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ことり会議  作者: 柚緒駆
3/25

剣闘士の草原 3

 翌朝、いつもの様に照明は午前4時半に点灯した。でも僕が目覚めるのは6時過ぎである。ちなみに、来客の予定が無い場合、消灯するのは午後4時半。4時半から4時半までの12時間刻み。それが1日の基本的なルーティンであった。

 雨は上がっている様だった。だが空は厚い雲に覆われ、絶好の外出日和。快晴か大雨なら断れたのに。パンをかじりながら僕はそんな事を考えていた。

 朝食を終え、トイレも済まし、鳥部屋に入る。朝の世話である。みんなのケージの餌を替え、水を替える。そして敷紙も交換する。餌と水は朝と夕の2回交換する事になるが、この事にあまり意味はない。そこに居るのがただの鳥なら、やたらと水を汚したりして何度も水を交換する必要も出て来るのだろうが、中身は宇宙人である。餌も大してばら撒かないし、水も汚さない。空調の効いている室内で、餌や水の交換など1日1回やれば事足りるのだが、これは性分という奴である。潔癖症ではないけれど、そこそこ綺麗好きなのだ。

「おう、いっつも悪いな」

 十姉妹のトド吉が声を掛けて来る。

「いえいえ、どういたしまして」

「よく眠れたの」

 眠そうな声はモモイロインコのミヨシ。自分はよく眠れたのだろうか。

「うん、いつも通りよく寝たよ」

「例の彼、今日は何時ごろ来るんでしょうか」

 ヨウムのパスタはちょっと心配げだ。

「さあ、でも昼飯くらいは食べてくるんじゃないかな」

「何も無いと良いですねえ」

 セキセイインコのリリイは何かあって欲しそうな声でそう言った。

「本当に何も無いと助かるんだけど」

「まあ、我々がバックアップするのだ、大船に乗った気でいるといい」

 ボタンインコの伝蔵は笑ったが、果たしてどこまで信じて良いのやら。僕は引きつった笑顔を浮かべた。

 鳥部屋の世話が終わったら、次は客室である。今はアオちゃん1羽だけ、貸し切り状態だった。ペレットの残りを捨て、新しいものを入れる。水も入れ替えるが、ビタミン剤を混ぜたりはしない。飼い主からそんな指示は出ていないし、そもそもペレットにはビタミンが添加されているからだ。ビタミンには水溶性ビタミンと脂溶性ビタミンがある。水溶性ビタミンは少々過剰に摂取しても体外に排出されるが、脂溶性ビタミンは過剰摂取すると体内に蓄積される。そしてそれが慢性化すると内臓機能を悪化させる。何事も過ぎたるは及ばざるが如しである。ただ、その理屈で考えるとペレット以外に小松菜を与えるのは良くないようにも思えるし、実際そういう意見もある。小松菜には脂溶性ビタミンのAやEが含まれているからだ。ただ、それでも僕は小松菜や青梗菜ちんげんさいをペレットと共に与えるのは、悪い事ではないと思っている。小松菜の葉っぱ1枚に含まれるビタミンの量など知れているし、それに鳥だって食事の楽しさを味わったっていいじゃないか。ペレットがいかに完全栄養食であったとしても、それだけ食べて生きて行く事を鳥に強いるのは、可哀想な気がしてならない。鳥は知能が高い。それ故にストレスも溜めやすくなる。それを解消してあげられるのは、飼い主だけなのだ。だから楽しい食事の機会を奪う事は、僕はしたくない。

 僕が餌と水を替えている間、アオちゃんはじっとしていた。しかし最後、菜挿しに小松菜を1枚挿し、ケージの奥に取り付けようとしたとき、不意にアオちゃんは僕の腕に乗り、小松菜の端をちみちみと小さく齧った。

「ふうん、いつもこうして食べてるのか」

 その僕の言葉に、

「アオちゃん」

 と、アオちゃんは返した。こうなっては仕方ない。取り敢えずこの小松菜を食べ終わるまではここから動けないな。僕は早々に諦めた。



「で」

「何が」

「何がじゃねえだろ。それからどうしたんだよ」

「どうもこうもないよ。アオちゃんが小松菜食べ終わるのを待って」

「何分ぐらい」

「30分くらいかなあ」

「かーっ、マジか」

 五十雀巌いそがらいわおは信じられないといった顔で僕を見た。タクシーの後部座席。抗紫外線ガラスに囲まれた移動空間の中で、僕は乳液を数滴手に取ると、顔に伸ばす様に塗り付けた。

「何塗りたくってるんだよ」

「日焼け止めに決まってるだろ」

「おいマジか。マジかって何回言わせるんだよ」

「おまえのボキャブラリーが貧困な理由を僕に押し付けられても知らん」

「年頃の姉ちゃんじゃあるまいしよお」

「ジェンダー論を交わすつもりもない。皮膚ガンで死にたくはないからな」

 乳液を顔から首に伸ばし、次に両手から両腕に伸ばした。僕らはこれから、昨日巌が訪れたお爺さんの家に赴くのだ。空は曇ってはいるが、紫外線は目に見えないから油断がならないし、抗紫外線ガラスも、どこまで信用して良いやらわからない。できるだけの予防措置は講じておかなければ。運転手の居ないタクシーは静かに人気の無い街中を走り過ぎて行った。



 メゾネット、と言えば言えなくもない。2階建ての細長い家が5軒、一塊にくっついた集合住宅。関西では文化住宅と呼ばれるタイプの、古い木造建築。よくこんな建物が今の時代に残っていたものだと思う。しかも人が住んでいるというから驚きだ。だがドアは、それがドアであることをドアノブの存在によって辛うじて知らしめているだけの、ささくれ立ち、表面がめくれ上がった汚い合板であった。その汚い板を、巌がノックする。ドンドン、という音と共に、ワサワサ、という音がしている。インターホンは無い。このタイプの家なら、おそらく風呂も無いだろう。近所に銭湯でもあるのだろうか。ドアが開いた。蝶番ちょうつがいが錆びているのかキーキー音が鳴っている。ヒンジなどというこまっしゃくれた物は付いていない、そんなある意味(いさぎよ)いドアだった。

 ドアの向こうには、笑顔の老人が立っていた。白い眉毛は長く、白い髪は頭の側面にしか残ってはいなかったが、歳の頃なら70前後、痩せてはいるものの健康そうな、とても最近まで寝たきりだったとは思えない、矍鑠かくしゃくたる姿であった。

「よう爺さん、生きてたか」

「ああ、何とか生きているよ。いらっしゃい」

 滑舌の良い、腹から出ている声だった。声だけ聴くと、とても老人とは思えない。

「あの、初めまして、僕は」

「彼の幼馴染だろう。よく来てくれたね」

 老人は初対面の僕の事を言い当てた。

「それも『友達』から聞いたんですか」

「そうとも。君は話が早いね。ささ、立っていないで入りなさい」

 中は思ったより広々としていた。間を仕切るふすまが全て取り払われているからだ。入ってすぐは板の間で狭い台所、隅にある扉はトイレか。台所の奥に4畳半の部屋があり、その更に奥に6畳の部屋がある。2階に上がる階段は6畳の部屋から、奥から手前に昇るようになっている。家具らしい家具も見当たらない。もしかしたら2階にはあるのだろうか。

 6畳の部屋には、真ん中に布団が敷いたままになっていた。

「寝ていなくて本当に大丈夫なんですか」

 僕の言葉に、老人はいたずら小僧のような笑顔を浮かべた。

「私がそんなに辛そうに見えるかい」

「いえ、全く見えませんが」

「実際そうだからね。ただ毎日1回、娘が様子を見に来るんだ。その時には布団に入っていなきゃならない。そうしないとまた来てくれなくなるから。病人の振りをするのも大変だよ」

 そう話す老人の声は弾んでいた。元来こういうたちなのだろうな。僕はそう思った。

「おいおめえらいつまで立ち話してんだ、早く座れよ」

 巌は4畳半の部屋の真ん中に胡坐あぐらをかいていた。

「おまえは馴染み過ぎなんだよ」

 僕は巌を一度にらむと、老人に軽く会釈し、畳に座った。



 恵海雄三えみゆうぞう。老人は僕と巌の前に茶を注いだ湯呑を置くと、そう名乗った。恵海老人がそれから語った事は、先般巌が話した内容と同じであった。ただ余計な言葉が無かっただけ、随分と短かったような気はしたが。

「それで、今日の動きは」

 前回の戦いから丸1週間、動きがあるとするなら今日だ、と言われて本日やって来たのだが。

「今の所、まるで無い」

 恵海老人は困ったように首を振った。

「友達も現れないんですか」

「君たちが来る事を伝えに現れたよ。だがそれだけで消えてしまった」

「この部屋には居るんですよね」

「そのはずなんだけどなあ」

 そう話す老人の顔は、とぼけている様にも見える。虚言だろうか。一人暮らしの寂しい老人が吐いた悲しい嘘。もしそうなら、それを指摘するべきだろうかと僕は悩んだ。視線を落とした僕の視界に、部屋の片隅の透明な光が差し込む。2リットルの四角いペットボトル。ラベルはウーロン茶のものだが、中には水が満ちていた。

「ああ、あれかい」

 恵海老人は立ち上がると部屋の隅に行き、右手でペットボトルを掴んだ。飲み口の部分に小指と薬指をかけ握った。そしてゆっくりと振り上げる。

「こう使うのさ」

 ブン。音を立ててペットボトルは振り下ろされた。そんな勢いで振ったら飛んで行ってしまうだろうと思ったが、そうはならず、ペットボトルは恵海老人の手の中に収まっていた。

「少し物足りないが、まあまあ良い鍛錬にはなるよ」

 次に恵海老人は空にXの字を書く様に、滑らかにペットボトルを振った。

「本当は木刀が使いたいのだがね、この狭い部屋の中ではそうも行かない」

 そう言って笑う、この老人には一体どのくらい握力があるのだろう。僕は半ば呆れ返った。だがその肉体が鍛え上げられたものである事は間違いない様だ。剣道云々も全くの嘘ではないと思える。統合失調症、ミヨシの言葉が思い出される。虚言でないとするならば、草原での一騎打ちがどうこうは妄想か幻覚ではなかったのか。『友達』も、ただの幻聴だったのだろう。僕がそう思った時、頭の中にリリイの声が響き渡った。

【緊急!緊急!】

 僕の頭の中には小さな小さな通信機が埋め込まれている。それを通じて届いた音声は、他の人には聞こえないけれど、まるで鼓膜を破らんかの如き苛烈さで、僕の脳を震わせた。

【注意してください、空間がねじれています】

「注意って、どうするんだよ」

 思わずつぶやいた僕の顔を、巌がのぞき込む。

「どうした、腹でも痛いのか」

「いや、どっちかと言えば頭が」

【何か来ます!】

「何か来る」

 僕が声を上げると同時に、部屋の中に一陣の風が吹いた。耳元で蜂が羽ばたく様な音がした。壁が消えた。天井が消えた。見上げれば、今にも降り出さんばかりの曇り空。そして、ザワザワザワ、風の渡る音。視線を下ろせば見渡す限りの草の海。たけは腰ほどまでもある。

「へえ、こりゃ驚いた。爺さんの言ってた通りじゃないか」

 言葉とは裏腹に、巌の声は落ち着き払っていた。こいつは糞度胸だけはあるのだ。一方の僕はと言えば動揺してしまい、周りが見えなくなっていた。

「こ、ここ、ここ、ここここここ」

「ニワトリかおめえは」

「こここは何処どこなんだよ、いったい」

「んな事あ俺は知らねえよ。爺さんの友達にでも聞くしかないんじゃねえの」

「そうだ、恵海さん」

 僕は恵海老人を探した。周りを見回した。だが居ない。どういう事だ。

「爺さんなら、あそこだろ」

 巌はそう言うと、果て無く広がる草原の一角を、顎で指し示した。そこには、赤い日本式の甲冑を身にまとった鎧武者が居た。僕たちが近付こうとしたとき、鎧武者の口から、空を裂かんばかりの気合いを込めて、その言葉が放たれた。

「一騎打ちだ!」

 天から落ちる稲妻一閃、草原の只中に立った雷光の柱の中から現れ出でたのは、輝く馬、そして騎士。僕はこれまで馬という生き物を間近で見た経験が殆ど無い。辛うじて小学校の遠足で訪れた動物園でシマウマを見たくらいである。それでもわかる。デカい。おそらく普通の馬よりも二回りはデカいであろうその黒い馬は、顔を金属板の面で覆い、首から身体にかけては小判型の金属プレートを重ねて覆っていた。

「何だ、あの馬」

「何って馬鎧だろ」

「うま、よろい?」

「重装騎兵だよ」

 巌が何を言っているのか、僕には理解できなかった。ただ一つの事を除いては。

「つまり恵海さんが不利って事か」

「不利なんてもんじゃねえ。軽めに見積もっても大ピンチだ」

 恵海老人は太刀を正眼に構えた。重装の騎士は走り出す。その右手には2メートル程もある長い槍が握られていた。馬はぐんぐん加速する。それがトップスピードに達したとき。

【出ます】

 リリイの声が脳内に響いたかと思うと乾いた貫通音が響いた。重装騎兵の槍の先に、赤い兜が突き刺さっている。恵海老人は、と探すと、さっきまでの立ち位置から5メートルほど離れた場所で片膝をついていた。額から一筋流れる赤い血。

「おのれらか!」騎士は僕らの方を向くと声を上げた。そして槍を横に振り、先に刺さった恵海老人の兜を地面に叩き付けた。「神聖な一騎打ちを邪魔しおったな!」

 それに応じたのは巌だった。

「ふざけんじゃねえ!一騎打ちに2回も負けた癖に退却もしねえで性懲りもなく攻め入って来てやがるのは何処のどいつだ!横紙破りはてめえらだろうが!騎士の誇りってもんがねえのかドさんぴんが!」

 さすがに子供の頃から他人を怒らせる事にかけては右に出る者がないと言われただけはある。重装の騎士は兜の下の顔を一切見せる事無く、辺り一面を怒りのオーラで包んで行った。

「ぬかしたな、下郎。ただで済むと思うなよ」

「おもしれえ、てめえ如きに何ができるよブリキ野郎」

「おい、馬鹿、やめろ」

 僕は止めたが後の祭り。重装騎兵はこちらに向かって駆け出した。しかし。騎士と僕らの間の空間に、風の速度で何かが立ちはだかった。それはまばゆいばかりに輝く白馬。くらすら積まぬ裸馬。その背に恵海老人を乗せて。

――これで対等。文句はありますまい――

 突如天空から声がした。

「誰だ!」

 騎士は天に叫んだが答えはない。

(リリイの声だ……)

 それは僕だけが知る秘密。けれど顔には出さない。

「いざ尋常に勝負」

 恵海老人は馬上で太刀を八相に構えた。垂直に立った刀身に恵海老人の横顔が映る。騎士は槍の先を正面に向け直すと、無言で馬を駆った。白馬も駆け出す。2頭の馬は正面衝突せんばかりに近づいた。槍の間合いに入る。そのとき。白馬の上から恵海老人の姿が消えた。騎士は振り仰ぐ。恵海老人は宙に居た。騎士は槍を持ち上げようとしたが、その重さ故か先が上を向かない。気合い一閃、恵海老人は鉄の兜に太刀で斬り付けた。無茶だ、斬れる訳がない。僕の脳裏に走ったその考えは、一瞬で吹き飛ばされた。なんと鉄の兜に鉄の太刀が、30センチほど食い込んでいたのだ。

「兜割り!やるじゃねえか爺さん」

 巌が思わず声を上げた。だが騎士はそのまま槍を振るった。頭に太刀を30センチ食い込ませながら、その痛みすら感じないが如く、騎士は恵海老人を弾き飛ばした。恵海さんは太刀を放さない。当然、太刀も一緒に飛ぶ。太刀が食い込んだ兜と共に。はずれた兜の下から血塗れの騎士の顔が……現れなかった。血を流す流さないの問題ではない、兜の下には何も無かった。何もない空間が、人型に鎧をまとって馬の上で槍を構えていたのだ。

「おい、何だありゃ」

 さしもの巌も絶句した。

「僕にわかる訳ないだろう」

 そう返すしかなかった。事実、何もわからないのだから。呆然と佇む僕の脳の中に、ミヨシの声が響いた。

【念動力反応あり。あの鎧、外部から念動力で支えられてるわよ】

(念動力?超能力者がどこかに隠れているっていうのか)

 僕は考えた。その脳の動きは自動的に質問としてミヨシに送られる。

【違うわね。念動力の発生源は……鎧のすぐ下。馬よ。馬があの騎士の本体なのだわ】

 黒い馬が走り出した。中身の無いがらんどうの騎士は槍を構えて恵海老人に迫る。僕は叫んだ。

「恵海さん、馬だ。馬を斬れ!」

「心得た!」

 甲冑姿の老人は身を起こし、太刀を左脇に構えた。斜め下から斬り上げる体勢である。対する黒馬の槍は相手の心臓に向かって一直線に空を裂く。しかし恵海老人はかわさない。まさか相打ちを狙っているのか。槍が老人の身体を貫くか、と見えた瞬間。

 雲満ちる天空より白刃の如き稲妻が、とどろく雷鳴と共に地を打った。黒馬と騎士は閃光の中に飲み込まれる様に姿を消した。草原に残されたのは、恵海老人一人。太刀を脇に構えたまま立ち尽くしている。身体からは、ぶすぶすと音を立てて煙が上がり、やがて朽ち木の折れるように、その場に倒れ込んだ。

「おい、爺さん」

 巌が恵海老人の元に駆け寄った。僕も後を追う。と、不意に僕らの目の前に、光が立った。最初はぼんやりと丸い、やがて四方に枝が伸び、上下に延び、幾つかのくびれができた。人の形、いやそれは不正確だ。より具体的に言うなら、手に乗る程の大きさの、人の形の背中に羽を生やした姿の光の塊。それが倒れた恵海老人の背の上に立つと、全身を震わせた。まるで星が砕けるかのように、小さな光が無数に散り、老人の全身に降り注いだ。一呼吸おいて、恵海さんは目を開けた。

「……君は」

 光は何かを老人に語り掛けるかのようにうなずいた。恵海老人は身体を起こすと、胡坐をかいた。

「そうか、それは良かった」

「お、おい爺さん、そいつ何か言ってるのか」

 いかに無神経が着物を着て歩いているような巌でも、こういう手合いは苦手らしい。僕は後ろから突き飛ばしたくなる気持ちを抑えるのに必死だった。

「敵は去ったそうだ。もう来ないだろうと彼は言っている」

 恵海老人は爽快げに微笑んだ。

「彼?彼って事は」

「ああ、彼が『友達』だ」

「あ、うん、そうか」

 その巌の中途半端な返事で、僕は理解した。もしかしてこいつ、男か女か知りたかったのか。他人のこだわりとはわからないものである。この状況でそんな事どうでもいいだろう。

【空間のねじれが解消して行きます】

 頭の中に響くリリイの声と共に一陣の風が吹き、草原は一瞬で消えた。そこは恵海老人の部屋。老人は既に甲冑姿ではなく、そして布団の中で眠っていた。窓から差し込む光が赤い。夕方になっていた。



「結局のところさ」いつもより遅い時間にみんなのケージの餌と水を替えながら、僕は尋ねた。「恵海さんの戦ってた相手って何だったの」

「空っぽの騎士を乗せた馬ね」

 モモイロインコのミヨシがけだるげに答えた。

「いや、それはわかるけど」

「空間をねじ曲げる力まで持った馬なんて居ますかね」

 セキセイインコのリリイが首をかしげる。

「今の段階では他に言いようがないわよ。データが少なすぎるし」

 ミヨシの言う事もわかる。しかし。

「みんなにも本当にわからないの」

「ワイらの使うとるのは技術やからな。次元が高いから地球人にはそうは見えへんかもしれんけど、魔法やないねんから、わかる事もあれば、わかれへん事もあるわな」

 十姉妹のトド吉の言葉に、背後のファミリーはうんうんとうなずく。

「つまり、わかった事もあるってこと?」

「地球外文明の痕跡はなかったな。それはわかったことて言えるやろ」

「少なくとも宇宙人ではない」

「それはわからんで。ワイらにも未知の文明はまだあるかもしれんしな。けど可能性的には非常に低いのは間違いない」

 しかし、それならなおの事わからない。地球の文明に、空間をねじ曲げる技術力などあるはずがないからだ。

 ボタンインコの伝蔵のダミ声が、ヨウムのパスタに尋ねた。

「その、何とかいう伝承との関係についてはどう思う」

「イングランドのワンドレビリアの伝承ですね。よく似ています。ただ、ワンドレビリアは夜の物語です。ある城の前に広がる草原で、夜に騎士が『一騎打ちだ!』と叫ぶと、暗闇の中から鎧姿の騎士が馬に乗って現れ、声を上げた騎士と一騎打ちを繰り広げるのです。よく似てはいますが、同じではありません」

「敵はその、ワン、ワンド……」

「ワンドレビリアです。そうですね、相手がワンドレビリアの伝承を知っていた可能性はあるでしょう」

 何のためにわざわざそんな面倒なことを。僕の顔に浮かんだ疑問に、パスタは首をかしげて見せた。謎は深まるばかりである。

「あ、そう言えば」僕は再びミヨシに尋ねた。「恵海さんの友達って、あれは」

「あれは地球によくいるエネルギー生命体よ」

「よくいる?」

 いったいそんなものが、どこによくいるのだろう。そう思う僕の顔を、ミヨシは不思議そうな顔でみつめた。

「あら、地球には彼らの古い物語がよくあるじゃないの。妖怪だとか妖精だとか」



 1週間後、僕と巌はふたたび恵海老人を訪ねた。何かあるとすれば、きっとまた1週間後ではないかと巌が言ったからだ。しかし、部屋はもぬけの殻だった。隣室の住人に聞いた話によれば、3日ほど前、娘が恵海老人を連れに来たそうだ。老人ホームに入る事になった、恵海老人は寂しそうにそれだけ言い残したという。部屋の中には水の入ったペットボトルが1つ、転がっていた。

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