いし、気持ち悪いよね」
「そう、そんでみんなで作業とかするときもさ、手伝わないじゃん」
「自分が楽することばっかり考えてんだよ。すごいムカつく」
心なしか、ちょっと胸が痛い。自分のことを言われているような気がする。俺は自分の左腕の時計を見た。困った時には時計を見るに限るのだ。
「ああ、ほらもうすぐチャイムが鳴るぞ。教室に戻れ、戻れ」
女子たちの背を押すように、俺は促した。みなブーブーと文句を垂れながらも戻って行く。そして教室に入って行ったのを見計らって、ひとり佇んでいた少女に声をかけた。
「確か、大輪さんだっけ」
「あっ」
記憶違いじゃなければ、大輪心といったはずだが、少女は肯定も否定もせず、ただ立ち尽くしていた。はっきりとした目鼻立ちはボーイッシュで、クールに決めていれば人気も出そうな感じなのだが、その顔がみるみる赤くなっていく。あまりに言葉が出てこないので、しゃべれないのか、と一瞬思ったが、そんなはずはない。この学校では基本的に、障害がある子供は特殊学級にいるはずだ。それに教科書を読ませたこともあった。小さな声で何を言ってるのか聞き取れなかったが、とりあえずは読んでいた。つまりしゃべれるのだ。しゃべれるけれど、言葉が出てこない。ああ、あるなあ。俺は心の中で苦笑した。これほど酷くはないが、自分にも心当たりはある。ダメなときはダメなものだ。しかし今は同情していても始まらない。
「とにかく、君も教室に戻りなさい」
大輪心は一瞬泣きそうな顔を浮かべたが、うなずき、背を向けた。何か言いたいことがあったのかもしれない。だがそれを聞いている時間は俺にはなかった。もう一度時計を見る。
「やばい」
急いで職員室に戻らなければ。教頭にどやされる。とはいえ教育実習生が廊下を走る訳にも行かない。可能な限り早足で歩いた。と、視界の隅に小さな白い影が動いた。一瞬そちらに顔を向けると、夕焼けが照らす運動場に向けて開かれた窓に、白い小鳥が止まっていた。スズメか。いや、スズメより小さい。この大きさ、知っている。そのとき、チャイムが鳴った。
「くそ、やばいやばい」
俺はもう振り返ることもなく、小走りで職員室に向かった。けれどなぜ。なぜあんなところに十姉妹がいたのだろう。
普通、鳥は子供が育つと強制的に縄張りから追い出す。また、兄弟姉妹が仲良くしているのも親に育てられている間だけで、巣立てば生存競争のライバルとして互いを牽制し合うのが当たり前だ。しかし、ジュウシマツだけは巣立った後でも子供や兄弟と同じ巣で仲良く暮らすことができる。つまり10人姉妹が一緒に暮らせるから十姉妹と書く。と、何かの本で読んだ記憶がある。何の本だったか。
「そもそも教育実習生が廊下を走るとは何事ですか。あなた本当に教師になる覚悟があるの。ちょっと近道先生、聞いてますか」
「あ、はい、聞いてます」
給食前のこの時間は、休憩時間だったはずだ。しかし俺はいま学年主任に言われて、4年生全員分のプリントをコピーさせられている。非合理だ。みんなタブレット端末を持っているこの時代に、何で紙のプリントを配らにゃならんのだ。しかし実習生ごときがそんなことを言えるはずもなく、俺は延々とコピー機を回し続けていた。そしてその作業を続けながら、コピー機の前で教頭から説教をくらっているのである。何だこの職場。とりあえず就職するときには、この学校だけはやめておこう。そう心に決めた。
教頭は60過ぎの女性で、子供たちは「ヒスばばあ」と呼んでいた。いくらあだ名とは言え、直球過ぎるだろ、と最初は思ったが、正直いまは子供の見る目の確かさに驚いている。
コピーが終了した。次にコピーした4種類のプリントを4枚1組に重ねて、ステープラーで止めなければならない。資源の無駄遣いもいいところである。心の中でぶつくさ言いながら、そして教頭の小言を右の耳から左の耳に受け流しながら、俺はデカいステープラーを使ってプリントを止めた。それを横から教頭がひったくるように取り上げた。
「ちょっと貸しなさい」教頭はプリントをめくると、眉間に皺を寄せた。「何よこれ。警察からの注意情報じゃない」
「あ、そうなんですか」
いちいちプリントの内容まで見ていなかった。
「そうよ、これ4年生の分だけじゃダメよ。全学年の分刷らなきゃ」
「えええ」
この小学校は、少子高齢化の現代にあってなお、全校生徒が600人を超える大型校であった。
「それは他の学年の人にやってもらっては」
「ダメよ。下校時間に間に合わなかったらどうするの。あなたがやりなさい」
でも休憩時間が、などと言える空気ではなかった。俺はうんざりしながらも原稿をコピー機にセットし直し、枚数を入力すると、スタートボタンを押した。
・小学校近隣で、ネコやウサギやニワトリの首を切断した死体が見つかっている。
・小学校近隣で、目出し帽をかぶった不審な人物が目撃されている。
・小学校近隣に住んでいたと思われる男性が銃器の密輸入に関わった疑いがある。その男性は現在行方不明であり、警察が捜索中である。
4枚のプリントの内容は、簡単に書くと以上のようなものであった。これ1枚にまとまるよな、と思ったが、もちろんそんなことは口に出せない。この国の「空気を読む」という謎の文化は労働者の敵だ。心の中でそうつぶやきながら、俺はなんとか全校生徒分のプリントをまとめた。言うまでもなく、休憩時間はなくなった。
授業終了のチャイムが鳴り、給食の時間となった。世間的にはちょっと遅い夕食の頃合いである。給食は教室で生徒たちと食べなければならない。俺はとぼとぼと4年3組の教室へと向かった。廊下の窓から見える外はもう暗く、照明塔が運動場を照らしている。その向こうに見える正門は閉じられていた。大昔、まだ学校も世間も皆が昼間に活動していた頃には、学校の門は常に開け放たれ、地域の人々が自由に学校に入れる時代もあったというが、今はもうそんなことは無理である。校舎を囲う壁は年々高くなり、門は登下校時の決まった時間以外は固く閉ざされている。門は守護者として社会のすべてから子供たちを引き離し、そして卒業すると同時に子供たちを社会の側にはじき出すのだ。冷徹な社会規範の象徴である。その門に。門の上に。何だろう、何かが立っているように見える。門の向こう側には街灯がある。こちら側には運動場を照らす照明塔の光がある。だが、門の真上を照らす明かりがない。そこだけが薄暗くなっている。その影が、こちらを見た。いや、俺を見た。なぜそう思ったのかはわからない。けれどそれは間違いない、俺の直感がそう叫んでいる。影は門をこちら側に飛び降りた。人の形をしている。その途端、非常ベルが鳴り響いた。
「侵入者デス。警察ニ通報シマス」
時代がかった合成音声が校内のスピーカーから繰り返し流れる。もちろん侵入者にも聞こえているはずだ。だが正門の人影は、ひるむ気配すら見せずに、まっすぐこちらに、俺の方に走ってきた。そのとき、何かが俺の手に触れた。
【こっちに来て】
頭の中に直接話しかけられる感覚。俺の手を引いて走り出そうとしていたのは、大輪心だった。
屋上の扉には鍵がかかっていなかった。毎日下校時間には施錠確認をしているから、今日は誰かが開けたままで忘れていたのだろうか。階段を一気に駆け上った俺たちは、息を切らせて屋上へと走り出た。そしてへたり込んだ。こんなに走ったのはいつ以来だろう。心臓が破裂しそうだった。一方の大輪心は、何度か深呼吸をしただけで呼吸を整えた。やはり子供の体力は化け物じみているな、と俺が呆れていると、大輪心は俺の顔をのぞき込んだ。背後に輝く水銀灯の明かりが、まるで後光のように見えた。
「大……丈夫」
「ああ、何とかね。君は大丈夫なの」
大輪心は慌てたようにうなずいた。本当にしゃべるのが苦手らしい。とは言え、いまは聞かなきゃならないことがある。
「さっきのアレ、誰なのか知ってるの」
大輪心はまたひとつ、うなずいた。
「誰なの」
すると大輪心は、口を固く結んで悲しそうな顔でうつむいたかと思うと、ふいに俺の肩に片手を置いた。
【あの人は、先生を殺しに来たの】
まただ。頭の中に直接話しかけられた。
「これ、何だ。何かの手品か」
【先生、いいから聞いて。私はこうしなきゃ上手に話せない。だからこのまま聞いて。あの人は、先生を殺しに来たの。先生を殺すために、そのためだけに鉄砲を密輸して、ネコやウサギやニワトリを殺して練習して、そして今日、先生を見つけたの。あの人はもうすぐここに来る。あの人には私たちの居場所がわかってるの】
「な、何でそんな」
【私と同じような力。あの人も持っているみたい。今も見てる。物凄い殺意を込めて、こっちを見ながら階段を上っている】
「い、いや」
そうじゃない、なぜ自分が狙われているのか、どうして俺が殺されなきゃならないのか、いったい何がどうなっているんだ、そう言いたかったが口が回らない。いつしか身体は震えていた。恐怖。大輪心は嘘を言っていない。何故かそれだけはわかった。
【先生、本当に覚えていないの】
何をだ。俺は何を覚えていなければならなかったのだ。
【先生が小学生のとき、転校していった同級生がいたでしょう】
そんなの、何人もいただろう。全部覚えているなんて、そんなの。
【手乗りの十姉妹を飼っていた】
比杭。その名が電撃のように脳裏に走った。比杭道理。たしかに十姉妹を飼っていた。良く慣れた白い十姉妹。それを見て俺は親に十姉妹をねだったのだった。
「あいつ……なのか」
大輪心はうなずいた。