鳥落とす声 1
いよいよ秋も本番である。山々の紅葉も美しいこの時期に、台風が近づいているという。とはいえこの辺りは予想進路からは外れているし、それほど気にする必要もないのだけれど、それでも大雨は降るかもしれない。あんまり晴天が続くのも、紫外線的に嫌なものなのだが、降ったら降ったで厄介なんだよなあ。特に今は。
今は真昼、普通ならば昼飯時なのだが、僕は小鳥ホテルの玄関ホールでお客様を待っていた。当ホテルの営業時間は午後8時からだが、事前に申し出があれば、それ以外の時間でも対応する。どうしても昼間に預けたいという飼い主さんもいるのだ。余程の不都合がない限りそういうことにも配慮しなければ、サービス業はやって行けない。まあ、実際やって行けてるのかどうかという点には疑問符がつくのだけれど、それはそれでまた別の話だ。
約束の時間は12時。いまはそれを15分ほど過ぎたところ。さて、何時ごろになるのかな、と長期戦も覚悟しだしたとき、駐車場に黒いミニバンが入ってきた。ちょっとスピードオーバー気味である。前から駐車場に停め、運転席から飛び降りると、後部のスライドドアを勢いよく開け、ケージと紙袋を取り出すと、ドアも閉めないでこちらに走って来る。そして玄関前まで来たときに内側の僕に気づき、神妙な顔でガラス扉を押し開けた。そして風除室からホールの中に入って来ると、いきなりケージを持ったまま頭を深く下げた。
「すみません、遅れました!」
「いやいやいや、そこまで遅れてないですから」またえらい真面目な人だな。そう思いながら僕はケージに手を伸ばした。「とりあえず、ケージ預かります。あ、紙袋も」
「はい、すみません、よろしくお願いします」
手渡されたのは、およそ45センチ角のインコ用ケージ。慌てふためく飼い主とは対照的に、中の鳥はどっしりと落ち着いていた。そして一声、「カア」と鳴く。バイオカラスだ。厳密に言うなら、バイオカラスはペットホテルでは預かれない。普通に考えれば野鳥だからだ。野鳥は基本、飼うことは禁じられている。ただ自治体によって差があるが、特例として、『保護』という形なら飼うことも可能になる。しかしこれには当然自治体の許可が必要であり、そして許可は個人に限定される。すなわち許可を受けた者以外は野鳥を飼育してはならないのである。それが短期間であろうと、ダメなものはダメなのだ――つまり本当に厳密に言うなら、許可を受けた者の家族が野鳥の世話をすることもダメなはずだ――だからペットホテルでは預かれない、というのが通説である。別に鳥獣保護法に『ペットホテルで預かってはならない』と書かれている訳ではない。あと、バイオカラスを本当に『野鳥』のカテゴリーに入れていいのかどうか、と言う点で議論があるのも事実だ。でも普通なら預からない。申し訳ないがお断りする案件だ。しかし僕も人間、「どうしても、仕事の都合でどうしても3日だけ家を空けなければならないのです。その3日だけ預かってもらえたら」と熱心に頼まれたら、ダメなものはダメ、と機械的に断ることはなかなか難しい。まして他に預かっている鳥の居ない期間である。
「あ、あの、何か書いたりしなくていいんでしょうか」
飼い主氏は手で書くジェスチャーをしながら、心配そうに聞いた。本当に真面目な性格なのだろう。サングラスで目の表情は見えないが、たぶん僕より少し若いくらい。親が厳しかったのだろうか。
「いえ、ご予約のときも申し上げましたが、本来預かっちゃいけない鳥です。記録を残す訳にも行かないですし、その点、加津さんもご内密によろしくお願いします」
加津功、それが彼の名前である。『いさお』と『いわお』、1字違うだけでえらい違いだな、と思った。
「なにぶん他の人に預かってもらうことも初めてなので、よろしくお願いします。では」
そう言いながら上着の胸ポケットから財布を出した。
「はい、3泊で4500円になります」
加津氏は途中何度も振り返りながら車に戻り、今度は落ち着いて車を発進させた。それを見送ってから、僕は客室に入り、バイオカラスのケージに餌と水が入っているか確認した。餌はふやかしたドッグフードを与えているようだ。こちらは大丈夫だったが、しかしやはり水はほとんどこぼれている。水を入れなきゃな、とケージから水の容器を取り出すと、バイオカラスが一声鳴いた。
「クウちゃん」
そのときになって、僕はこのバイオカラスの名前を聞いていなかったことに初めて気づいた。凡ミスもいいところである。
「そうか、おまえクウちゃんっていうのか。カアちゃんじゃないんだな」
「クウちゃん」
「了解、クウちゃん。水入れてくるからちょっと待っててな」
僕は一旦玄関ホールに出ると、キッチンに向かおうとして、鳥部屋のドアを開けた。その途端。
「キャーッ!」
セキセイインコのリリイが奇声を上げて僕の顔に飛びついてきた。
「いったい何。何事だよ」
「さっきのカヅですよね。カヅでしたよね!」
「おいおい、飼い主さんを呼び捨てはやめてくれないかな」
するとリリイは、足で僕の顔にぶら下がったままで、心外である、という顔をした。
「そういうことじゃありません。菊弥さんはさっきの人が誰なのか、知らないんですか」
「だから飼い主さんの加津さん」
「そうじゃなくて!あれはカモミールスーパーマーケットのボーカルのカヅなんですよ!」
カモミールスーパーマーケット、そんな名前を最近聞いたような気がしないでもない。だが。
「知らないなあ」
「もう、このあいだ話したじゃないですか」
「覚えてない」
「おじいちゃんですか!」
「そんなこと言われても、興味ないんだから仕方ないじゃない」
「菊弥さんは老けすぎです。もうちょっと若者らしくしてください。だから女の子にもモテないんです」
「それは余計なお世話だ」
「好意的助言です」
「いいんだよ、知らなくていいことは知らなくても。芸能人だからって特別扱いできる訳じゃないんだし」
「すればいいのに。一晩タダとか」
「自分の仕事の存在意義を否定するような真似はできないよ」
「頭固いなあもう」
「他に取り柄がないんでね」
僕はリリイを指に乗せるとケージの上に誘導し、クウちゃんの水を入れるためにキッチンへと向かった。そのとき、ふと、さっき加津氏が言っていた「何か書く」っていうのは、もしかしたらサインのことだったのかな、と思い至ったが、まあ済んだことである。気にしても仕方ない。
その日は他に来客もなく、天候も穏やかなまま一日が過ぎた。世はなべて事もなし。いや、本当の所、まったく何もなかった訳ではないけれど、僕個人ではいかんともし難いことであったし、何も見なかったことにして玄関の照明を落とした。
翌日は来客も一切なく、静かな一日。クウちゃんのカバンの中には餌と一緒におやつとして、食塩不使用の食パンが入っていた。小さくちぎってあげてみたら、食べる食べる。あっという間に1枚食べきってしまった。これはあげすぎちゃいけないな、餌を食べなくなるかもしれない。注意しよう。そんなことを思いながら一日が終わった。
クウちゃんを預かって3日目、曇り空。台風はこちらには来ないものの、南下する前線を刺激している。雨が降る予報。大雨にならなければいいけど。いや、いっそ大雨が降ればいいのかもしれない。大雨が降れば、さすがに。
PCで天気予報を見ながら朝食を食べていると、突然頭の中にリリイの声がした。
【テレビ見てますか】
「見てないよ。何かあったの」
テレビはPCの隣にある。マルチディスプレイとしても使えるのだが、普段はそんなにウインドウを開く訳ではないので、PCと同時に起動したりはしない。テレビ番組も、せいぜい夜7時のニュースくらいしか見ないので、ほとんど使われていなかった。そのテレビが勝手に起動した。そしてチャンネルが次々に変わって行く。すごいな宇宙人、こんなこともできるのかと見ていると、あるチャンネルで止まった。民放の朝の情報番組である。画面には滔々《とうとう》と流れる茶色い水が映っていた。今回の台風の影響で、どこかの堤防が決壊し、水が住宅地に流れ込んだようだ。こういう報道なら民放より公共放送の方が詳しいんだが。
【見ててください】
カメラの映像は住宅地を離れて河を映しているらしいが、一面茶色い水だらけで河とはわからない。もうちょっとカメラを引いた方がいいんじゃないだろうか。と思っていると、河の真ん中に大きな建物が現れた。取材記者が中州がどうこうと叫んでいる。なるほど、この建物は中州に建っているのか。普段は両脇を静かに河が流れているのに、一気に増水してこんな河面から突き出たようなことになったわけだな。こりゃ大変だ、中にいる人は屋上からヘリで脱出するしかないんじゃないか。僕がそう思った瞬間である。画面が揺れた。そしてカメラは下から上へと流れる景色を映し出し、暗転した。
【ついさっき起こったことです。テレビ局は繰り返しこの映像を流しています】
「何だこれ。何が起きたの」
【撃墜です】
「撃墜?」
【取材ヘリが何者かの攻撃を受けて撃墜されたんです。そうとしか考えられません】
僕は思わず立ち上がった。ようやく頭が目覚めた気がした。
――この地域では深夜に堤防が決壊し、多くの住宅に被害が出ていました。墜落したヘリはその様子を取材中で、中州に建っていたホテルを撮影しているときに機体にトラブルが生じて墜落した模様です――
時刻は午前8時を過ぎている。テレビ各局は先を争ってヘリを飛ばし、河の中に落ちた哀れな同業の機体を映像に収めていた。
「命知らずだなあ」
テレビに向かってつぶやく僕に、リリイは言った。
「撃墜されたなんて思ってないんですよ」
「まあこの国の平素の状態なら、そう思うのが当然よね」
ミヨシは面白そうに周囲を見回している。普段はキッチンに入ることがないからだ。キッチンには鳥の身体によくないものがたくさんある。人間の食べ物しかり、フライパンやオーブンのテフロンしかり。宇宙人にはどうということもないのかもしれないが、万が一を考えて、普段はキッチンには僕以外立ち入り禁止だ。でも今日は仕方ない。
「何かわかったか」
伝蔵がトド吉に声をかける。トド吉はPCのモニターの上に止まっていた。PCの画面はめまぐるしい速度でどんどん変わって行く。何が表示されているのか僕にはさっぱりわからない。
「わかった、ちゅうか、映像にはそれらしいもんは何も映ってないんやけど」PCの画面には、何かの波形のようなものがたくさん並んでいる。「ヘリが落ちる寸前に人間の可聴域外の音波が記録されてるな。物凄い音圧で」
「ふむ。で、おまえの見解は」
「超低周波砲やろな」
「さらっと言いおったな」
その伝蔵の言い方が気になった。
「超低周波砲って、もしかして物凄いものなの」
伝蔵はうなずいた。
「音を砲弾とする、という発想自体はそう突飛なものではない。この惑星でも過去にそういう兵器を作ろうとした者はいるだろう。だが破壊力が減衰することを計算に入れて狙いを定め撃ち出す、ということなら、普通の金属製の砲弾を使った方が合理的だ。音波砲のメリットは重たい砲弾を砲にセットしなくて済むということと、砲弾が相手から見えないという二点くらいしかない。それは超低周波砲でも同様だ。技術的には作れても、コストに見合うだけの効果が出せるかというと、はなはだ疑問なのだ。だから普通は実用化はされない」
「それを誰かが実用化した」
「よほど酔狂なやつか、それとも何か理由があるのか」
黄金の髪、白い肌。僕の脳裏には、あの名も知らぬ男の姿が浮かんでいた。根拠も確証も何もないが、あの男が絡んでいるような気がしてならない。と、そのとき。
「超低周波検知!」
トド吉が叫んだ。次いでテレビを見ていたリリイが声を上げる。
「2機目、落ちました!」
落ちたのはまた民放の取材ヘリ。河の中から突き出た建物――ホテルだそうだ――を撮影中に墜落した。
「1機目とまったく同じか」
伝蔵の言葉に、しかしトド吉は振り返った。
「いや、まったく、ではないみたいやで」
2機目のヘリに搭載されていたカメラの映像が、PCの中に映っている。どこからどうやってダウンロードしたんだろう。宇宙人の技術は変なところが凄い。その映像が止まった。コマ送りされている。
「ここやな」
完全に止まった映像を、今度はクローズアップする。どんなソフト使ってるんだろう。気になる。画面ではホテルのバルコニーの部分がどんどん拡大されていく。と、1か所だけ、窓が開いていた。そこからバルコニーに出てきたのであろう、一人の人物。チェックのスーツに、いわゆる鳥打帽をかぶった男の人。口に両手をあてて、何か叫んでいるかのように見える。よくここまで鮮明に拡大できるものだな、僕が感心していると、ミヨシが何かに気づいたようだ。
「この部屋の中、何か居るわね」
「んー?」
言われてトド吉は画面を見つめた。画像の色がどんどん変わって行く。明度と彩度を変化させているようだ。徐々に部屋の中に居るものの影が浮き上がって来る。それは。
「……馬?」
暗い部屋の中に居たそれは、黒い馬に見えた。僕の頭の中を記憶が走る。これはあの、恵海老人と戦った黒い馬ではないのだろうか。
「可能性はあるわね」
僕が口に出すより先に、ミヨシが答えた。
「だが何故だ。何故あの馬がここに居る」
伝蔵はまだ懐疑的だ。しかし。
「何故、って言うか、まずホテルの部屋の中に馬が居ることが変だよね」
「確かに」
僕の言葉にリリイがうなずいた。
「変なことやったらまだあるで」トド吉は画面を見つめている。「このホテル、ざっと見たとこ10階建てくらいやと思うんやが、なんで他の部屋の客はバルコニーに出てけえへんのやろ。よしんばバルコニーに出られへん理由があったとして、屋上に出て救助を待つとか何とかすることはあるやろうに、このおっさん以外、誰も外に出てないのは変やろ」
「それも確かに」
リリイはまたうなずいた。伝蔵は難しい顔で目を閉じている。パスタは画面をのぞき込み、ミヨシは少し飽きてきたような顔だ。みんな黙ってしまった。キッチンにはテレビの音声だけが延々と流れている。こんなときでもCMを流すんだな、僕がどうでもいいことに驚いていると、突然壁の電話が鳴った。うちはいまだに固定電話なのだ。光電話だけど。
「はい、もしもし、『小鳥ホテル 頂』です」
誰だろう、表示された電話番号は未登録の番号だったが。
「ああ、良かった、やっとつながった」電話の主は、受話器の向こうで随分とホッとしているようだった。「このあたりの電話回線パンクしてるみたいで、なかなか通じなかったんです、すみません」
「いや、あの、えっと、どちらさまでしょうか」
「ああ!すみません、加津です。一昨日鳥をお預けした加津功なんですが」
「あ、加津さんでしたか」振り向いたリリイが目を輝かせた。「どうなさったんですか。急に」
「いや、それが、何て言えば良いんでしょうね」
「はあ」
「いま、テレビって点いてますか」
「ええ、まあ」
「そのテレビに映ってるホテルなんですよ、いま居るのが」
「……えっ」
「で、いつここから出られるかわからないんで、明日のお迎え行けるかどうか、いまの段階ではわからないんです。大変に申し訳ないのですが、もしかしたら、もう1日か2日延長させていただくことになるかと思うのですが、その、大丈夫でしょうか」
「ええ、お預かりに関しては大丈夫ですけど、加津さんの方は大丈夫なんですか」
「いや、それが大丈夫とも何とも言えなくて。変な話なんですが」
加津氏がそれから話した『変な話』に、僕たちは息を呑んだ。