鳥落とす声 3
ザンザンと雨粒が顔を叩く。強風に体が揺れる。さすがにもうヘリは飛んでいない。台風の接近にともない、この地域には大雨洪水警報と土砂災害警戒情報が出ていた。避難指示も出されている。眼下に流れる河には今も茶色い水が流れ続けているのだろう。僕と滝緒と伝蔵は、通行止めになっている鉄橋の上に立っていた。欄干のライトが足元を照らしている。500メートルほど下流には、件のホテルが水の中から突き出ている様子が見える。周囲の停電がいまだ復旧しない中、ホテルの部屋の照明だけが、煌々《こうこう》と光り輝いているのだ。
【バリア反応なし】
僕の脳内に、トド吉の声が響く。同じ声は伝蔵にも届いているはずだ。
【センサー反応なし】
伝蔵は僕の肩でつぶやく。
「丸腰というわけか。解せんな」
「罠だと思う?」
滝緒が伝蔵をのぞき込んだ。
「わからん。連中の目的がデモンストレーションだったとして、この状況で警察なり自衛隊なりが突入してこないと考えているとは思えん。だがそれに対する備えが見えない。最初から戦う気がないのか。しかしそれならば、ヘリを落とした時点で目的は達しているはずだ。なぜ人質を解放しない」
「まだ終わってないってことだよね」
普通に考えれば、そういうことだろう。僕の言葉に伝蔵は「うむ」とうなずいた。
「ミヨシ」
【空間のねじれは検出されてないわよ】
伝蔵のよびかけに、ミヨシはそう答えた。
「重力制御フィールドの準備は」
【立ち上げは終ってるわ。いつでも展開できるけど】
「いつ使うかわからん。頼むぞ」
【了解】
重力制御フィールドは文字通り重力を制御する。らしい。何回か使っているのだが、どういう理屈で何がどうなっているのかはまったく知らない。
「重力制御って言っても空が飛べたりはしないんだよね」
僕の何気ない質問に、伝蔵は驚きの答えを返した。
「飛べるぞ」
「え、飛べるの」
「重力を制御するのだから当たり前だろう」
「そんな使い方したことないじゃん」
「飛んだら降りねばならんからな。飛ぶのは簡単だが安全に降りるのは難しい。飛行機と同じだ。だから専門の教育を受けた者でもなければ重力制御フィールドだけで飛ぼうなどとは普通思わない。どうしても飛びたいのなら飛び方を教えてやってもいいが」
「いや、それはいいや」
「ふん」伝蔵は小さく笑った。「それが物理法則にのっとっているかぎり、重力の影響下にある現象は重力を制御することでコントロールできる。一番使い勝手の良い道具だ。便利に使えればそれでいいではないか」
「まあ、そりゃそうだけどね」
「そろそろ?」
滝緒が僕らを見た。切れ長の目が淡い光を受けて星のように輝く。
「そうだな、行くとするか。離れるなよ」
伝蔵が言う。僕の手を滝緒が握った。
「トド吉」
【アイアイサー】
一瞬の気圧の低下。耳がキンとする。視界が揺れた、と思ったときにはもう、僕らはホテルの廊下にいた。廊下の照明は落ちている。大きな緑色の非常誘導灯だけがぼんやりと廊下を照らしていた。赤絨毯の敷かれた幅2メートルほどの廊下を、僕らは静かに歩いた。
「ここ何階なの」
僕は何だか気になったのだ。ドアの間隔が広い気がした。
【10階や。最上階やな。ホテルのサイトにはスイートルームって書いてある】
「じゃ、階段の下が9階なんだ」
【9階はレストランで8階は結婚式場らしい】
ああ、幸いなるかな。このトド吉の声は滝緒には聞こえていない。僕は廊下の突き当りのドアを開け、階段室に入る。
「とりあえず7階まで降りる?」
階段を下りながら、肩の上の伝蔵にたずねた。伝蔵は小首をかしげる。
「いや、9階と8階ものぞいておこう。連中がどこにいるのかわからんからな」
「それ調べることってできないの」
「もちろんできる」
「できるんじゃん」
「ただ相手の正体がわからん。目的もわからんし、文明レベルもわからん。何もわからん状態で、むやみに刺激する訳にも行かんだろう」
「なんかここに来てること自体を否定してるような」
「別に戦争をしに来た訳ではない。それならそれでやりようもあるが、まずは平和裏にことを運ぼうとしているのだ。話し合いで解決するならそれに越したことはない」
「そりゃそうだけどさ」
などと言っているうちに9階である。階段室のドアを引く。開いた。フロアの真ん中に通路があり、向かって右側が和風レストラン、左側がイタリア料理店らしい。和風レストランのドアを押してみた。開かない。まあ普通に考えてこの時間は施錠されているだろう。イタリア料理店のドアも同じだ。厨房の扉も試してはみたが、どちらも閉まっていた。
「何もなし、だね」
「では8階に行くか」
伝蔵が肩の上で小さく笑う。
「何?8階に何かあるの」
滝緒が僕の顔をのぞき込む。何でこんなときだけ勘が良いんだ。
「いや、別に何ってことはないけど」
僕は再び階段室のドアを開けた。
僕らは無言で階段を下り、8階に着いた。階段室のドアは少し重い感じがしたが、気のせいだろうか。8階はびっくりするほど天井が高かった。入るとドアのすぐ左手に、ウェディングドレス姿の女性のポスターが。そこにデカデカと書かれている文字。『新春ウェディングプラン』もうごまかしようがない。滝緒はポスターの前に釘付けになっている。
「あのさ、たきおん……」
滝緒は振り返った。瞳をらんらんと輝かせて。
「何、驚かそうとしたの?サプライズ?」
「違うから」
何でそうなるんだ。僕は滝緒の手を引っ張り、その場を離れた。
通路は右に折れ、左に折れた。通路に沿って歩くと、突き当り、エレベーターホールの手前に扉が見えた。向かって右側に1つ、左側には2つ。右側の扉を引いた。開いた。何故施錠されていないのか。一瞬迷ったが、中に入ってみた。暗い。けれど非常誘導灯の光でうっすらと様子はわかる。中には背もたれのついた長椅子が並び、真ん中に通路、その突き当りには大きな十字架がかかっていた。
「チャペルだあ」滝緒は楽しげな声を上げた。「いいなあ。ちょっと小さいけど、いい雰囲気。ね、良くない?」
「そう言われても、クリスチャンじゃないし」
「もう、そういうことじゃないでしょ」
じゃ、どういうことなんだ。僕がそう言いかけたとき。ガタン。何かが倒れる音がした。周囲を見回す。だが何も異常はない。僕たちはチャペルの外に出た。通路の左側には、扉が二つある。向かって右、エレベーターホール側には小さな扉。向かって左、階段側には大きな扉。その大きな扉が開いていた。中は真っ暗だ。非常誘導灯があると思うのだが、その光さえ見えない。
「どうする。入る?」
僕の言葉に、伝蔵はちらりと右側を見た。
「ちなみに、あの小さな扉は何だ」
「新郎新婦の控室じゃない」
滝緒が言った。
【正解】
頭の中にトド吉の声がした。
「聞こえてるんじゃないか」
【そら聞こえとるわな】
「黙ってるから聞こえないのかと」
【おまえらが参加しにくい会話してるからやろ】
「そんな会話してたっけ」
【おまえ、ホンマ自覚症状のないやつやな】
「そういう話は後にせい」
伝蔵に叱られて、トド吉はまた黙った。伝蔵は開かれた扉の奥の闇を見つめた。
「とにかく、ここに入らんことには話にならん。ミヨシ」
【聞こえてるわよ】
「重力制御フィールド展開」
僕の右手が勝手に跳ね上がり、手のひらを前に突き出す。
【はい、展開】
僕らは扉から中に入った。暗闇の中に一歩踏み入った、そのとき。天井の一点から強い光が発せられた。スポットライトが照らし出したのは、一番奥の空間。輝く金屏風。その前に、馬が居た。身体の大きな、黒い馬。それが後ろ2本足で立っていた。
「ようこそ、いらっしゃいました」馬は人語を話した。「どうしたのです。私に会いに来たのでしょう。もっと近くへお寄りなさい」
僕たちは歩を進めた。金屏風に反射した光が、うっすらと室内の様子を照らし出す。丸テーブルが幾つも並び、その上に椅子が5つ6つ逆様に乗せられている。披露宴会場の大広間であろう。そのテーブルの中を縫うように歩きながら、僕らは金屏風に近づいて行った。
デカい。近づいて改めて黒馬のデカさに気づく。頭の位置は3メートル以上の高さがあった。なるほどな、と僕は思った。他の階では立ち上がると頭が天井に着いてしまうのだろう。おそらくは4階の宴会場も天井が高いのではあるまいか。
「ようこそ、お三方」黒馬は僕らを見据えると、改めてそう言った。「お二方とはお初にお目にかかります。君とは2度目ですね」
僕のことだろう。
「あなたは、あのときの馬ですか」
「そうですよ、君に斬れと言われたあの馬です」
「なら、ひとつ聞いてもいいですか」
「なんなりと」
「あの戦いには何の意味があったんですか」
恵海老人が命をかけて挑んだ戦い。けれど僕には、その意味がわからなかった。黒馬は愉快げに目元を歪ませた。
「君は面白い人ですね。いいでしょう、教えてあげましょう。我々はこの国を欲しています。しかしこの国と言っても、地図に引かれた国境線の内側のみを欲している訳ではありません。この領域と境を接する異界を含めてこの国のすべてを欲しているのです。ゆえに異界にも橋頭堡を築く必要がありました。そのための戦いを、我々は幾つも並行して行っていたのです。あの戦いは、その数あるうちのひとつです。それ以上の意味も値打ちもありませんよ」
「勝ち負けなど論ずるに値しないと」
「結論を言うならそういうことです。もちろん、勝てるならそれに越したことはありませんでしたが」
本当だろうか。黒馬の眼はチカチカと光り輝いている。その奥にひそむ虚実など見極められない。もしここに、巌がいたら何と言うだろう。僕は己の力不足を痛感していた。
「他に質問はありませんか。ないのなら……」
「質問は、ある」伝蔵が答えた。「だがその前に、そちらに質問はないのか」
黒馬は意外だ、というそぶりを見せた。
「おや、こちらの質問に答えていただけるのですか」
「こっちはひとつ答えてもらった。ならばひとつ答えよう。我らは戦いに来た訳ではない。よってフェアに行きたい」
カッポカッポ、黒馬は前足の蹄を打ち鳴らし、拍手の真似事をした。
「素晴らしい。こんなところでフェアプレーの精神にお目にかかれるとは思いもよりませんでした。ではお言葉に甘えて、質問させていただきます」その蹄が、伝蔵を指した。「あなたはいったい、どこの何者ですか」
「キルヤガリヤレ=フィレステハスト星間宇宙連盟の時空移民局第341銀河境界監視団の団長である」
黒馬は目をぱちくりさせて当惑を表した。いや黒馬だけではない。僕と滝緒も困惑した。特に僕は、いま初めて宇宙連盟の名前を聞いたのだ。驚きもする。
「と、言っても何のことやらわかるまい。まあ、異星人の公務員であるとだけ理解してもらえれば良い」
その伝蔵の説明に、黒馬はホッとしたようなため息をついた。
「それで、その異星人の方がなぜ人類に肩入れしているのですか」
「我らの使命は時空渡航者の並行世界間の移動を監視すること。あんたらの仲間に、その時空渡航者がいるのでは、と思っているのだ」
「時空渡航者というものがどういう存在かは存じませんが、我々の仲間にはいろいろな種族がおります。もしかしたら、そういう者もいるやもしれません。しかし、いたとして、それをどうするつもりなのですか」
「それは交渉次第だ。我らは秘密警察ではない。見つけ次第捕まえることが第一の使命という訳ではないのだ。そもそもこの惑星は我ら連盟の加盟惑星ではない。逮捕する権限もない。ゆえにこの惑星の住人に多大な影響を与えないというのなら、引き換えに見逃すこともやぶさかではない」
「おお、なんと寛大な。なんと心の広い方でしょう。この星の上に暮らすすべての公務員がみなあなたのような心であれば、もっと良い世界になるでしょうに」
「と、いう訳だ。あんたの仲間に会わせてくれないだろうか」
「それはできかねます」
黒馬は歯をむき出した。嗤っているのか。
「なぜできないの、って聞いていいのかしら」
滝緒の問いに、黒馬はうなずいた。
「あなたたちがフェアにこだわるのなら、こちらもフェアに参りましょう。随分たくさん質問してしまいましたからね、そちらの質問にも答えましょう。なぜできないのか、それを聞きたいのですね。理由は簡単です。我々の目的は、この惑星の住人たちに、多大な影響を与えることそれ自体だからですよ」
「いったいどんな影響を与えるつもりなの」
「このアニミズムとシャーマニズムにあふれた稀有な近代国家を無敵の魔法国家へと変貌させるのですよ」
「なんのために」
「世界を変えるためにです」
「でもどうして日本なのよ」
その滝緒の問いには、しかし黒馬は答えなかった。
「はい、ここまでです。時間切れ」
黒馬がそう言うと同時に、かすかな振動が。天井がビリビリと震えている。
【自衛隊が突入した!】
トド吉の慌てた声が頭の中に響く。
「どういうことだ、監視していなかったのか」
伝蔵の叱責に、ミヨシが割って入る。
【監視はしてたわよ。でも察知できなかったの】
「そんなマヌケな話があるか!」
【だって本当なんだもの、仕方ないでしょ】
「内輪もめは好きになさってください。我々は失礼いたしますので」
黒馬は前足を下ろすと、金屏風の前から立ち去ろうとした。
「待て、逃がす訳にはいかん」
伝蔵は僕の肩から飛び上がると、黒馬につかみかかった。その瞬間。伝蔵の羽根が音もなく散った。はるか彼方の花火のように。
【超低周波確認!】
僕は反射的に振り返った。扉のところに立つシルエット。鳥打帽の男。男は大きく息を吸い込んだように見えた。僕は右手のひらを男に向けた。男が何か叫んだ。しかし何も聞こえない。けれど僕の右手のひらの真下の床と真上の天井に突然亀裂が走った。
【超低周波確認、そいつが超低周波砲の正体や】
「おやめなさい」
黒馬がとがめたのは、鳥打帽の男だったか、それとも僕だったか。僕は開いていた右手をギュッとすぼめた。重力制御フィールドをラッパ型にするイメージ。鳥打帽の男はまた聞こえない叫びを上げた。しかし次の瞬間、男は反射した己の声に額を撃ち抜かれ、後ろへと倒れた。
「やれやれ、困りますね」黒馬は倒れた男に近づいた。「こんなところで大切な兵隊を潰されてはかないません」
男の身体が、ふわりと浮いた。それは宙を舞い、静かに黒馬の背中に乗った。
「もはや目的は達成しましたし、とっとと逃げることにします。でもあなた方と会話ができたのは有意義でした。お礼と言っては何ですが、一つ予言をしてあげましょう」そして黒馬は、歯をむき出した。「もうすぐ、火事が起きますよ」
そう言い残すと、黒馬は扉から出て行った。