幽谷の浴場 3
タクシーが停車したのは、温泉街の入り口手前のバスロータリーの端。支払いは巌がカードで済ませてくれた。ちょっと不本意だったが、まあここに来ること自体が不本意だったのだし、素直に甘えておくことにした。というか、昔から何かにつけ、巌が支払ってくれることは多かった。巌の実家は金持ちなのだ。「金の切れ目が縁の切れ目よ」滝緒はよくそう言ってたっけ。
「そう言えばさ」温泉街に向かって歩きながら、僕は滝緒に尋ねた。「何で今日は紫外線低減スーツ着てないの」
滝緒は切れ長の目を大きく見開くと、びっくりしたような顔で僕を見た。
「だってあれは公務用だもの。私用は厳禁なのよ」
「で、その公務は今日はどうしたんだよ」
巌が番傘を振ると、傘は一瞬で開いた、
「休みを取ったに決まってるでしょう。有休いっぱい残ってるんだから」
まるで自慢するかのように、滝緒は胸を張った。
「昨日の今日で有休なんて取れるのかよ」
巌は番傘をさすと、何故か一回くるりと回した。
「私は取れるの。人徳ってやつね」
「マジかよ。いい加減な職場だなおい」
その瞬間、滝緒の渾身の蹴りが巌の尻を襲った。
「い、痛えじゃねえか、てめえ!」
「他人の職場を侮辱した罰です」
そして滝緒は先頭を切って温泉街の入り口のアーチを潜った。
バイオカラスが電柱の上で鳴いている。温泉街に人の気配はなかった。それはそうだろう、時刻はまだ7時前だった。
「さて、来たは良いが、ここからどうするよ」
巌は僕を振り返った。
「コンビニを探しましょう。コンビニなら人は居るし、変な旅館のうわさとか店員が知ってるかもしれない」
そう言った滝緒に、しかし巌が鼻を鳴らした。
「おめえ、コンビニの店員を情報屋か何かと勘違いしてんじゃねえの。そんなの知ってる訳ねえだろ。刑事ドラマの観すぎだ」
滝緒のこめかみのあたりに、ピキッと血管が浮き出た。
「じゃ、どうすんのよ!」
「だからどうするんだ、って俺が聞いただろうがよ!」
「とにかく、街を抜けよう」
僕の言葉に、滝緒と巌はきょとんとした顔を向けた。
「昨日大峰さんの話したことが本当なら、旅館は温泉街から離れた山の中にあるはずだ。ここに居ても仕方ないよ」
「……そ、そうよね。そうよ、私もそう思う」
滝緒は同意してくれた。巌はどうだろうか。
「きったねえな、おめえ」
「じゃ、あんた一人で行動すればいいでしょ。私は菊弥と行くから」
「わーったよ、ハイハイわかりました。行くよ。行けばいいんだろ」そしてジロリと僕をにらんだ。「おめえは度胸もねえくせに、変なとこだけ冷静だな」
「こないだは巌の方が冷静だったじゃないか」
「え、何、こないだって」
割り込んできた滝緒のヘルメットを軽く叩くと、巌は歩き出した。
「何でもねーよ。ほら、行くぞ」
道を挟んで両側にはコンクリート製のビジネスホテルのような四角い建物が並んでいる。温泉街とは言っても、景観重視で建築制限があったり、古風な日本建築が並んでいるというわけではないらしい。人の気配はない。しかしそれは、人間が存在しないことを意味している訳ではない。建物の外に出てくる人が居ないだけで、建物の中にはたくさんの人が居るに違いないのだ。建物のあちらこちらにある窓から湧き出す湯気が、それを物語っていた。そんなにぎやかな静寂の中を僕ら3人は、いや、3人と1羽は、歩いて行った。温泉街の道は脇に入る路地は多いものの、通りはまっすぐに街を横切り、15分ほどで街の反対側に到着した。反対側にもバスロータリーがあり、そしてその脇に、コンビニがあった。
「コンビニ、コンビニ」
滝緒が指をさす。
「ったく、わかんねえ奴だな」
巌は腹立たしげに滝緒を睨みつけた。
「山の頂上に向かう道なら、コンビニの人も知ってるんじゃないかな」
僕の口から出た言葉に、巌は眉を寄せ、不満を表したが、滝緒は大きくうなずいた。
「そう、それ。きっと知ってる」
言うが早いか、笑顔でコンビニに向かって駆け出した。巌はやや呆れ顔だ。
「おめえはよう」
「いいじゃないか。とりあえず飲み物でも調達して行こう」
滝緒はコンビニのドアの前で僕らを待っている。
「菊弥、早く」
そう僕を呼ぶと、コンビニの中に入って行った。巌がムッとした。
「あの野郎、人を無視しやがって」
「野郎はおかしいだろう。女の子だぞ」
「いいんだよ、細けえなあ、おめえは」
よほど頭に来たのだろうか、巌は速足でコンビニに向かった。その足がコンビニのドアの前に達したとき、僕は呼び掛ける声に立ち止まった。
「菊弥さん」
キャリーケージの中から聞こえるのは、いつもより低い声。僕はキャリーケージを持ち上げて、中を覗き込んだ。
「ごめん、やっとしゃべれたね。大丈夫?怒ってないかな」
「怒ってます」ヨウムのパスタは即答した。「あの2人は非常に不愉快です。特に男の方。でもそれは置いておきます。菊弥さん、今から山の頂上に向かいましょう」
「え」
巌もコンビニの店内に入ってしまった。今、僕とパスタはコンビニの駐車場で2人きりだった。
「道ならば我々が既に調べてあります。案内します」
「でも2人が」
「残して行きます。足手まといが増えても我々の負担が増加するだけで利がありません。それに」
「それに?」
「……差し出がましいようですが、あの五十雀巌という人物、彼との付き合いはやめるべきです」
「君もたきおんみたいなことを言うんだね。て言うか、別に好きで付き合ってる訳じゃないんだけどな。腐れ縁と言うか」
「呪禁道士、彼は自らをそう呼んでいますね」
呼んでいた。確かに巌は己のことを呪禁道士と呼んでいた。
「それがどうかしたの」
「呪禁道士という言葉は、存在しません」パスタの声が、静かに響いた。「呪禁という言葉は存在します。正しくは呪禁と書いて『じゅごん』と読みますが、それは道教に由来する、いわゆる魔法的な力と言われています。そして呪禁を行う者を呼ぶ呪禁師という言葉も存在します。しかし、呪禁を『道』として昇華させた呪禁道などというものは、存在していません。道には古来学問の分類という意味と、哲学という意味がありますが、どちらの意味でも呪禁道などというものは、どこにも存在していないのです。だから呪禁道を行う呪禁道士という言葉も、この世には存在していません」
一瞬、僕は言葉に詰まった。それはつまり。
「つまり、巌は僕に嘘をついている、ってこと」
「嘘をついている、という表現が的確であるかどうかはわかりません。騙すつもりはないのかもしれません。しかし彼は現代のこの惑星、この国の社会において、正体を隠さなければならない存在、すなわちアウトローであることは間違いないでしょう。親しい友人とするのは、お勧めできません」
パスタは言い切った。それが僕を思いやっての言葉だということは、痛いほど感じた。しかし。僕は言葉を探した。何とか言い返そうとしていた。
「いや、しかしなあ」
そんな言葉しか出て来なかったけれど。思えば巌と出会ったのは小学校に上がる前、それから20年近くずっと顔を合わせてきた。けれど巌の何を知っている、と言われたら、確かに、僕は何も知らない。
「あの2人はここに残して行きます。心配しなくても、タクシーを呼べば家には戻れますよ」
いやそれはわかってる、さすがにそんな心配はしていない、僕がパスタにそう言おうとした、そのときである。
「菊弥というのか」
どこか馬鹿にしたような声が、下から聞こえた。駐車場の真ん中に、子供が1人しゃがみこんでいる。オーバーオールを着た、5、6歳の、もじゃもじゃ頭にニューヨークヤンキースのキャップをかぶった、男の子とも女の子ともつかない、ムク犬のような子供が地面を覗き込んでいた。視線を追うと、アリの群れが、キリギリスの死体に群がっている。
「なあ菊弥」子供は言った。「何をしにきた」
「下がって!」パスタの声が鋭く響く。「この子、人間じゃありません」
背中にザワリと毛が逆立つ感覚。人間じゃない。では、何だ。
「いかにも、わしは人間ではない。だがおぬしらにとって、それがそんなに重要なことかの」
その言葉は暗にこう言っている。知っているぞ、と。
「君は、誰なんだ」
口にしてから、間違ったか、と思った。何者なんだ、と問うべきだったろうか。
「誰とな」子供は顔を上げた。長くもじゃもじゃした髪で目は見えない。でも小さな鼻にそばかすが見えた。「誰、か。そうよな。わしの名前はつぐみ、とらかわつぐみ。とらかわのとらは、しゃしんしこのとらだ」
呪文か何かか。何を言っているのかさっぱりわからない。特に『しゃしんしこ』って何。四字熟語っぽいが、漢字がさっぱり当てはまらない。そしてさらに困ったことに、名前を聞いてもなお男の子か女の子かがはっきりしない。つぐみちゃん、と呼ぶべきか、つぐみ君、と呼ぶべきか。仕方ない。
「君の目的は何」
そう言うしかなかった。しかし、つぐみは首を傾げた。
「目的があるのはおまえたちの方であろ。なあ菊弥、何をしにきた」
言われてみればその通り。
「あ、えっと」
「摩訶不思議な湯宿の噂を聞いてやってきたのであろうが、いったい何を知りたい。その湯宿は何か悪いことでもしたのか」
「いや、別にそういう訳ではないけれど」
僕に聞かれても困る。そもそも僕はここに来たくなどなかったのに、なんやかんやと成り行きで、来ざるを得なくなったのだから。
「まあ強いて言うなら」僕は不承不承こたえた。「その温泉宿が、何らかの犯罪に関わっているかもしれない、みたいな感じで」
「ほう、確信もなしに罪を探りに来たのか。まるで木っ端役人の発想だな」
「なんですって!」キャリーケージの中でパスタが叫んだ。「子供だと思っていたらいい気になって、もう一度言ってみなさい」
「ああ、ちょっと、パスタ、待って」
「なに落ち着いてるんですか!菊弥さんが言われてるんですよ」
「うん、いや確かにそうなんだけども」
確かに、僕がそこまで言われなければならない筋合いはない。ないのだが、ここでパスタに怒られても、話がややこしくなるだけである。だがそんな僕たちの様子を見て、つぐみは突然大笑いをした。そしてこう言った。
「感心感心。短気は損気。その根は毒であり、その頂きは甘味である怒りを滅ぼすことを、聖者たちは称賛する」
「……へ?」
なに言ってんだこいつ。僕がその思いを顔に出しかけたとき。
「なあ菊弥」つぐみはコンビニを指さした。「友達を助けなくていいのか」
その言葉に、僕はコンビニを見た。ガラスを通して店内が見える。胸が騒いだ。何もおかしな所はない。店の中に巌と滝緒がいないこと以外は。
足が勝手に動いた。僕はコンビニに向かって駆け出していた。
「ノート城の岩があるぞ」
背後から聞こえたその声に一瞬僕は振り返ったが、つぐみの姿はどこにもなかった。
コンビニのガラス扉は自動ドアではなかった。僕は迷わず取っ手に手をかけた。
「待って、菊弥さん。ストップ!ストップ!ストップ!」
パスタの懸命の呼びかけに、ドアを半分引いたところで僕は止まった。
「今度は何!」
思わず声を荒げた僕の頭の中に、声が響いた。
【警報!警報!】
それはモモイロインコのミヨシの声。
【気をつけなさい。そのコンビニの中、空間が湾曲してるわよ】
僕は半分開いたドアからコンビニの店内を覗き込んだ。普通のコンビニだ。おでんの出汁の匂いが漂ってくる。
「空間が湾曲してるって、どういうこと」
【そのコンビニに入ったが最後、別のどこかへ飛ばされるってことよ】
「どこに飛ばされるの」
【行ってみないとわかんないわねえ】
「宇宙空間とかブラックホールとか」
【それはさすがにないわ。気圧も重力も変化してないんだから、つながってる空間も同じような気圧で同じような重力がある場所よ】
「だったら、行っても大丈夫じゃないの」
【安全かどうかの保障はできないわよ】
「バックアップしてくれるんだよね」
【それはするけどさあ】
「じゃ、行く」
僕はドアを引き開けて、店内へと一歩踏み入れた。世界は暗転した。
まるでスイッチが切れたかのように真っ暗になったので、自分が気を失ったのではないかと思ったが、意識はしっかりしていた。僕は暗闇の中で立っていた。左手にはキャリーケージの重みがある。
「パスタ、大丈夫?」
「私は大丈夫です。菊弥さんは異常ありませんか」
その声にホッと胸をなでおろす。
「異常なし、だと思うよ。こうも暗いとよくわからないけど」
と、僕の目の前にまばゆい光が現れた。ビー玉ほどの大きさで、強すぎない光で周囲を照らしている。パスタが言った。
「プラズマで火球を作りました。ペンライト代わりにはなるでしょう」
「爆発したりしないの」
「可燃性ガスの反応はありません。酸素濃度の変化も誤差の範囲内ですし、ご心配にはおよびません」
「それならいいけど」
僕は改めて、周囲を見回した。火球の光が空間を照らす。どこかの通路らしい。床は磨かれたように光を反射し、天井は低く、左右の壁の幅は狭い。閉所恐怖症なら絶叫していたところだ。
僕は頭の中に意識を集めた。
(つながってるのかな)
【つながってるわよ】
頭の中にミヨシの声が響く。
「よかった。僕らは今どこにいるの」
【何の中にいるのかっていう意味ならまだ不明。座標的な意味なら、さっきの温泉街のすぐ近くよ。空間がほぼ閉じているから正確な座標出すにはちょっと時間かかるけど】
僕は暗闇の中を歩き始めた。火球は僕の50センチほど前をふわふわと漂っている。
「座標だけじゃどうしようもないよ。巌とたきおんがどこにいるかわからないと」
【あら、座標は大事よ。座標がわからないとバックアップもできないんだから】
「そりゃそうなんだろうけどさ」
僕は左手にパスタの入ったキャリーケージを持ち、右手で壁に触れながら前に進んだ。だが進めども進めども、景色は一向に変わらない。小さなプラズマ火球が照らし出す、直径数メートルの空間だけが僕の認識できる世界。まるで深海に沈む巨大な船の中に閉じ込められているかのような感覚になってくる。
【長居は精神的に良くない場所ね】
「僕だって長居はしたくないよ」
「菊弥さん、あれ!」
パスタの声に、僕は前方に注意を向けた。光だ。闇の中に光が差し込んでいる。僕は駆けた。足がもつれそうになったが、気にせず走った。