幽谷の浴場 1
長雨の時期には太陽が少し懐かしかったりもしたものだが、秋晴れが3日も続くともううんざりだ。駐車場を掃除するだけのために日焼け止めを塗るのが面倒臭い。『小鳥ホテル 頂』の玄関の薄茶色いガラス扉はもちろん抗紫外線ガラスだが、どこまで信用して良いやらわからないので、なるべく光の当たる場所には近づかない。どうせ昼間は人通りもないのだからロールカーテンを下ろしていてもかまわない気もするのだけれど、誰か見てるかもしれない、誰か通りかかるかもしれない、そのとき暗いイメージを感じる佇まいにはしたくない。ただの見栄かもしれないが、そんな思いが外の光を僕に拒ませない。合理的じゃないよなあ、と思いながら僕はガラス扉を内側から拭いた。その手元がふいに暗くなる。外に人影が立っていた。宇宙服のような紫外線低減スーツ。見慣れたその汎用デザインの人影は、遠慮がちにガラス扉を引くと、風除室に入ってきた。そしてヘルメットを取ると、ひとつ息をついた。
「ふう、暑い」
「なんだ、たきおんか」
「その呼び方やめて。いいかげん恥ずかしい」
そう言うとたきおんは、いや、吉備滝緒は口を尖らせた。切れ長の目が見つめている。なるほど、もう20代も半ばの大人の女である。『たきおん』は恥ずかしいかもしれない。しかし、口を尖らせてにらむ様子は、子供のころからまるで変わっていない。
「で、市役所の人が何か用なの」
「別に用はないわよ。ちょっと出先から帰る途中で前を通ったから、その、元気かな、って思っただけで」
そう、世の中の大半の仕事が労働開始時間を夕方以降にシフトした現在にあっても、市役所は朝8時から夕方5時までの勤務なのだ。頑固というか融通がきかないというか。だが結果的には多くの利用者が仕事前に用事を済ませる事ができるようになって、市民からは好評だという。滝緒はそんな市役所の市民生活課の職員である。
「僕は元気だよ。いろいろと相変わらずだけどね」
風除室のドアを開いて玄関ホールに滝緒を招き入れた。空調の効いたホールは空気がひんやりとしている。滝緒は後ろにまとめた髪をほどくと、またひとつ息をついた。そして目を閉じ、耳を澄ます。
「まだ鳥たくさん飼ってるんだね」
「うん、まあね」
「預かってるのもいるの」
「今は文鳥が一羽だけ」
「やっぱり儲かってないんだね」
「そういうのも含めて相変わらずだよ」
僕の笑う顔を見て、滝緒もつられたように笑った。そのとき。風除室の扉が勢いよく開かれた。
「いやー悪いな、邪魔をするぞ」満面の笑みを浮かべた五十雀巌が立っていた。だがその笑顔が一瞬で曇る。「……なんだ、たきおんかよ」
「たきおん言うな!」
滝緒は怒鳴ると、僕をにらみつけた。
「あんた、まだこんなのと付き合ってるの」
「いや、それを僕に言われても」
「あーあ、菊弥が珍しく女連れ込んでると思ったから邪魔してやろうかと思ったら、よりにもよって、たきおんとは」
巌は頭を振って嘆いて見せた。
「いや、おまえそれは性格悪すぎるだろ」
けれど僕の言葉など、誰も聞いていない。
「巌、あんたまさか菊弥に変なこと教えたりしてないでしょうね」
「変なことって何だよ。俺がそんなヒマそうに見えるのかね」
「見える」
「あーあ、可哀想に。人を見る目が無い奴だ」
滝緒は僕に振り返った。
「菊弥、こいつ今何してるの」
「へっぽこ陰陽師」
「呪禁道士だ」
巌は言い直したが、もちろん滝緒の耳には入らない。
「まだそんな事してんの。いい加減働きなさいよ」
「働いてはいる。金にならんだけだ」
「それは働いてるって言いません」
「成果主義なんてのは愚鈍な奴の考えることだぞ」
「あんたみたいなのを賢明って言うんなら愚鈍で結構です」
「うどんみたいな顔しやがって」
「あんかけそばに言われる筋合いはありません」
滝緒は口が立つ。さしもの巌もやりにくそうだ。僕がそう思ったとき、ガラス扉の向こう、駐車場に車が1台入ってくるのが見えた。もちろん、まだ陽が高い。営業開始時間までは随分ある。誰だろう、車には見覚えがあるようなないような。僕は車にあまり興味がない。だから車種の違いなどよくわからないのだ。セダンかミニバンかワンボックスか程度はわかるが、あとは色の違いがせいぜいである。入ってきたのは白い車。駐車場に静かにバックで停まると、ドアが開いた。降りてきたのは。
「あ」
僕が漏らした声に、なぜかこのときだけは巌も滝緒も食いついた。そして僕の視線を追い、駐車場に目を向けた。
白い車から降り立ったのは、サマーセーターにジーンズを履いた、30代半ばの女性。黒い日傘をさした。一瞬遅れて名前を思い出す。白萩原絵里さん。
「誰だ」
と巌。
「お客さん?」
と滝緒。
「うん、いま預かってる文鳥の飼い主さん。だけど」
だけど、なぜこんな時間に。いや、そもそも宿泊予定はあと2泊ある。迎えに来たとしても早すぎる。と思っていると、車の助手席が開いた。そこから降り立ったのは、青いワンピースの少女。見間違いではない。あのアオちゃんの飼い主、大峰さんである。大峰さんも青い日傘をさし、そして2人は玄関に向かってきた。
2人の女性は玄関前で傘を閉じ、扉を開け、風除室に入ると、白萩原さんがそこで僕に向かって深々と一礼をした。僕は風除室の扉を開け招いたが、白萩原さんは入りにくそうにしばらく躊躇した。その背を押したのは、大峰さん。
「このたびはご迷惑をおかけいたしまして、申し訳ございません」
沈痛な面持ちで詫びの言葉を口にする白萩原さんに、僕ら3人は顔を見合わせた。
「白萩原さん、どういう事でしょう」
自分はいま間抜けな顔してるんだろうなあ、と思いながら、僕は白萩原さんに尋ねた。
「はい、モナカを引き取りに参りました」
モナカとは、預かっているシナモン文鳥の名前である。
「でも、えっと」
「営業時間外なのは承知いたしております」
「それは別にいいんですけど、あと2泊残ってますよね、料金も頂いてますし」
「はい。ですが、矢も楯もたまらず」
随分と古い言い回しをするんだな、と一瞬思ったが、そんな事を突っ込んでいる場合ではない。
「わかりました。じゃモナカちゃん連れてきますね」
滝緒と巌を白萩原さんたちと一緒に残しておくのも気が引けたが、やむを得ない。ときとしてイレギュラーはあるものだ。僕は客室に入った。モナカのケージと、餌の入った紙袋、そしてレジから2泊分の料金3000円を取り出して、玄関ホールに戻った。
白萩原さんの顔に満面の笑みが浮かんだ、と思ったとたん、その両目からは大粒の涙があふれ出てきた。そして僕から奪うようにケージを受け取ると、ケージを抱きしめ、顔を押しつけた。
「ああ、モナカ。ごめんね。ごめんね。本当にごめんなさい」
ケージの中のモナカはきょとんとしている。でも久しぶりに飼い主に会えて嬉しそうだ。
「では、あの、これ3000円の返金です」
紙袋と一緒に差し出した1000円札3枚を、大峰さんの手が止めた。そして紙袋だけを受け取ると、
「それは迷惑料として受け取ってくださいとのことです」
そう言って微笑んだ。
「迷惑料って言われましても」
困惑している僕に向かって、白萩原さんはまた深く一礼した。
「本当に、本当にありがとうございました。この御恩は忘れません」
「御恩?」
何のことだ。お金を取って文鳥を預かった、それだけなのに。
「それでは今日のところはお家に戻って安静にされてください」
大峰さんから紙袋を受け取り、白萩原さんは深くうなずくと、ケージを大事そうに抱え、車へと向かった。それを見送る僕と滝緒と巌の顔。大峰さんはまるで楽しいことを話すかのように笑った。
「あの方は、ここに文鳥を捨てに来たのです」
一同の目が大峰さんに集まる。そして再び外へ向く。白い車が駐車場から出て行くのが見えた。
「何で、そんな事を」
責めるような僕の問いに、大峰さんは一度うなずいた。
「末期の胃ガンだったからです。里親を探す余裕すらないほどに」
その言葉に僕は愕然とした。しかし。
「いや、そりゃおかしいだろ」
それは巌。そう、確かにおかしい。
「末期の胃ガンだったから、助からないから、ここに文鳥を捨てに来たっていうのは、まあわからん話じゃない。けどな、だったら何で引き取りに来た。それにさっき見た限りじゃ、とても末期ガン患者には見えなかったぞ。多少やつれちゃいるが、健康そのものって感じだった」
「そうでしょうね」大峰さんは笑う。「だって治ってしまったのですから」
「治った?何が。まさか」
「はい、そのまさかです」
唖然とする巌を、滝緒を、そして僕を見まわしながら、大峰さんは平然と答えた。
「末期の胃ガンが治ってしまいました。彼女の命は救われたのです。だから文鳥を引き取りに来たのです。何もおかしな事ではありません」
「そんな。末期だったんでしょ」
思わず滝緒も口を出す。
「ええ、うちの病院で検査を受けたのですから間違いありません」大峰さんは微笑む。それはどこか神々《こうごう》しささえ感じられる笑顔だった。「うちの病院で検査を受けて末期ガンと診断され、そしてうちの病院で再検査を受けて、ガンが完治したと診断されたのです」
「それ誤診じゃねえのか」
到底受け入れられない、巌の顔はそう言っている。
「おっしゃりたい事はわかります。けれど、誤診ではありませんよ。そうですね、丁度いいですから、詳しい事をお話ししましょう」
いったい何が丁度いいのだろう。大峰さんの言葉に少し引っかかったが、話の続きを聞いた僕は、すぐにそんな事など忘れてしまった。
白萩原絵里さんは、ある会社でプロダクトマネージャーをしています。入社して10年以上頑張って、ようやく就いた責任者の立場です。思い入れもひとしおでした。ですから、多少の体調不良などでは休めませんでした。彼女には身寄りがありません。文鳥のモナカはただ一人の家族でした。日々ストレスと闘いながら、モナカと過ごす時間だけが、彼女にとって安らげる瞬間でした。そんな生活が数年続き、あるときみぞおちの辺りに違和感があるのに気づきました。なのに彼女は病院には行きませんでした。仕事を休めと言われることを恐れたのです。やがて違和感は痛みへと変わりました。それでも彼女は病院へは行きません。どうせ原因はストレスだろう、ストレスならモナカと遊べば消えてなくなる。そう思っていたのです。しかしある日、仕事中に彼女は吐血し、うちの病院へと運ばれてきました。そのときにはもう手遅れでした。胃に張り付いたガンは巨大になり、あちこちに転移していました。手の施しようがありません。そう医師から告げられたとき、彼女が最初に考えたのが、モナカの行く末です。そしてあちらこちらを調べ、たどり着いたのが、この『小鳥ホテル 頂』でした。モナカをここに託そう、彼女はそう決め、普通の客を装い、モナカをここに預けました。これでもう思い残すことはない、そう思った彼女はそのまま、車で山へと向かいました。ご存知かと思いますが、この辺りの山には小さな温泉街があり、かつては修験道の修行場がありました。切り立った断崖もあります。残されたわずかな時間を痛みと苦しみに埋め尽くされるくらいなら、いっそひと思いに。白萩原さんはそう考えていました。けれどそう簡単には行きませんでした。道に迷ってしまったのです。普通ならあり得ないことです。なぜなら温泉街へは、まっすぐ一本道なのですから。でも彼女は迷ってしまいました。そして何時間も山の中を走り回った挙句、ようやく一軒の古びた旅館の前にたどり着きました。旅館の前には老婆が立っていたといいます。「泊まっていかんかね。良い温泉があるよ」老婆のその言葉に誘われるように、彼女はその旅館に入って行きました。通された部屋は6畳ほどの、何の変哲もない部屋だったそうです。「温泉に入っておいで。食事の支度をしておくからね」老婆にそう言われ、彼女は大浴場に向かいました。そして驚きました。大浴場の広いこと広いこと。充満する湯気のせいもあるとはいえ、入り口から向こうの端が見えないほどに広いのです。その広い浴場に、幾つもの小さな浴槽が並んでいました。よく見ると、その浴槽には1つずつ、別々の効能書きがありました。つまり、「リウマチに効く湯」「風邪に効く湯」「腰痛に効く湯」と銘板に書かれているのです。面白いものだな、彼女はそう思い、並ぶ浴槽の銘板を見て行きました。すると、そこにあったのです。「ガンに効く湯」が。彼女は目を疑いました。そしてもう一度銘板を見て、笑ったそうです。温泉に入ってガンが治るなど、あるはずがない。自分がガンで死ぬ最後の旅路の宿で、こんなものに出くわすとは、何の因果だろう。そうは思いましたが、それでもちょっと気になります。まあいい、1度だけ試してみようか。彼女はその浴槽に浸かりました。10分ほど浸かっていたでしょうか。彼女は気づきました。みぞおちの痛みが消えていることに。お風呂からあがって部屋に戻ると、食事の用意がしてありました。食事といっても、焼き魚に豆腐の味噌汁にご飯だけ、質素というか素朴と言うか、とにかくお世辞にも華やかな食事ではありませんでしたが、恐ろしいほどに美味しかったといいます。吐き気もありませんでした。白萩原さんは薬を持ってきていませんでしたが、彼女の身体が痛むことはありませんでした。その夜は久しぶりに熟睡したそうです。そして翌朝目が覚めると、彼女は車の中にいました。そこは温泉街のコインパーキング。彼女の泊まったはずの旅館など、どこにもありませんでした。でも夢や幻ではないはずです。なぜなら彼女の身体からは痛みがすっかり消え去っていたのですから。彼女は帰宅し、うちの病院に再検査を依頼しました。その結果が出たのが昨日。ガンは完治していました。そして彼女は迷った挙句、今日モナカを引き取りに来たのです。