眠り姫の言霊 3
どれくらい時間が経ったろう。歩き出してもう1時間以上は経ったのではないだろうか。僕らはまだ早朝の遊歩道を歩いている。鳥のさえずる声が響く。人にはまだ会っていない。と言うか、本当に人などいるのだろうか。まさか。
「なに考えてんのよ」
ミヨシがからかうように笑った。
「いや、だってさ」
「どうした。何かあったか」
巌が立ち止まって振り返った。香春もつぐみも僕を見つめた。
「あ、いや、もしかして道に迷ったんじゃないかな、とか思って」
「そんなことはありません。ちゃんと確認してるわよ、それくらい」
ミヨシにそう言い切られると、何だか凄く恥ずかしい事を言っている気分になる。
「それでも、さ、樹海の中は方位磁石も効かないとかよく言うじゃないか。だから、その」
「そんな都市伝説いまだに信じてるのかよ」
「え、都市伝説なのか」
僕の言葉に巌は頭を抱えた。
「あのなあ、そりゃこんだけ広いんだから、方位磁石が不正確になる場所の一つや二つはあるだろうよ。けどな、方位磁石の狂う場所なんぞ、街中に行きゃ腐るほどあるぞ。珍しくもなんともない。下手すりゃ家の中でも狂うもんだ」
「あ、そうなの」
「おめえな、このネット全盛の時代になんで都市伝説なんぞ信じるんだよ。ちったあ調べろ」
「まあネットと都市伝説は親和性が高いという話もあるが」つぐみは楽し気に笑った。「日本人は古来より深い森に神秘性を感じてきたのだ。これだけ大きな森なら何か不可思議なことが起こると連想するのは無理もない」
「山に杉の木ばかり植えて森を滅ぼしてきたのも日本人だけどな」
面白くなさそうに巌は吐き捨てた。
「それは事実だが、それがすべてではないよ」
諭すように、つぐみは言う。
「とは言え、いかに大きくとも樹海はまだまだ若い森だ。いささか格が落ちるという気はするがな」
つぐみの言葉に滝緒が返す。
「若い森って、どのくらい若いの」
「そうさな、できてせいぜい1200年というところか」
「1200年で若いの?」
驚きの声を上げる滝緒に、つぐみは笑う。
「白神や屋久島の原生林は万年単位だ。それに比べれば若い若い」
「でも」
「考えてみるといい。例えば京に都ができた頃、まだこの樹海は存在すらしていなかったのだ」
「そう言われてもピンと来ない」
「そもそも富士には6000年前から長寿の民が住んでいたという。それと比べても最近であろ」
いたずらっぽく笑うつぐみに、巌が突っ込んだ。
「何だよそれ。宮下文書じゃねえか」
「みやしたもんじょ?」
僕の疑問に巌は面倒くさそうに答えた。
「ああ、なんつーか、都市伝説の親玉みたいなもんだ」
「それは竹内文書ではないか」
と、つぐみ。
「竹内文書は都市伝説じゃねえだろ。あれはSFだ」
僕には巌たちがいったい何を言っているのかわからなかったが、随分と楽しそうには思えた。ふと、香春に目が行く。香春は冷たい表情でじっと虚空を見つめている。何か言わないと。僕がそう思った瞬間。僕の右手が勝手に跳ね上がった。手のひらを空に向ける。僕たちの頭の上に、まるで傘が開くように炎が音を上げて広がった。
「この朝っぱらから、よくおいでだね」
上空に人影が浮いていた。白髪をひっつめ髪にした、鼻の大きな和服の老婆。森の魔女。
「出やがったな、ババア」
叫ぶ巌を嘲るように、魔女は笑った。
「おや、まだ生きてたのかい、この役立たずの唐変木が」
「うるせえ、白石は返してもらうぞ」
「相変わらず威勢だけはいいねえ。だが地面を這いずり回るしか能のないおまえらに何ができる」
そのとき、つぐみが消えた。姿を現したのは、魔女の頭上。
「上を取ったぞ!」
しかし。魔女は上を見なかった。地面の僕らを見つめながら、ニッと歯を見せる。そして魔女は地面に落ちた。雷の速度で落下した。そして地面に両手を叩きつけた。穴。僕らの足元に、巨大な真っ黒な穴が開いた。
「しもうた!」
つぐみの声の響く中、僕たちは穴の中へと落下していった。
闇の中に明かりが灯った。直径3センチほどのプラズマ火球。
「坊やケガはない?」
「大丈夫みたいだ。ミヨシは」
「私は飛べるもの」
僕の肩の上でミヨシは身体を揺らした。
(つながってるかな)
頭の中に意識を集める。しかし返答はない。
「相手も学習してるってことじゃないの」
「みたいだね。他のみんなはどうしたんだろう」
周囲を見回す。プラズマ火球以外に光はない。天井までは3メートルほどあるのだろうか。左右の幅は10メートルくらいあるのかもしれない。大雑把に言うなら饅頭型の空間と言えばいいのか。それが延々と続いている。地面も壁面も天井も、ごつごつとした岩肌がむき出しになっている。洞窟のようだった。僕は歩きだした。どちらが奥になるのかはわからなかったが、立ち止まっていても仕方ない。
「しかし寒いね」
「気温は随分と低いわね。3℃あるかないかくらい」
「長袖着てて助かったよ」
滝緒は半袖だったが大丈夫だろうか、と思ったとき。
「止まって。誰かいるわ」
プラズマ火球の光の中に、足音とともに現れたのは。
「香春」
「頂さま。ご無事でしたか」
香春は左腕を抑えていた。
「ケガしてるの」
「いえ、ただの打ち身です。それより巌さまは」
「わからない、バラバラに落ちたらしい」
「では探さないと」
「誰を探すの?」
洞窟に響いたのは、鈴が鳴るような、とでも言うのか、少し舌足らずな、幼さの残る、楽し気で幸せそうな声。
「この声……」
香春は左腕を抑えていた手を放し、顔を両手で覆った。
「誰だ、どこにいる」
僕の声が洞窟にこだますると、それを待っていたかのように、洞窟の奥に光が灯った。上から照らすスポットライト。その光が照らし出したのは。白い花。白い花が絨毯のように厚く敷き詰められた、花のベッド。その真ん中には、白い服をまとった白い肌の少女が横たわっていた。少女にしか見えなかった。香春は2歩、3歩近づき、確信したように声を上げた。
「鈴音、鈴音なのね」
花のベッドに横たわる白石鈴音は、急に耐え切れなくなったのか、顔をくしゃくしゃにして、大笑いを始めた。そしてひとしきり笑うと、跳ね上がるように身を起こし、笑顔で香春を見つめた。少し垂れ気味の眠そうな目を大きく見開いて。
「そうだよ、こうちゃん」
香春は駆けだした。
「香春、待って」
そんな僕の声も届かない。香春は両手を差し出した。白石さんも手を伸ばす。2人の腕は交差し、そして互いを抱きしめ合った。だが香春の力の方がいささか勝っていたのだろう。
「こうちゃん、痛いよ」
白石さんは笑う。ころころと。香春に言葉はなく、ただ嗚咽だけが聞こえる。
「何かわかる」
僕は小声でミヨシに問うた。
「空間の歪み、念動力反応、センサーにバリア、火器危険物その他諸々、何もなしよ」ミヨシはあっさりと答えた。「もっともバックアップのない今の私の検知がどの程度当てになるのかは不明」
僕は白石さんたちに近づいた。罠かもしれない、と思わないでもなかったが、どのみち香春を放っておく訳にも行かない。スポットライトの作る光の輪の中に足を踏み入れた。
「白石さん」
僕のその声に、彼女はビクリと反応した。白い顔がみるみる赤く上気して行く。
「こうちゃん、ちょっとこうちゃん」
慌てて香春を引き離そうとするが、香春は離れない。
「白石さん、病気はもういいの」
がくがくと、頭が抜けるんじゃないかという勢いでうなずく。
「は、はい、大丈夫、みたいです。あの、ああ、でもまだしばらく紫外線には当たらない方がいいらしいです。て、言ってました。『あの方』が」
「あの方?それは誰」
「いや、誰って言われても、私にもわかんないです、その、ただ、私をお風呂に入れてくれて、そしたら、目が覚めて、脚も動くようになって、身体も動くようになって、それで、その、私に力を与えてくれたんです」
「力?何の力のこと」
すると白石さんは、恥ずかしそうにうつむき、はにかんだ。
「えっと、力ってほどの力じゃないんですけど、他のみんなに比べたら、ホント何もないみたいなものなんですけど、でも、『あの方』が約束してくれたんです。こうちゃんと頂くんだけは、仲間にしてくれるって」
何だろう、僕はおどおどと話す白石さんの向こうに、言い知れぬ闇を見た気がした。彼女は言葉を切り、そして小さく息を吸い込んだ。
「バラモンを知っていますか」
その不意の問いに、僕は虚を突かれた。バラモン、聞いたことがあるような気はするが、どこで聞いたのだろう。
「バラモンとはインドの宗教者、聖職者を意味する言葉です。カーストの最上位で、生まれながらにして高貴な選ばれた人々だとも言われます。けれど、お釈迦様はこう仰いました。生まれによって賤しい人となるのではなく、生まれによってバラモンとなるのでもありません。その行為によって賤しい人ともなり、バラモンともなるのです」
それはそうかもしれない、僕の意識がその言葉を肯定したとき、僕の体は動かなくなった。思考は自由を保っている。だが身体の自由は奪われてしまった。
白石さんは、香春の腕を静かにほどいた。背後に倒れそうになる香春の身を支え、静かに花のベッドに横たえる。香春も動けなくなっているのだ。
「こうちゃん、ごめんね。しばらく我慢してね」
白石鈴音は立ち上がった。白い裸足が妙に艶めかしい。
「これが私の力です。言葉で身体を縛り付ける力。こんな事しかできないけれど、でも、あの、私、こうちゃんと頂くんには、一緒に来てほしいんです。お願いです、いま考えてください。そんなに時間はないかもしれないけど、でも少しなら『あの方』も待ってくれます」
「そりゃ無理ってもんだろう」
その声は闇の中から聞こえた。洞窟の中にカラカラと下駄の足音が響く。スポットライトの作る光の輪の中に、黒い下駄、黒い着物が入ってきた。巌。
「こいつらだって馬鹿じゃねえ、『あの方』の正体も明かさずに仲間になれったって、はいそうですかと言う訳ゃねえわな」
この馬鹿野郎、出てきてどうするんだ、おまえも動けなくされて終わりだろう、と言ってやりたかったが、口が動かない。
「あなた、五十雀くんね」
白石鈴音の顔は厳しくなる。まさかこんな冷たい表情ができるとは、僕には予想外だった。
「へえ、俺のことも覚えてたのか。嬉しいね」
「こうちゃんを縛りつける、悪い人」
まるで凍らんばかりの冷たい声で言い放つ。
「お釈迦様は仰いました。生れを問うてはいけません。行いを問いなさい。火はあらゆる薪から生ずるのです」
巌は答えない。ああダメだ、やっぱり動けなくされてしまった。僕がそう思ったとき。
「良いことは言ってるな」巌の口が動いた。「だが俺にゃ効かねえよ」
白石さんは一瞬気圧されたような顔をした。だがすぐに冷徹な表情に戻る。
「あなたは陰陽師まがいの怪しげな商売をしているそうですね」
「呪禁道士だ」
「お釈迦様は仰いました。瑞兆・天変地異の占い、夢占いや人相手相の占いを完全にやめ、吉凶の判断を捨て去った修行者は、正しく世の中を遍歴することでしょう」
巌は「へっ」と一つ笑った。
「残念だな、俺は占いはやらねえ。だがよ、まあ間違ったことは言っちゃいねえと思うぜ。ただ、一点気に入らねえ所がある。『正しく世の中を遍歴する』ってどういう意味だ。それにゃまず、世の中に『正しさ』ってもんが存在してることが前提になるだろう。その根拠は何だ」
白石さんはムッとした顔で沈黙を返した。
「何だよ、答えられねえのかよ」
「お釈迦様は仰いました。勝利からは怨みが起きます。戦いに敗れた人は苦しんで倒れます。勝敗を捨ててやすらぎに落ち着いた人は、安らかに眠るでしょう」
「ただの逃避じゃねえか、つまらねえ」
今度はカチン、という音が聞こえてきそうな顔。
「お釈迦様は仰いました。解答をあらかじめ設定し、作りあげ、偏重して、自分の中にだけ正解があると思っている人は、不確かなものによって組み上げられた平安に執著しているのです」
「そりゃおめえの事だってわかって言ってるのか」
「お釈迦様は仰いました。成果を求める人は、その人間に相応しい重荷を背負うことにより、喜びの生じる境地と賞賛される楽しさを手に入れることでしょう」
「そりゃ依存じゃねえか。仕事と称賛に対する依存だろ。依存あるところには恐怖がある。一人で、自分の力だけで立つ恐怖だ」
白石さんの顔から一切の表情が消えた。モードが切り替わった、そんな感じだった。
「お釈迦様は仰いました。知恵であれ、戒律や道徳であれ、世間において偏見をかまえてはいけません。自分を他人と『等しい』と示さずに、他人よりも『劣っている』とか、あるいは『勝れている』などと考えてはいけないのです」
「そう考えない自分になりたい、って思いが願望であり欲望だってわかってるか」
「お釈迦様は仰いました。世の中の人々は、欲求によって縛られています。この欲求を制御することで解脱することができます。欲求を絶つことがあらゆる束縛を断ち切ることになるのです」
「それじゃダメなんだよ、そういう何かを得るために何かをするとか何かを断ち切るなんてのは凡庸な機械みたいな心なんだって理解しろ。それじゃ何も自覚できねえぞ」
「お釈迦様は仰いました。利益が欲しくて学ぶのではありません。利益がなかったとしても、怒る必要がないのです」
「学ぶって事の意味がわかってるか。学ぶってのは愛するって事なんだぜ。利益があるかないか考えてる時点で、そこには愛はねえよ」
巌が愛を語っている。ある意味動けなくて良かった。僕の身体が動いたなら、目玉が飛び出していたかもしれない。
「お釈迦様は仰いました。ある人は『ここだけに清浄さがある』と言い張って、他の教えは清浄ではないと言います。『自分が選び、信じているものだけが善なのだ』と言いながら、それぞれが別々の真理に固執しているのです」
「釈迦の言葉しか唱えられないおめえが言っても説得力はねえよ」
怒っていた。白石鈴音は怒りに身を震わせていた。その目に涙を溜めながら、彼女は絶叫した。
「お釈迦様は仰いました!怒っている人に対して怒り返す人は、重ねて悪事を働いていることになるのです!怒っている人に対して怒り返さなければ、勝ち目のない戦いにも勝てるのです!」
しかし巌はあくまでも冷静だった。
「勝ち負けじゃねえだろ。そんな事にこだわるな。殴られたからって殴り返すことは、つまんねえことなんだって気づけ」
白石さんは何か言いそうになったが、その言葉を飲み込んだ。そして己を落ち着けるためだろう、深く息を吸い込んだ。そして静かに息を吐く。
「お釈迦様は仰いました。真理を楽しみなさい。喜び、安住し、己の定めを知りなさい。真理を傷つける言葉を口にしてはいけません」
「おめえ知ってるか。真理に至る道なんてねえんだぜ」
「お釈迦様は仰いました。真理について話し教える人は、相手を不死身にしたのと同じなのです」
「いや、真理は刻々だ。そこに永遠はねえ。だから不死に真理はねえよ」
「破滅をもたらす悪魔よ。お前は打ち負かされたのだ」
「本当に破滅的な事は何か言ってやろうか。それはな、誰かの教えに機械のように従うことだ。おめえみたいにな」
「悪しき心の者よ。おまえは、私の行く道を見ることがないであろう」
「だから道なんてねえんだよ。すべては最初からここにある」
「ブッダはこの世界の語り教える人々のうちで特にすぐれたものなのです」
「何でおめえの言葉が俺に効かねえのか教えてやろうか。それはな、おめえがブッダじゃねえからだよ。言葉を真似ただけでブッダになれると思うな、馬鹿野郎」
その言葉が、何かを砕いたのかもしれない。
「うあああああっ!」
白石さんは叫んだ。走った。巌の胸に拳をぶつけた。
「否定するな!私を否定するな!私を!」涙を流しながら白石さんは叩く。「私がどんな思いで、どんな苦痛に耐えながら、言葉を心に刻みつけたか、おまえなんかに、おまえなんかには絶対!」
その拳を、巌は無言で受け続けた。そして白石さんが息を切らし、膝をつくのを待って、誰に言うでもなくこう口にした。
「俺も修行が足りねえな。いや、違うか。修行なんて言葉が出てくること自体がダメだ。ありのままの自分が見えてねえってことだからな」そして白石さんに語り掛けた。「もういいだろう。2人を自由にしてやれ」
白石さんは顔も上げず、小さな声でつぶやいた。
「犀の角のようにただ独り歩め」
直後、僕の身体に自由が戻った。香春は咳込んだ。苦し気に体を横に向けたが、動けるようになったのは間違いない。そして。
「あー、酷い目にあったわ」
僕の肩の上で、ミヨシがため息をついた。そうか、ミヨシも動けなかったんだ。自分のことで精一杯で、すっかり忘れてた。
「ああ、3人だっけか」
どうやら巌も忘れていたようだ。
香春は体を起こし、白石さんの肩に手を置いた。白石さんは香春の胸に飛び込み、声を上げて泣いた。香春はそれを再び抱きしめる。白い光の輪の中で、その姿には神々《こうごう》しささえ感じられた。そこに。
「空間が裂けるわ」
ミヨシが翼で天井を指した。暗い天井に、黄金色の裂け目が生じた。裂け目は広がる。漏れ出す光。その中から降りてきたのは、四本の蹄。黒い脚、黒い体の黒い馬。その背にまたがるローブの男。
「ミヨシ」
小さな声で問いかけた僕に、ミヨシも小さな声で答えた。
「なに」
「僕はいま、何が使える」
「プラズマ火球を一回飛ばせるわ。それで終わり」
「了解」
心もとない、と言うより絶望的と言ったほうが良いか。
【鈴音】それは頭の中に直接響く声。【君にはやはり、荷が重かったようだね】
「そんな、ウェルギリウスさま!」
白石さんは驚いた顔を上げた。ローブの男の下に駆け寄ろうとでも思ったのか、慌てて立ち上がろうとした。だが香春が抱きしめて離さない。
「ちょ、ちょっとこうちゃん、こうちゃんってば」
もがく白石さんの両手をつかみ、その両手を背後に回し両手の親指を交差させたうえで強く握る。白石さんの上半身は完全にロックされてしまった。
「仰る通りです」香春はローブの男を見た。「あなたの願いはこの子には荷が重すぎます。ですから返してもらいます」
【願い。私の願いを君は知っていると言うのかね】
「ご心配なく。理解しようなどとは思っておりませんので」
香春の言葉を聞いて苛立ちを見せたのは黒い馬。前足の蹄で地面をガンガンと叩きこう口にした。
「不遜なり」
空気が沸き立つような感じ。床に敷き詰められた白い花々が浮き上がったかと思うと宙を舞い、虚空に輪を作った。グルグルと回る花のリング。その前に立ちはだかったのは、巌。
「言うに事欠いて、不遜たあ言ってくれるじゃねえか、この馬っころが」
「なに」
「てめえらごときに敬意を示さなきゃならねえ理由が、俺らにあるとでも思ってるやがるのか。それこそ不遜だ、この馬鹿野郎が」
馬に向かって馬鹿野郎と言うのがどれほどの意味を持つのかを僕は知らない。だが放たれる怒りのオーラは宙に舞う白い花を黒々と染めた。
「口は災いの元という言葉を知っていますか」
「知ってるぜ。意味を考えたことはないけどな」
「でしょうね」
馬が歯を見せた。グルグルと回る花の輪が速度を速める。唸りを上げる。花びらがバラバラになり、輪は己の尾を噛んだ蛇の如く、ぬめぬめとした姿に変わる。その輪が、途切れた。その途切れた片端が、雷の速度で水平に走り、巌の顔を叩いた。破裂音。大きな身体が一瞬宙に浮く。しかし、巌の下駄は地面を噛んだ。倒れない。
「巌さま!」
香春が悲鳴にも似た声を上げる。だが白石さんの腕は放さない。巌は大丈夫、と言うかのように、小さく手を上げた。
「痛ってえな、このクソ馬が」
輪は再び輪となり、唸りを上げて回転している。黒馬は笑った。
「おや、意外と丈夫なのですね。しかしどこまで耐えられますか」
「グラント、もうやめてください」その声を上げたのは、白石鈴音。「ウェルギリウスさま、もうこんな事やめさせてください」
【そうは行かない。彼はグラントの逆鱗に触れたのだから。それにここを知られた以上、君たちを生きて外に出す訳にも行かない】
ウェルギリウスと呼ばれたローブの男は、僕らの頭の中にそう伝えた。しかし巌は性懲りもなくこう返した。
「何が逆鱗だ。上等だ、かかって来いよ馬刺し野郎」
黒馬の頭上で回転する輪は速度を上げた。そのとき。
「今だ、逃げろ青帽子!」
巌が叫ぶと同時に、ぞわり、洞窟の中に気配が動いた。
「何だ」
黒馬の視線が一瞬、正面から離れる。その隙を巌は逃さなかった。駆けた。黒馬の口の轡に手を伸ばす。しかし。巌の身体が、見えない壁に突き当たったかのように動けなくなった。ウェルギリウスの眼が怪しく輝く。だがそれは、僕の待ち望んでいた瞬間。
「飛べ!」
超音速で飛ぶプラズマ火球。狙いはウェルギリウスの額。けれど火球は宙に止まった。そこにあったのは、ウェルギリウスの右手人差し指、その指先。
【終わりだ】
冷徹なその声が僕らの脳裏に響いたとき。プラズマ火球が光を増したかと思うと、突如爆発した。炎が広がる。最初は揺らめく旗のように、やがてうねる龍のように。龍は身を2つに分け、4つに分け、一度四方に大きく広がると、伸びたゴムが縮むかの如く一瞬で中央に向かった。そして、人型となった。人の姿をした炎。いや、巌より二回りほど大きなその姿は、人型と言うよりも。
「……鬼だ」
思わず僕の口を突いて出た言葉。それは確かに鬼に思えた。これもウェルギリウスの力なのか。いや、待て。ならば何故、ウェルギリウスは驚いているのか。炎の鬼は唸り声を上げると、ウェルギリウスに拳を打ち下ろした。ウェルギリウスは手をかざし、受け止める。だが、黒馬グラントは衝撃に足をよろめかせた。上から左右から、拳を打ちつける炎の鬼。徐々に後退するグラントの背中でウェルギリウスは、攻撃を受け止めるので精一杯に見えた。けれど。突如グラントは大きく飛び退った。炎の鬼がそれを追おうと一歩踏み出す。その身体が持ち上げられる。下から轟音と共にせり上がったのは巨大な氷柱。炎の鬼は、一瞬で天井に叩きつけられ潰された。その衝撃が天井に亀裂を生む。同時に何かが割れた。目には見えない何かが、割れて砕けた気配がした。