幽谷の浴場 4
光は、壁の穴から差し込んでいた。左の壁に長方形の穴が開いている。高さは僕の胸あたり。僕は腰をかがめて穴を覗き込んだ。
白くもうもうとしたものが立ち込めている。煙か、と一瞬思ったが、その間違いにはすぐに気づいた。湯気だ。その湯気の中、目を凝らすと左下方向に四角い縁が並んでいるのが見えた。浴槽、そう思った瞬間、大峰さんの言葉が脳裏をかすめた。白萩原さんが泊まったという旅館の大浴場、それがここではないのか。
と、湯気の中に影が浮かんだ。その影は人の形をなし、こちらへと近づいてくる。やがて壁の穴から2メートルくらいの距離にまで近づいたとき、突如その影の正体が見えた。白い肌、豊かな胸、くびれた腰、すらりと伸びた脚、タオルで前を隠してはいるが、一糸まとわぬ滝緒の裸体だった。
僕は愕然とした。目を閉じれば良かったのだろうけど、顔面に血が上ってくるのに比例するように、眼球を動かす筋肉は、硬く固まって行く。滝緒の裸体から目が離れなかった。
「菊弥さん、何が見えるんですか。菊弥さん!」
パスタの声が僕を正気に戻した。僕は腹に力を込め、四角い穴に口を当てた。
「たきおん!僕だ!菊弥だ!」
そして再び穴を覗き込む。しかし、滝緒は僕の声になど気づかぬように、浴槽に書かれた銘板を読んでいた。僕はまた穴に口を当てた。
「たきおん!ここだ!聞こえないのか、たきおん!」
「やかましいね」
その声は、通路の奥から響いてきた。ぺたりぺたりという草履の足音、闇の中からプラズマ火球の光の中に姿を現したのは、僕の胸くらいの背丈の、白髪頭をひっつめ髪にした、鼻の大きな和服姿の老婆。
「女湯のぞくんなら、静かにのぞきな。騒ぎながらのぞくような変態は、あたしが叩き出すよ」
この老婆だ。僕は直観した。白萩原さんを宿に導いた、きっとあの老婆であるに違いない。
「これは人間です」
パスタの冷静な声が響く。
「ほう、賢そうな鳥を連れてるじゃないか」老婆はにんまりと笑った。「焼き鳥もおつなもんだ」
僕はパスタのキャリーケージを背後に隠した。
「僕の友達をどうするつもりですか」
「この娘のことかい。だったら心配はいらないよ。病気を治したらすぐに温泉街まで運んでやるさ」
白萩原さんにしたように、ということか。
「巌は、もう一人男がいたはずです、あいつはどうなったんですか」
「ああ、あれはダメだ」
「ダメ?」
「ダメだね。ああ言えばこう言う。疑り深くて屁理屈ばかりこねる。そして無駄に肝が太い。ああいうのは世の中に置いといても回りを不幸にするだけだ。だからあたしが処分しておいてやるよ」
「処分、て」
「おまえはアレよりまともみたいだし、3人の中じゃ一番弱そうだしね、見逃してあげよう。そのかわり、ここの事は一生黙っておいで。ここを探ろうなんて2度と思わないことだ」
「なぜそれを知っている」
「あたしたちは何でもお見通しさ。何でもね」
「つまり」僕は言った。「仲間がいるんだな」
その一言で、老婆の顔に張り付いていた笑顔は消えた。
「何だいこの子は。可愛い顔して嫌な性格してるね。人の厚意を無にする気かい」
「何でもお見通しじゃなかったのかな」
「やれやれ、やっぱり類は友を呼ぶのかねえ。仕方ない」老婆の眼が、暗闇に輝いた。「おまえから消えな」
老婆は口をすぼめた。そのとき、僕の右手が勝手に前に突き出る。輝く赤い光。いや、炎だ。老婆は口から炎を吐き出した。それは長い帯となって宙を飛んだ。しかし、僕の右手に触れる寸前、空中に四散した。
【座標確認。重力制御フィールド展開】
頭の中にミヨシの声が響く。
「ギリギリじゃないか!」
【あら、これでも急いだのよ。ほらね、座標って大事でしょ】
「それは後でいいから!」
炎は僕の右手から発せられる重力制御フィールドによってさえぎられている。だが四散した炎が天井や壁を焼いていた。通路内の温度は急激に上がって行く。じきに耐えられない温度になるのは目に見えていた。
「これからどうすればいい」
【どうしたいの】
「武器とかないと、どうしようもないよ」
【武器ならそこにあるじゃない】
「どこに」
【ほら、その小さな丸いの】
プラズマ火球のことか。確かにプラズマ火球は炎に包まれながらも、なお明るい光をたもち、重力制御フィールドの向こう側に浮き続けている。
「こんなの、どうすんの」
【実体のないプラズマでも、その空間ごと超音速で飛ばせば、それなりの破壊力にはなるわ】
「飛ばすって、どうやって」
【念じなさい。コントロールを坊やの脳に切り替えるから】
それだけかよ、念じるってどうやるんだ、そう言いたかったがそんな時間はない。もう息を吸うだけでのどが痛い。これ以上は耐えられない。僕は集中した。炎を吐き出す老婆の真ん中、胸の辺りに意識を集めた。
「飛べ!」
パン、小さく乾いた音。命じた僕の言葉にしたがって、プラズマ火球は一直線に空を裂いた。炎が上下水平に分かれる。そして火球は、老婆の胸を貫いた。その直後、老婆の胸の穴から炎が漏れ出し、その上半身を焼いた。
「おやおや、炎袋を破ったようだね。これじゃあ、もうしばらく炎は吹けない」
上半身を炎に包まれながら、老婆は平然とそう言った。
「もしかして、人間じゃないのか」
「そんなはずはありません」
僕の言葉にパスタは反論した。
「だけど、こんな人間なんて」
こんな人間なんて、いるはずがない。
「それが、いるんだよ」
老婆は呵々と笑った。次の瞬間、炎がすべて消えうせた。そして僕をにらみつける。
「一思いに殺してやろうと思ったが、やめた。おまえには死ぬより辛い罰を与えてやろう」
そう言うと、老婆は右手で壁に触れた。すると壁が自動ドアのように動き、滝緒のいる大浴場への道を開いた。
「そこで自分の友達が絞め殺されるのを、指をくわえて見ておいで」
老婆は大浴場に走り込んだ。僕も後を追おうとしたが、壁は素早く閉じてしまった。叩いても、押しても引いても壁はぴくりとも動かない。
「早く開けて!」
【ちょっと待って。何かの認証が必要なのだと思うけど】
僕は右手を壁に当てた。焦ってはいるが、壁が開かないのではどうしようもない。ミヨシの返答を待つ。しかし。
【んんん?】
「どうしたの」
【認証システムが】
「システムが」
【見つからない】
「どういうことだよ!」
【わかんないわよ、調べた限りではその壁には開閉システムなんて組み込まれてない、ただの岩石なの】
そのとき、キャリーケージの中のパスタが「あっ!」と声を上げた。
「今度は何」
のぞき込んだ僕に向かってパスタは叫んだ。
「ノート城の岩!」
「何それ」
「いいから、壁をもう一度横に引いてみてください」
「いや、だから引いても動かな」
「ただし、力を込めないで引いてください。そっと、優しく、蜘蛛の糸を静かに持ち上げるように」
意味がわからない。しかし、いまは考えている時間も惜しい。僕は言われた通りそっと壁に触れ、その手を横にスライドさせた。なるべく力を込めないように。鳥の羽根が落ちるように静かに。岩の壁は音もなく開いた。
滝緒の悲鳴が空間を切り裂く。僕は大浴場に走り込んだ。滝緒の髪をつかんで浴槽から引きずり出そうとしていた老婆は、走り寄る僕を見て信じられないという顔をした。
「重力制御フィールド展開!」僕は両手でキャリーケージのハンドルを握った。フィールドがキャリーケージを包む。「パスタ、ごめん!」
うなりを上げてキャリーケージが走る。右斜め下から左上へと。プラスチック製のキャリーケージはこの瞬間、鋼鉄以上の硬さを持って、老婆の顔側面へと襲い掛かった。手に伝わる衝撃。骨を砕く鈍い音。宙を舞う老婆の身体。だが。老婆の身体は落ちてこなかった。宙に浮いたまま、しばし気を失ったかのように漂った後、ふいに身体を起こした。
「やるじゃないか、小僧」
不敵に微笑む老婆は、ほとんどダメージを受けていないように見えた。
「世間知らずのガキが迂闊にも我らの計画に鼻先を突っ込んできたかと思っていたら、まさかこれほどまでに強い能力を持ったやつだったとはね、誤算だったよ」
誤算はそれだけじゃないぞ。僕は心の中でそうつぶやいた。僕の使っている力は能力じゃない。僕は謎の宇宙人の謎のシステムが作り出す謎の力場を解放するための、いわばアウトプット端末でしかないのだ。しかしそれは老婆には聞こえない。老婆はひとり納得したような顔をすると、小さくうなずいた。
「まあいいだろう。ここも役目は果たした」
役目。何の役目だ。
「おまえとここで殺し合ってもいいんだがね、あたしにはまだ仕事が残ってる。決着をつけるのはまた今度にしよう」
老婆は左右の手を突き出した。
「まあせいぜい死なないことだね」
そう言うと両手を合わせて打ち鳴らした。その音が大浴場にこだました瞬間、老婆の姿は消えた。
【空間転移確認】
ミヨシの声は驚いた様子もなかった。
「座標は追えてるの」
【ダメね。細かい転移を繰り返してる。随分と用心深いこと】
「そう」僕はキャリーケージの中をのぞき込んだ。「パスタは大丈夫?」
パスタは中で目を回していた。
「あーんまり大丈夫じゃありませーん」
「そ、そうみたいだね、ごめん」
でも何とか無事みたいだ。さて、問題はこれからだ。背中に痛いほどの視線を感じる。いったいどうしたものか。
「菊弥」滝緒の声は震えていた。「今のお婆さん、何だったの」
「いや、それは僕に聞かれても」
僕は背を向けたまま答えた。さすがに後ろは振り返れない。
「本当にわからないの」
「わからないよ。それより服を取って来ないと」
僕が一歩踏み出したとたん、滝緒は浴槽を飛びだし、僕の背中にしがみついた。
「ちょ、な、な、何を」
「一人にしないで!怖いんだから!」
そのとき。滝緒の声がきっかけとなったのだろうか、地鳴りのような音が低く響いた。同時にミヨシの声が聞こえる。
【崩れるわよ、気をつけて!】
「え、ええっ?」
訳も分からず、僕は思わず振り返り、滝緒を押し倒すと、その上に覆いかぶさった。滝緒の身を守らねば、それしか頭にはなかった。その僕の頭上に落ちてくる気配が。
ふぁさっ。
壁が崩れたはずだった。天井が落ちてきたはずだった。しかし僕の背中と後頭部につもったそれは、かさかさと軽い音を立てながら、はらはらと静かに落ちてきた。大量の枯れ葉。そこには大浴場はなかった。浴槽も銘板もなかった。木々の立ち並ぶ雑木林の一角で、僕と滝緒》は木の葉に埋まっていた。呆然とする僕の顔に、下から伸びてきた指が触れた。
「ねえ、菊弥」
「あ」僕は飛び起きた。文字通り言葉通り、空に飛び上がる勢いで起きた。「ああっ!いや、待って、あの、これはその」
「触ったわよね」
「違う、触って、なくはないけど、そう、不可抗力で、だから」
滝緒はタオルで前を隠しながら、上半身を起こした。
「いいわよ、怒ったりしないから」
「あ、ああ、うん」
「菊弥のこと信じてるから」
「うん、ありがとう」
「責任取ってくれるもんね」
「うん……え?」
「今うんって言ったよね」
「え、何が、え」
「よっしゃあ!」
滝緒はガッツポーズをとると立ち上がり、鼻歌交じりにうろうろし始めた。どうやら服を探しているようだ。
「責任、責任~♪」
「いやいや、ねえ、たきおん」
困惑する僕を尻目に、滝緒は足先で落ち葉をかき分けた。
「何が起こったかはわからないけど、それは後でいいや。今はとにかく家に戻りましょう。いろいろ決めなきゃいけないし」
「え、決めるって何を」
「まずは式場ね……あれ?」
滝緒は何かを見つけたようだ。数秒考えた。そして、突然かかとで踏みつぶした。
「うがあああっ!」
何かが叫びながら落ち葉を噴き上げ立ち上がった。それは。股間を抑える全裸の巌だった。
「何しやがんだこのクソアマぁっ!」
だがその顔面に、滝緒の拳がめり込んだ。
「おまえは見るな」
「り、理不尽な……」
倒れ込む巌、服を探す滝緒、そして僕はパスタのキャリーケージを拾い上げた。
「ねえ、責任って何だろ」
「知りません」
パスタはぷいと横を向いてしまった。
神聖ローマ帝国の時代、今のフランスからスイスにかけての地方にアルル王国と呼ばれる国がありました。そのアルル王国のアンブラン大司教管区にノートと呼ばれる城があったとされ、その城の中に、大きな岩があったと伝えられています。この岩は不思議な岩で、全身で力を込めて押してもまったく動かないのに、小指の先で軽く押すと動いたと言われています。あ、誰かお店に来たみたいですね。いいですいいです、私の話は以上で終わりですので、どうぞお店の方に。
「あのとき私は、コンビニに入ったつもりが気がついたら脱衣場に居て、あ、ここが話に聞いた大浴場なんじゃないか、ってピンときたのよ。そしたら脱衣かごの中にタオルとせっけんが置いてあって、ああ、これでお風呂に入れるな、って思ったら無性に入りたくなっちゃって。で、まあいいや、って入っちゃったの。銘板にはいろいろ書いてあったわよ。肩こり、腰痛、リウマチ、インフルエンザもあったわ。そう、それで、ガンに効く湯も本当にあったの」
「それで、たきおんは何の湯に入ってたの」
僕の言葉に、滝緒は恥ずかしそうに雑誌で顔を隠した。より正確に言うなら、結婚情報誌を広げて顔を隠したのだ。
「……便秘に効く湯」
「あー」
「あーじゃない、本当に大変なんだからね」
真っ赤な顔をした滝緒を面白そうに見つめながら、巌は鼻を鳴らした。
「んで、出たのかよウン」
その顔面に突き立つ分厚い結婚情報誌。小鳥ホテルの玄関ホールに大の字で横たわる巌は、今日も黒ずくめの格好をしている。あの大浴場での戦いから一夜明けたその日の夕方、僕らは再び集まっていた。
「紙って硬えな」
「至近距離だしね」
巌は体を起こすと滝緒をにらみつけた。しかし滝緒はどこ吹く風。
「巌もあのお婆さんに会ったんだよね」
ああ言えばこう言う。疑り深くて屁理屈ばかりこねる。そして無駄に肝が太い。老婆はそんなことを言っていたっけ。
「会ったつっても、ちょっと世間話しただけだぞ」
ちょっと世間話をしただけであの評価なのか。まあ、わからないでもないが。
「役目は果たした。確かにそう言ってたんだ。役目って何だろう」
「さあな。婆さん俺との会話じゃ、んなこと言ってなかったからな」
「今日、観光課の同期に聞いたんだけどね」滝緒は結婚情報誌を拾った。「どうやらあの温泉宿の噂、あちこちに広がってるらしいのよ。ときどき問い合わせが来るんだって。テレビ局からも取材したいって話があったらしいんだけど、市役所じゃ把握してないからって断ったって」
しかし巌は不満顔だ。
「何だよ、宣伝ってか?温泉街が村おこしでタヌキでも雇ったってのか。馬鹿馬鹿しい」
「温泉街なんだから街おこしじゃないのか」
「おめえは細けえんだよ。そこ食いつくとこじゃねえだろ」
「タヌキに食いつけと?」
「木の葉で人をだますって言やあ、昔からタヌキって相場が決まってるだろうがよ」
今度は滝緒が首を傾げた。
「うーん、タヌキってイメージじゃないよね。どっちかっていうと魔女かな」
僕は虚を突かれた。その僕の顔に、滝緒は目を丸くした。
「何よ。何か変なこと言った?」
「いや、その逆」
何で今まで気がつかなかったんだろう。確かにあの老婆は帽子をかぶっていなかった。ローブも着てはいなかったし、ホウキにも乗っていなかった。だが魔女だ。あれは森の魔女だったんだ。何かがストンと胸に落ちた。妖精がいるのなら、森の魔女がいて何の不思議があるだろう。そして妖精がいて魔女がいるなら。あれは何だ。
「なあ巌」僕はたずねた。「しゃしんしこって知ってるか」
「何だ藪から棒に」
「いや、お前なら知ってるかと思ってさ。どんな字書くんだ」
「捨てる身で飼う虎って書いて捨身飼虎だ。仏教の説話にある話でな、釈迦が釈迦として生まれる前、前世である国の太子として生きていた時に飢えた虎の親子に会った。子は七頭もいるのに食うものがない。それを見て哀れに思った太子は自分の身を崖から落とし、虎に食わせたってくだらねえ話だ」
「いや、くだらなくはないだろ」
「おめえにとっちゃそうなんだろうが、俺にとっちゃくだらねえんだよ」
まさにああ言えばこう言うである。
「で、捨身飼虎がどうした」
僕はコンビニの駐車場での話をした。とらかわつぐみ。虎河なのか虎皮なのか。もちろんパスタのことはごまかしながら。
「捨身飼虎の虎ねえ」巌は苦笑いを浮かべた。「人間かどうかは知らねえが、嫌なガキなのは間違いねえな」
おまえには言われたくないんじゃないか、と言いたいのを僕はぐっとこらえた。
「でも私たちがあそこに行った理由も目的もわかっていたとなると、もしかしたら今この瞬間も……」
滝緒は天井を見上げた。僕と巌も上を見た。セキュリティを見直してもらわなきゃな。僕はぼんやりとそんなことを考えていた。