剣闘士の草原 2
話し終わると巌は小さく溜息を吐いた。僕は言葉を探していた。幻覚、妄想、虚言。きっとどれかに当てはまる。だがどれに当てはまるのか。自信が持てなかった。いや、それどころかどれにも当てはまらない可能性まで考え始めていた。そんな混乱する僕を見透かす様に、巌は口角を上げた。
「これで話が終わったと思っただろう」
「えっ」
まだあるのか、僕がそう言う前に巌は話し始めた。
「2回目の戦いがあったのが先週。そっから今日で6日経ってる。明日で丁度7日目だ。何かあるとすれば、明日だろうな。爺さんはそう言ってるし、俺もそう思う」
「それで」
「ん」
「僕にそれを聞かせてどうしようって言うんだ」
「おめえも明日、一緒に行ってみないか、って思ってな」
「僕をおまえの変な仕事に巻き込むつもりか」
「変な仕事っていう奴があるか。失敬だな」
「僕には陰陽師の真似事はできないぞ」
「陰陽師じゃねえ」巌は帯の辺りをポン、と叩いた。「呪禁道士だ」
そんな事はどっちでもいいよ、と思ったが口には出さなかった。出してしまったが最後、陰陽師と呪禁道士の違いについて延々と聞くことになるからだ。
「で、どうする。明日行くか」
「……考えとくよ」
断るのならもっと明確に拒絶するべきである。ことに巌の様なタイプには。
「よし、じゃあ明日の昼過ぎに迎えに来てやろう、待っていろ」
このように、奴の中ではもう行くことに決まっている。こうなる事はわかっているのだが、それでも、僕には引っかかっている事があった。
五十雀巌は玄関から出て行くと、片手で番傘を開き、雨の中へと歩き出した。それを見送ると、僕は風除室の扉の鍵を閉め、鳥部屋へと戻った。
「聞いてたかい」
僕の言葉に、ケージに戻っていたブルーボタンインコの伝蔵はうなずいた。
「うむ、大体はな」
ボタンインコはアフリカ南東部を原産地とするインコの一種。体調は15センチに満たないが、大きめの嘴と強靭な顎をそなえ、迂闊な飼い主の手に穴を開ける事で有名だ。ペットとして人気の種であるため品種改良が頻繁に行われ、自然界には無い色をしたものも多い。頭が黒く、それ以外が青い、ブルーボタンもその一つである。
伝蔵が会議の開催を宣言した。
「それでは第132回定例会議を始める。本日の議長は我、伝蔵が務める。議題は喫緊のものが無ければ、件のへっぽこ陰陽師が持ってきた話とするが、異議はあるか」
「異議なし」
セキセイインコのリリイが答えた。
「私も異議なし」
ヨウムのパスタが答えた。
「同じく」
モモイロインコのミヨシが答えた。
「早よ始めようや、もう眠たい」
総勢7羽の十姉妹ファミリーを代表して、トド吉が答えた。
皆の返答を受けて、伝蔵は一つ頷いた。
「ではあの話、率直にどう思った。皆の意見が聞きたい」
「統合失調症の症状ね」ミヨシが面倒臭そうに言った。「幻聴と友達になるなんて典型的。幻聴に悪口言われないだけ幸せな患者よね」
「物語としてはありふれた冒険譚です」パスタが言った。「導入部、つまり領地紛争の助太刀を請われて異界へ赴くというのは俵藤太の竜宮入りなどが挙げられますし、後半部分の一騎打ちは中世イングランドの伝説と重なります」
「つまりオリジナリティが無いっちゅう訳やな」
トド吉のその言葉に、パスタは反応した。
「それはオリジナリティという言葉をいかに解釈するかによるのではないでしょうか。過去の作品と同様の展開があるからといってオリジナリティが無いと即断できるようなものでは本来ありません。今回の話においても過去の物語との相違点も見受けられますし一概に」
「パスタ」早口でまくしたてるパスタを伝蔵が止めた。「それは論点ではない」
「……すみません、つい」
パスタはしょげかえってしまった。
「はー、ビックリしたー、なんやねんなもー」
「トド吉も茶化さない」
リリイの一言は余計だったか。今度はトド吉がヒートアップしてしまった。
「茶化してません、何でや、何でワイが注意されなアカンねん。ワイは被害者でしょーが」
「そーやそーや」
「お父ちゃんをいじめるな」
背後のファミリーにも支えられ、俄然トド吉がやる気を出したとき。
「会議中である!」
伝蔵の一声で場は静まり返った。
僕が目的地の無い散歩をしていたとする。しばらく進むと道が左右に分かれる分岐点に差し掛かった。そこで僕が右側の道を選択したとしよう。当然僕は右へと進む。しかし左に進む可能性もあったのだ。この時、世界は分岐する。つまり僕が右側に進む世界と、左側に進む世界の2つの世界が生まれるのだ。……と、並行世界について、このように説明される事がある。こういう人間の選択が物事の中心にあるという考え方を、一般に人間原理と言うのだそうだが、正直よくわからない。何故人間原理で世界が分岐するのだろう。それは人間が認識しなければ世界は存在しないからだ、と説明される事もある。ますますわからない。いや、人間の選択だけが分岐の条件ではない、細菌やウイルスが何かを選択しただけで、いやもっと小さな、例えば物質の状態が変化しただけで、あるいは素粒子がゆらいだだけで世界は無限に分岐するのだ、と言う人も居る。何を言ってるのかさっぱりわからない。
さっぱりわからないのだが、1つ知っている事がある。それは、並行世界というものが実際に存在しているらしい、という事。けれどそれを僕に教えてくれたのは、学校の先生でもなければ、マスコミやインターネットでもなかった。
時空移民局第341銀河観測基地。これが『小鳥ホテル 頂』のもう一つの名前である。
まず、時空移民局とは何か。役所の部署名である事はわかると思う。でも日本の役所ではない。そして外国の役所でもない。それは全宇宙に広大な版図を広げる巨大行政機関――その正式名称を僕はまだ知らない――に存在する部署名で、他の並行世界への干渉、または他の並行世界からの干渉による、並行世界間での無秩序な知性体の往来、いわゆる『時空渡航者』を取り締まる仕事をしているのだそうな。簡単に言ってしまえば宇宙国境警備隊である。もうおわかりであろう、当ホテルの鳥部屋に居るリリイ、伝蔵、ミヨシ、パスタ、そしてトド吉ファミリーは、その身を鳥の姿に変えた宇宙人なのだ。その宇宙人の居場所――すなわち観測基地――を確保し、その身の回りの世話をすることで、僕は経済的支援を受け、小鳥ホテルを運営する事が可能となっている。そうでもなければ、小鳥専門のペットホテルなどという全く儲からない仕事を、そう何年も続けていられる訳が無い。勿論、周囲の人間は誰もこの事を知らない。まあ説明したところで誰も信じてはくれないだろうが。
次に、第341銀河というのは読んで字の如し、341番目の銀河系という事だ。しかし何において341番目なのか。宇宙には、地球から観測できる範囲内だけでも7兆個以上の銀河があると言われているのに、341番目とは随分若い番号である。だが実は、宇宙広しと言えども、ある程度の水準以上の文明というのは数少ない。全宇宙を探してみても、350個程度しかないらしい。その中の、上から数えて341番目の文明を持った惑星がある銀河、と言う意味で第341銀河である。地球の感覚で言えば、南極観測基地並みの僻地らしい。ちなみに、我々のこの銀河系には数千億の恒星があるが、地球以外に文明を持った惑星というのは存在していないそうだ。
会議は2時間に及び、小鳥ホテル開店の時間が迫って来た。だが結論らしい結論は出ない。観測基地である以上、この小鳥ホテルにも、そして外のいろんな場所にも観測機器が設置されている。しかしその観測機器がまるで反応していない事が議論の中心であった。反応が無いのだから他の並行世界からの干渉は無いと見るべきか、いや、観測機器というものは多少の誤作動、過検知があってしかるべきものであり、何も観測されていないというのは不自然ではないか、しかもその間に怪しい事件が起きている可能性がある、という意見が対立していた。
議論が平行線となり、意見も出なくなってきたのを見計らって、議長の伝蔵はリリイに目配せをした。リリイは扉の前に立っている僕の顔を見るとこう言った。
「我々時空移民局はより高次の技術を持つ知性体による並行世界への干渉を取り締まるのが役目です。今回のお爺さんの話がそれに該当するかどうか、早計は控えますが、現時点では観測機器も反応していませんし、そうではない可能性が高いのではと考えられます」
「そうか、考え過ぎだったみたいだね。明日どうしようかな」
そう言う僕の言葉に、リリイはキッパリとこう返した。
「行くだけ行ってみてください」
「え」
「我々もバックアップします。何も起きていないなら、それに越した事はありませんし、何か異常な事が起きているのなら、例え我々の管轄外の事であっても、この惑星の人々の生活に影響を与える様な事であれば、看過できません。出来るだけの事はしますから、安心して行ってきて下さい」
安心してって言われてもなあ。と思ったが、まあそれは明日になってから考えればいいか。今はそれより仕事をしないと。
午後8時、小鳥ホテルの開店である。風除室のロックを外し、僕は店の外に出てみた。雨はまだ降り続いていた。空には星も月も見えない。
店内に戻った僕は宿帳のバインダーから用紙を1枚はずし、クリップボードに挟んだ。今日来る予定のお客様は初めてのご利用なので、宿帳に記入頂かないといけない。2回目以降のご利用に際しては予約だけでOKなのだが。
視界の端を、何かが横切った気がした。振り返ると、ヘッドライトを照らした青いセダンが駐車場に入って来たところだった。静かにバックで駐車したセダンの助手席が開く。降りて来た人影が、後部座席のドアを開けた。鳥のケージを後部座席に乗せているのだろう。そして1分ほど経って、人影は右手にケージを、左手には餌などが入っているのであろう紙袋を下げて、玄関から入って来た。僕は風除室の扉を開いて迎え入れた。青いワンピースに紺色のコート、長い髪、黒目がちの大きな瞳に、ちょっと気の強そうな顔。インコ系かフィンチ系かで言えばフィンチ系の、少女と言って良い年頃の女性だった。
「予約していました大峰です」
「お待ち致しておりました。あ、預かります」
僕はケージと紙袋を預かると、客室のガラス戸を開けた。中の棚にケージを置き、その隣に紙袋を置く。中には餌のペレットと、小松菜が一束入っていた。
「すみません、ではこちらにご記入願えますか」
僕は用意していたクリップボードとボールペンを少女に渡した。受け取った少女はすらすらと記入して行く。その間、僕はガラス戸越しに鳥の様子を見ていた。青いウロコインコ。正確にはホオミドリアカオウロコインコのブルーだろうか。ちょっと自信が無い。僕は鳥は好きだが羽根の色の名称にはあまり興味が無い。青とか白とか黄色とかでいいじゃないか、と思ってしまうのだ。ルチノーとかオパーリンとかモーブとか言われてもピンと来ないのである。
「これでいいですか」
少女は笑顔でクリップボードを僕に渡した。鳥の種類の欄には『ホオミドリアカオウロコインコ(ブルー)』とある。良かった、間違えていなかった。鳥の名前は『アオちゃん』、飼い主の名前欄には『大峰瑠璃羽』とある。予約のメール通りである。住所と電話番号もきちんと記入されており、『メールで連絡』のチェックボックスにチェックが入っている。
「メールアドレスはご予約頂いた際のアドレスでよろしいですか」
「はい」
「期間は4泊で」
「はい」
「小松菜はケージの中にある菜挿しに入れれば良いんでしょうか」
「はい、1日1枚あげてください」
「承りました。では料金ですが、6000円となります」
当ホテルでは料金は先払いである。個人的な気持ちとしては後払いでも一向に構わないのだが、後払いだと万が一、飼い主がうちへ鳥を捨てて引き取りに来ない、という状況が起こるかもしれない。それを防ぐ為の先払いである。相手を信用していないようで気が引ける部分もあるのだけれど、仕方ないと割り切るしかない。
「はい」大峰さんはコートのポケットから封筒を取り出し、両手で差し出した。「ご確認ください」
封筒の中には5000円札が1枚、1000円札が1枚入っていた。
「確かに」僕は封筒を小さく押し戴いた。「では、お預かりいたします」
「よろしくお願いいたします。皆様方にもよろしく」
そう言うと、大峰さんは背を向けた。皆様方?一体誰の事だろう、一瞬そう思ったが、そんな事はすぐに忘れた。車が出て行くのを見送って、さて、まずは客室の照明を落とさなければならない。と言っても真っ暗にはしない。小さな電球が1つ、常夜灯として点いている。これは鳥のパニック対策である。そして、玄関ホールの照明も落とす。今日はもう他の予約は入っていないので、事実上店じまいであった。本当に儲からない商売なのである。
僕は鳥部屋に入るとそのまま通り抜け、奥の扉を開いた。奥にはもう一部屋あり、キッチンとユニットバス・トイレがある。シャワーを浴びて、軽く夕食を摂ろう。そして早めに寝る。明日は疲れそうだしなあ。僕は小さく溜息を吐いた。