幽谷の浴場 2
空は夕暮れ。世の人々が動き始める頃、1台の車が『小鳥ホテル 頂』の駐車場に入ってきた。青い大型のセダン。大峰さんの迎えの車である。
「それでは皆様、またいつか」
軽く一礼をすると、青いワンピースは背を向け、玄関から去って行った。残された僕と巌と滝緒の三人は、互いに納得の行かない顔を向け合い、しかし何を言うでもなく、黙り込んでしまった。
沈黙を破ったのは、巌。
「しょーがねえ。俺も帰るとするか」そして滝緒に目をやる。「で、たきおんは市役所に戻らなくていいのか」
「あーっ!忘れてた!」
滝緒は慌ててヘルメットをかぶると、ふいに僕の顔を見つめた。
「それじゃ、また、また来るから」
「ああ、いつでもおいでよ」
「また来るから、くれぐれも変なこと考えないように」
「変なことって何だよ」
「変なことは変なことよ。いいね、絶対だからね」
滝緒はそう言って背を向けると、巌の尻を一発蹴り上げて外に飛び出して行った。
「ガキかよ、あいつは」
尻を抑えながら、巌も出て行った。
「さて、と」
僕は小さくため息をついた。玄関はどうしよう。開店時間まではあと2時間ほどだが、今日は予約が入っていない。どうせ飛び入りも来ないだろうし、鍵を閉めておくか。玄関と風除室の扉を施錠し、玄関ホールの照明を消して、僕は鳥部屋のドアを開けた。
「聞いてたかい」
「はい、聞いてました」
セキセイインコのリリイが緑色の羽を広げた。
セキセイインコはオーストラリア原産の小型のインコで、最もペットとして普及しているインコである。他のインコに比べて繁殖が容易で、雛から育てるにしても比較的丈夫で飼いやすい事がその理由としては挙げられる。全長は20センチ強あるが、半分は尾の長さである。飼育されているセキセイインコには多彩な羽の色があるが、リリイは頭が黄色く、身体は原種に近い緑色であった。
「それでは第135回定例会議を始めます。今回の議長は私リリイが務めます。議題は青いお嬢さんの持ち込んだ謎の温泉についての話。異議はありませんか」
「異議なし」
伝蔵とパスタとミヨシが応えた。
「異議はないけど、餌と水替えてくれへんかな」
トド吉が羽を挙げた。
「了解了解」
僕は皆の餌と水を替え始めた。リリイはモモイロインコのミヨシに話を向ける。
「では単刀直入に、今回の話はあり得ることなの」
「温泉に浸かっただけで末期ガンが治るなんて、地球ではオカルト話でしかないわね。我々の技術があれば可能だけど」
「我々の技術は地球人にそのまま使える?」
リリイは十姉妹のトド吉に話を振った。
「そのまんまは無理やで。けどワイらレベルの技術水準がなかったら、末期ガンの完治なんてそもそも無理やないか」
「そうね。地球人のガンはそういう病気よね」
ミヨシもうなずいた。
「何か伝承にヒントはある?」
リリイはパスタに尋ねた。ヨウムのパスタは少し首をひねった。
「病に効く泉や温泉の話は、それこそ古今東西枚挙に暇がないです。ただ浴槽があって、銘板に効能書きがあるというのは、イタリアのポッツオーリにかつてあったと伝わる浴場の伝説に似ています。これはあのウェルギリウスが作ったとされるものなのですが」
ブルーボタンインコの伝蔵が咳払いをした。パスタははっと我に返った。
「あ、すみません。ウェルギリウスというのは伝説の大魔導士で、あ、いえ、実在のウェルギリウスは古代ローマの詩人なんですが」
「要するに」伝蔵はパスタの言葉を遮った。「魔法の風呂という事なのだな」
「そ、そうです」
パスタはしゅんとしてしまった。そんな責めるような言い方しなくても、とも思ったが、彼らには彼らの文化があり、お約束もある。口出しはしないが吉である。
「つまりは技術的には不可能レベルの、魔法でもなければ実現し得ない出来事が起きた、と称する者がいるという訳だ。見過ごして良いものか。どうする議長」
伝蔵の言葉に、リリイは丸い目をぱちくりさせた。考えているのだ。
「詳細が知りたいですね。また聞きだけでは判断に困ります」
その視線は僕を見ていた。え、何だそれ。
「僕はいやだぞ、こんな気持ち悪い話」
「それほど気持ち悪い話だとも思えませんが」
「いや気持ち悪いって。お化けとか妖怪とか、またそういう感じの話になりそうじゃないか。ていうか、そもそも君らの仕事だろ」
「大丈夫です、バックアップはしますので」
「全然大丈夫じゃない!」
そうは言ってみたが、僕の言う事など誰も聞いてはくれないんだろうな、そう思った。しかし。
「じゃあ仕方ないですね」リリイはあっさり矛を収めた。「パスタ、行ってくれますか」
パスタは驚いたのか、ちょっと羽を膨らませた。
「あ、はい。あの、私一人でですか」
リリイはうなずいて見せた。
「だって菊弥さんがいやだと言うのだもの。バックアップの人数はこれ以上割けないし、頑張ってみてよ」
「はあ」
「一人じゃ怖い事もあるかもしれないけど、私たちがついてるし」
「はあ」
「一人じゃ危ない事もあるかもしれないけど、以下同文」
「はあ、まあ仕方ないですね」
パスタがちらりと横目で僕を見た。その目は何かを訴えている。それを無視できるほどの胆力は、残念ながら持ち合わせていなかった。
「……わかったよ」我ながら意志が弱いな、と思う。「行けばいいんだろ」
「あら、行ってくださるんですか、それは助かります。ではパスタと一緒に、明日の朝から出発してください。営業開始時間までには帰って来られるように」
リリイはうきうきでお膳立てを始めた。ああ、せめて今夜はよく眠れますように。
黄金の髪に白い肌、厳しい眼差しに固く結ばれた口元。大人の男性だというのはわかるが、年齢まではわからない。40代にも60代にも見える。灰色のローブをまとい、彼方で燃える火を見つめている。小高い丘の上、火が燃えているのは森の中。いったい何が燃やされているのだろう。嫌な臭いがする。何の臭いだ。そのとき、男の視線が僕を見た。その口から洩れる言葉。どこの言葉だろう。まるで聞き取れない。しかし、頭の中に声が響いた。
【君は私が見えるのかね】
僕はうなずいた。男は嬉しそうに微笑んだ。
【そうか。どうやら君もこの世界の住人ではないようだね】
何のことだろう。意味がわからない。わからないと言えば、火。あれは何が燃えているのだろう。そう思ったとたん、男の顔は悲しみに曇った。
【あれは忌まわしいものだ。忌まわしいものが燃やされている】
そしてまた、火を見つめた。
【この世界はもうだめだ。『神』に毒されてしまっている。どこかに『神』を知らぬ大地はないものだろうか】
神を知らぬ大地。
【そう、唯一絶対神への信仰に毒されていない土地。そんな地がどこかに残されているだろうか】
それってまるで。そう思ったとき、男の目は驚きに満ち、その節くれだった両手は僕の肩をつかんだ。
【君は知っているのか、それを。教えてくれないか、私に。神を知らぬ大地を】
教えてくれ、教えてくれ、男は何度も繰り返す。教えてくれ、教えてくれ菊弥。菊弥。
「……菊弥さん、菊弥さん」
それはパスタの声。僕は目を開けた。明るい。すでに照明が点いている。
「あれ、いま何時」
「4時半です。起きる時間ですよ」
そうだ、今日は朝から出かけなければならないのだ。僕は身を起こした。斜め上に。真上には起こせない。ベッドの上には棚がかぶさっているからだ。その棚の上にはリリイと伝蔵とミヨシのケージがある。そう、僕の寝室は鳥部屋なのである。
「おいおい大丈夫か。きっちり目さめてるか」
そう言うトド吉に苦笑を返す。
「あんまり大丈夫じゃないけどね。ま、なんとかなるでしょ」
とりあえず顔を洗って食事だ。それでなんとか目をさまさなければ。そう言えば夢を見ていたような気がする。だがどんな夢だったのかは思い出せない。まあ問題ないだろう。夢を覚えていなくて困った事など、これまでなかったのだから。
午前6時。外は暗い。玄関ホールの内側から外を眺めていると、入り口から無人タクシーが入ってくるのが見えた。顔を洗ってトーストとブラックコーヒーで食事をして、鳥部屋の連中の餌と水を替えて、客室には誰もいないけど簡単に掃除機をかけて、レジのお金を確認して、ちょっと一息ついてからパスタをプラスチック製のキャリーケージに移して、顔や手に日焼け止めを塗り込んで、それで大体1時間半。タクシーは昨夜のうちに手配しておいたから、あとは待つだけであった。
朝の空気は冷たい。バイオカラスの声が遠くに響いている。タクシーが玄関前に横付けにされる。僕はキャリーケージを左手に、外に向かった。玄関のガラス扉を外側から施錠し、タクシーに近づくと、後部座席のドアが自動で開く。先にパスタのキャリーケージを乗せ、そして自分も乗り込んだ。ドアが閉まろうとした、そのとき。静かな早朝の街に、けたたましく足音が響いた。下駄の乾いた足音。まさか。タクシーの外に目をやると、丁度いま入り口から黒い着物姿の男が、黒い番傘を手に走ってきたところであった。黒装束の下駄の男は、タクシーの前で急ブレーキをかけると、助手席のドアを引き開け、乗り込んできた。
「よう、奇遇じゃねえか」
息も乱さず巌は笑った。どんな奇遇だ。
「まあおめえのことだから、知らん顔はしねえだろうと思ってたがな」
それは誤解だ。僕は知らん顔をしたかったのだ。今タクシーに乗っているのは本意ではない、と言いたかったが、どう説明したら良いのやら。僕が何も言えずに困っていると、タクシーのコンソールから合成音声が流れた。
「ご予約の人数をオーバーしています。人数を変更いたしますか」
「変更だ」僕の返事も聞かず、巌はタクシーの人工知能に命じた。「2人だ。2人に変更しろ」
「承りました。2名様に変更いたします」
「こらあっ!」
突然響いたその声に、僕と巌は顔を見合わせた。タクシーの外に立っていたのは、白いツバ広のヘルメットをかぶり、白い半袖のジャケットに半ズボンを身にまとった、いわゆる『探検隊』の格好をした滝緒だった。
「あんたたち、こんな朝っぱらからどこに行く気なのよ」
「何だその格好は」
思わずそう漏らした巌をキッとにらむと、滝緒は僕と反対側から後部座席に乗り込んできた。
「サファリルックよ。ヘミングウェイも知らないの。だいたい格好のことであんたにとやかく言われる筋合いはありません」
「いや、でも半袖で大丈夫なの」
着物の巌はもちろん、僕も長袖のシャツに長ズボンである。紫外線にさらす場所は可能な限り少なくしなければならないというのは、現代の常識だ。しかし滝緒は平然と僕に笑顔を向けた。
「日焼け止めは塗ってあるわよ。心配しないで」
「けどさ」
「ご予約の人数をオーバーしています。人数を変更いたしますか」
合成音声の問いかけに、滝緒は即答した。
「3人に変更」
「承りました。3名様に変更いたします」
「おめえも行く気なんじゃねえか」
呆れたような巌に、滝緒はヘルメットを脱ぐと答えた。
「あんたたち2人で何かやらせたら、またどうせ危ないことするでしょうが。巌は良くても菊弥はそうは行かないの」
「そうやって甘やかすから、こいつはふにゃふにゃなんだよ」
「菊弥はふにゃふにゃじゃありません。あんたがガサツなだけ」
「えーっと、あの、さあ」
おずおずと上げた僕の声に、巌と滝緒の視線がこちらを向いた。
「何だよ」
「何か疑問でもあるの」
疑問だらけである。何から聞けばいいのか僕が迷っていると、タクシーのコンソールが合成音声を発した。
「予定の時刻を過ぎています。発車しますか」
「……いいや、出して」
「かしこまりました」
タクシーは僕ら3人とパスタを乗せて、滑るように発進した。
「そう言やあよ」巌は助手席から振り返ると、キャリーケージを指さした。「それ、鳥か」
「あ、ああ。うん、まあ」
「そんなもん連れてきてどうするんだ。役に立つのか」
僕は慌てた。キャリーケージの中からカチンという音が聞こえた気がした。
「べ、別にいいだろ。必要だから連れて行くんだよ」
「必要つったって、鳥だろ?何に使うんだ。あ、やっぱり話し相手か」
「違う、そうじゃなくて、その」
困った。何と説明すればいいのやら。
「別にいいでしょ、あんたよりは役に立つわよ」
滝緒が助け舟を出してくれた。そしてケージの中を覗き込んだ。
「これヨウムよね」
「うん。知ってるんだ」
「ヨウム?オウムじゃねえのか」
巌が真面目にそう尋ねた。実はこれがヨウムについての最も多い質問の一つである。
「馬っ鹿ねえ、ヨウムはオウムじゃなくてインコでしょうが。そんな事も知らないの」
しかし滝緒がそれを知っていることの方が、僕には驚きだった。滝緒が鳥を飼ってるとは聞いていない。なのにどこからそんな知識を仕入れてくるのか。
「でも今ヨウムなんて規制が厳しいでしょう。輸入もほとんどないのによく飼えたわね」
「高齢で飼えなくなった人がいてね。その人から譲ってもらったんだ」
「へえ、そういうパターンがあるのね」
もちろん嘘である。だがこういうとき用のストーリーはあらかじめ用意してある。それが役に立つことはあまりないのだが。
「何でもいいけどよ、逃がして泣きべそかくんじゃねえぞ」
巌がそう言うと同時に、ケエエエッ!パスタが吠えた。
「おい、何か怒ってるぞ」
「おまえが怒らせたんだろうが」
「俺は何もしてねえだろう」
まったく、自覚のない馬鹿ほど始末の悪いものはない。
「この子は人間の話す言葉が理解できるんだよ。おまえよりは利口だ」
「ホントかねえ」
ケエエエッ!首をかしげる巌に、再びパスタが吠えかかった。
「あんた、完全に嫌われたわね」
滝緒は嬉しそうに笑った。
「結構結構。別に困りゃしないからな」
巌は手をひらひらと振ると、前を向いた。外はほんのり明るくなり、フロントガラス一面に山脈が映えている。まだ紅葉するには時期が早い。連なる山々は一面青々としているだろう。その山に向かって、道路はまっすぐに進んで行く。天気は快晴、紫外線より怖いものが出てくる気配はなかった。