魔光射す家 2
「当館の主、唐渡修七郎にございます」
広い玄関を通り過ぎ、正面にあった扉を開いて入ったもっと広い部屋。泊戸が紹介した男は、その一番奥に座っていた。くぼんだ光のない目、ちょろっと生えた貧相なあごひげ、やせこけたミイラのような体。肖像画は何割か増しで美化して描くと聞いたことがあるが、これは割り増しどころの騒ぎではない。詐欺だ。僕はそう思ったものの、さすがに口には出さなかった。
それにしても、部屋が広い。でたらめな広さである。洋館は確かに小さな建物ではなかったが、あの広い玄関の向こうにこんな広さの部屋が続くほどの大きさはなかった。あの山の中の謎の大浴場を思い出す。また空間がねじれているのではないだろうか。そして広いだけではない。部屋は絢爛豪華に輝いていた。黄金色の柱が立ち並び、いくつものシャンデリアが吊るされている。壁面や丸い天井には神や天使の絵が描かれ、その集中点の結ぶ先、すなわち部屋の一番奥の席に座るこの部屋の主人を飾り立てていた。ただの広間ではない。謁見の間と呼ぶにふさわしい。ただし玉座に座る主人は、貧相なミイラもどきであったが。そのミイラもどきが、にまあっ、と笑った。
「こういうところは初めてかな」
僕を見つめていた。いかん、無意識にきょろきょろしていたのだろうか。
「あ、はい、どうもすみません、何をどうしていいかわからなくて」
「いやいや、かまわんかまわん。別にワシは王様でも何でもない。ひざを折れだの礼を尽くせだの言うつもりもない」
つもりはあるんじゃないのか、と思ったがそれを言う訳にも行かない。
「ただな」
唐渡修七郎はワイングラスを手に取ると、軽く揺らした。いつの間に隣に立っていたのだろう、泊戸がグラスにワインを注ぐ。血のように赤々としたワインを。
「一献傾けたいと思うのだが、受けてくれんか」
そう言うとワイングラスを僕に突き出した。これを飲めと言うことだろうか。別に酒は飲めない訳ではない。だが何だろう、心の奥で抵抗する力が働いている。飲むな、飲んではいけない、そう叫ぶ声がある。
「どうした、ワシの酒は飲めんのか。ん?」
その言い方に、カチンと来る。足が一歩出かかる。しかし、左手に熱を感じた。滝緒が僕の手を握り締めている。
「唐渡さま」香春が僕と唐渡修七郎の間に立った。「そのお酒、私めにいただけませんでしょうか」
しかし唐渡修七郎は手を振った。グラスが投げつけられる。それが香春の顔に当たる寸前、割って入った巌の背に当たって落ちた。
「何しやがる」
「メイドごときが出しゃばるな。不愉快だ」
「んだとてめえ」
「巌さま」
香春は巌の腕を取り、抑えようとしている。それを唐渡修七郎はつまらなさそうに見つめた。
「ワシは女には興味がない」そして歯をむき出した。「それに民対にも興味はない」
その瞬間、光が消えた。
暗転。何も見えない。しかし一瞬後、僕らを包む闇を払ったのは、滝緒の懐中電灯だった。光は滝緒を、僕を、巌を、香春を照らした。全員いる。次いで壁を照らし、天井を照らした。何もなかった。シャンデリアも、黄金色の柱もない。壁にも天井にも何も描かれていなかったし、そもそもそんなに広い部屋ではなかった。ちょっと広めの旅館くらいの広さ。10畳ほどか。三方の壁は薄汚れた灰色で、扉はなかった。残る一方には大きな窓。ステンドグラスではない。ただの透明なガラス窓。外も真っ暗だ。だが空には星明りが見える。思わずそちらに歩み寄ったその僕の足首を、何かがつかんだ。前のめりに倒れかけた僕の、今度は襟首がつかまれた。
「動き回んじゃねえよ」
闇に響く巌の声。滝緒の懐中電灯が僕の足元を照らした。そこにあったのは、人間の腕。床から生えた青白い人間の手が僕の足首をつかんでいたのだ。その手に、白い串のようなものが突き刺さる。声こそ聞こえなかったが、青白い手は悲鳴を上げたかのように震えると、姿を消してしまった。巌は僕の身体を起こすと、床の四方に向かって何かを投げつけた。さっきの串のようなものだろうか。
「今の何」
「何ってただの白木の串だよ」巌は一本、袂から串を取り出して見せた。「結界を張るってよく言うだろ。まあそれだ」
滝緒が懐中電灯で床に刺さった串を照らした。その串の向こう側には、青白い腕が何本も床から生えている。いや、床だけではない。壁からも、天井からも、腕が無数に生えていた。
「こ、ここここここ」
「だからおめえはニワトリか、っつうんだよ」
焦る僕に対して、巌は軽く笑った。
「ここここれ、何だよこれ」
「何って霊だろうよ」
「霊?幽霊とか悪霊の霊か」
「死霊生霊怨霊精霊、浮遊霊に自縛霊、いろいろあるぞ」
僕は頭を抱えた。妖精、魔女、バンシーと来て、今度は幽霊か。何でこんなことにばかり巻き込まれるんだ。
「それで、結界の内側は大丈夫なのか」
「もう落ち着いたのか。早えな」驚くというより半ば呆れた顔で、巌は言った。「大丈夫かどうかはわからねえな。あのジジイ次第だ」
あのミイラもどきの老人。
「あの人も幽霊なのか」
「だろうな。嫌な名前してやがったが」
「嫌な名前って何だよ」
「唐渡修七郎。俺の記憶が間違ってなきゃ、唐渡の先々代だ」
「その唐渡がわからん。有名人なのか」
「業界では有名人です」香春が答えた。「鳳凰グループ、旧財閥系としては最も小さな企業集団ですが、その中で最古を誇り、財閥の基礎を作ったツバメ製鉄を代々経営していたのが唐渡家です。唐渡修七郎といえば先々代のツバメ製鉄会長の名前で、オカルトに傾倒した人物としても有名です」
「……何でそんなこと知ってるんだ」
「五十雀家の家政婦長ですから、この程度は当然の知識です。鳳凰グループの方が見えられることもありますし」
香春は胸を張った。
「へえ、凄いな、香春」
「いえいえ、それほどでも」
そのとき、滝緒が結界の外に片足を出した。明らかに、自分から出した。
「あーっ、捕まっちゃった、菊弥助けて」
「いや、見てたから。何やってるの」
滝緒の足首をつかむ青白い手に、白木の串が突き刺さった。香春がニヤリと笑う。
「ほうら、助けてあげましたよ、喜びなさい」
「うっさいわ、余計なことすんな、馬鹿女」
「まあ、お聞きになりましたか、頂さま。何て下品な女なのでしょう。近づくと下品がうつります。ささ、離れて離れて」
「こらこらこら、菊弥に触るなこの馬鹿女」
「やかましいわ!」
突如、部屋全体を揺るがす大声が響いた。無数の青白い腕は、恐れおののくように引っ込んでしまった。直後、天井一面に、プロジェクションマッピングのように巨大な顔が映し出される。貧相な老人の顔が。
「死の恐怖でじわじわと締め付けてやろうと、この部屋に放り込んだのだぞ。それを貴様らという奴らは」
「すまねえな。こちとら腕の幽霊くらいじゃ怖がらねえ奴ばっかりでよ」
巌が笑った。いや、嗤った。それは相手のプライドを傷つけたようで、老人の顔は一瞬眉間に皺を寄せた後、うっすらとした笑みを顔に張り付けた。
「構わんさ。どうせ、これで最後だ」
「ねえねえ」滝緒が老人の顔に向かって懐中電灯の光を向けた。「どうせ最後なら聞いてもいいかな」
「な、なんだ、こら、まぶしい」
滝緒は懐中電灯を下に向けた。
「ここって4階の一番端の部屋よね。つまりは今までこの部屋から見えた強い光はあなたたちが起こしたってこと?もっと正確に言うなら、あなたが誰かを殺すたびにここから光が発せられたってことでいいのかな」
「ああ、そうだ、そうとも。貴様ら同様、民対の犬どもを喰らってやった証があの光よ」
ニンマリ、滝緒は笑顔を浮かべた。その笑顔を僕に向ける。
「いまの聞いたわよね」
「え、うん、聞いたけど」
「巌も聞いたでしょ」
「ああ、聞いた聞いた」
滝緒は天井の老人を指さした。
「証人は確保しました。あなたを文化庁文化部宗務課民間伝承対策室の権限において特定危険霊障と認定し、排除します」
しかし。
「馬鹿めが!」
唐渡修七郎の叫ぶ声と共に、何かが僕らの眼前に飛び出した。落ちてきた、と言う方が感覚的には正しいだろうか。それは部屋を埋め尽くす巨大なレンガの壁。と、その壁の中央部分が突然崩れた。まるで口が開くように。その空間から発せられたのは、身体を溶かさんばかりの熱風。そして目を焼く強い光。光はガラス窓を抜け、海の彼方を照らした。
「ちょっと、何よこれ」
熱風に押されて、滝緒は目を開けることができない。
「無学な公僕に教えてやろう。これが溶鉱炉というものだ」唐渡修七郎の笑い声が響く。「それもただの溶鉱炉ではない。我が唐渡家代々が精魂込めて育て上げたツバメ製鉄の初代溶鉱炉、一番高炉の付喪神だ。貴様らごときの半端な霊力でどうこうできる存在ではないわ。諦めろ。さあ喰らえ、喰らってしまえ」
溶鉱炉はさらに大きく口を開けた。その中には舌のように、溶けてオレンジ色に輝く鉄がうねっている。その舌が、いまにもこちらに飛び出てきそうに思えた。これはヤバい、本格的にヤバい。
「リリイ、何とかならないの、リリイ」
僕は肩のリリイに呼びかけた。しかし返事がない。まるで死体のように。だが肩にはつかまっている。死んでいるはずがない。
「巌、何とかしなさい」
滝緒のそれは無茶振りに思えた。だが巌は慌てる様子もなく、溶鉱炉に背を向け、宙をじっと見つめている。
「何とかしてほしかったら、時間を稼げ」
「ああもう」滝緒は胸のポケットから、手帳を取り出した。そして溶鉱炉の口に向かって投げ込む。「これでもくらえ!」
「馬鹿め、そんな物が」
嗤う唐渡修七郎。手帳はボッと音を立て、炎に消えた。その瞬間。天地を貫く衝撃。爆音。もうもうと上がる煙。溶鉱炉はうめき声を上げながら、たまらず口を閉じた。
「貴様、何をした」
天井の唐渡修七郎の顔が怒りに歪む。滝緒はススだらけの顔を上げてニッと笑った。
「神札千枚溶かした特製の手帳よ。ちょっとは効いたでしょ」
そのとき。
「キョッ」僕の肩で、リリイが声を上げた。「キョッ、キョッ、キョッ、キョッ、キョッ、キョッ」
「何、何なの」
滝緒はあっけにとられてこちらを見ている。いや、僕に聞かれても困るのだが。香春もこちらを見ている。そして唐渡修七郎まで見ている。ちょっと、どうするんだよこれ。おろおろする僕の肩の上で、リリイは翼を広げた。
「キョッ、キョッ、キョーセイカイニュー、キョーセイカイニュー、キョーセイカイニューオヨビキョーセイサイキドーヲジッコウスル」
そこに。ぐるるるるる、うなる声。それを発しているのは溶鉱炉だった。
「うそ、まだ動けるの」
滝緒の驚きを、唐渡修七郎の怒声がかき消した。
「我らの一番高炉があの程度でくたばるものか。さあ我らの威を知らしめよ。今度こそ喰らってやるがいい」
溶鉱炉が再び口を開いた。オレンジ色の輝く舌がうねる。
「再起動確認」
肩の上のリリイが声を上げた。だがそれはリリイの声ではない。
「え、トド吉?」
「説明は後!」
僕の右腕が勝手に動いた。左上から右上に、そして右下から左下へと空を四角く切り取る。
「総転移ウインドウ!」
トド吉の声をかき消すように溶鉱炉が吠えた。溶けて輝く鉄の舌が、激流となって僕らへと襲いかかる。しかし。そのオレンジ色の流れは僕らに届く寸前で、空中に現れた四角形の枠内へと飲み込まれていった。滔々《とうとう》と流れだし、飲み込まれて行くオレンジ色の流れ。そして、溶鉱炉の口からは、とうとう何も出てこなくなった。腹の中に溜まっていたものをすべて吐き出した溶鉱炉は、明らかにひるんでいる。
「どうした、一番高炉。おまえはこんなものではないはずだ、最後の力を出せ」
出来の悪い父親のような励ましを唐渡修七郎から受け、しかし溶鉱炉の付喪神は固く口を閉じてしまった。一瞬の静寂。それをかき消したのは、巌の声。
「見つけた。やっぱり居るじゃねえか」
巌は溶鉱炉に背を向け、右斜め上30度くらいの中空を見つめている。
「おい、おめえ。聞こえてるよな。聞いてるなら返事くらいしろよ」
誰に話しかけているのだろう。もちろん僕たちにではない。唐渡修七郎にでもない。それ以外の誰かに、巌は話しかけていた。
「巌……誰と話してるの」
滝緒がおそるおそる声をかけた。
「は、恐怖で気でも違ったか。この屋敷にはワシと泊戸以外には貴様らしかおらん」
その唐渡修七郎の言葉に、巌は小さく振り返った。
「それが、居るんだな」そしてニヤリと笑ってみせた。「こういうデカい、それでいてオフィスビルみたいに人が出入りするようなタイプじゃねえ、普通に人が暮らす建物には、霊的な、それも幽霊だの怨霊だのといった連中よりも高次の存在が住み着くもんなんだよ。そいつが霊的な場を作る。それが良い方に傾きゃ聖地にもなるし、悪い方に傾きゃここみたいに亡霊の住処になる訳だ。つまりてめえらがこの洋館にとり憑けたってのは、別に生前オカルティストとして正しいことをしてたからじゃねえ。既にここに霊的な場が出来上がってたってことだ。てめえらは他人の作った台の上にポンと乗っかっただけなんだよ」
僕は唖然とした。これまで曲がりなりにも友人として付き合ってきて、巌がオカルト的な話をするのを聞くのは初めてだったのだ。と言うか、へっぽこ陰陽師はへっぽこすぎて、そういう話はできないのだと勝手に思っていた節がある。きっと滝緒もそうだろう。いや。滝緒は唖然とはしていなかった。それどころか、ようやく納得した、という顔である。香春は言わずもがなと言うべきか、平然としていたし、呆気にとられていたのは僕と、唐渡修七郎の二人だけだった。
「な、何を馬鹿なことを。そんなたわごとをワシが信じるとでも思ったか」
唐渡修七郎は動揺しつつも、天井いっぱいにドアップの顔で笑ってみせた。
「おい、たわごととか言われてんぞ。いい加減、返事くらいはしたらどうよ」巌はその名を呼んだ。「屋敷神よ」
ずん。洋館が震えた。
「おめえの言いたいことはわかってるよ。人間世界の善悪なんぞ、おめえらは知ったこっちゃねえんだろ?だからこれまでのことはどうこう言わねえ。ただ、ここで動かねえんなら、悪いがこの洋館はぶっ潰すことになるな。だがおめえが動いてくれるんなら、ここはしばらく現状維持ってことにしてやる。なんなら新しい屋敷を建ててやってもいい。悪い話じゃねえと思うが」
ずん、ずん、ずん、洋館が3度震えた。
「ようし、取引成立だな。……じゃあゴミどもを引きはがせ!」
洋館が絶叫した。その狂おしい声に窓ガラスはびりびりと振動した。壁から、床から、無数の淡い光を浮かべた白っぽい塊が浮き出し、窓の方へと飛んで行くと、ガラス窓を通り抜け、外の世界に逃げ出して行った。溶鉱炉も震えだした。その全身に細かいヒビが入ったかと思うと、バラバラと崩れだし、あっという間に割れたレンガの山になった。
「あああ、よせ、やめろ、ワシを引きはがすな、引きはがさないで、ワシを」
天井一面に広がっていた唐渡修七郎の顔は、風船がしぼむようにみるみるうちに小さくなり、普通の人間の顔の大きさになった。そしてそこから、まず鼻先が天井面から突き出した。そして顔面、やがて頭全体がぶら下がった。そこまで来ればあとは一気である。肩口が、胸が、腹が、腰が、脚が順々に、まるで絞り出されるかのように天井から現れた。足首の部分で少し抵抗したが、最後は吐き出されたガムのように、床の上に落ちた。ミイラもどきの、裸の老人。唐渡修七郎は屈辱的な表情を浮かべて顔を上げる。よろよろと立ち上がると、執事を呼んだ。
「泊戸!」
「お呼びでございますか」
泊戸はどこからともなく現れたかと思うと、主人の肩にガウンをかけた。ガウンに袖だけを通すと、唐渡修七郎は言った。
「もはやこれまで。最後に一矢報いる。力を貸せ」
「お供いたします。ご存分に」
途端、唐渡修七郎と泊戸の姿が崩れた。そしてゆらゆらと燃える青い炎に姿を変えた。
「こうなれば、この屋敷ごと燃やし尽くしてくれる。死なばもろとも!」
ごうっ、と音を上げ、激しく燃え上がった青い炎は天井に達する。
「おまえもう死んどるやんけ!」
トド吉の声はそう突っ込むと、総転移ウインドウを叩きつけるように炎にかぶせた。青い炎はその中に、跡形もなく飲み込まれた。部屋を包む静寂。ずん。また洋館が震えた。部屋の壁の一角が崩れ、その向こうに扉が現れた。
「おう、出口か」巌がドアのノブをつかんだ。「固えな」
「お手伝いします」
香春が一緒になってドアを引っ張っている。
「あの二人はどこへ行ったの」
僕は肩の上の、トド吉の声をしたリリイに尋ねた。
「上空4万キロ。静止衛星軌道よりも向こう。まあ、要するに宇宙空間やな」
「そんなに遠いと、もう戻ってこれないのか」
「さあな。元々が場に依存したエネルギー体やろ。場から切り離された宇宙空間では状態を維持することはでけへんのやないか。物理的な推進力もないやろしな」
「そういうものなの」
「そういうもんや」
「へえ、そうなんだ」
背後から、滝緒がのぞき込んでいた。
「えっ、や、いや、あの、これは、セキセイインコだから」
「ああ、そっか。セキセイインコは言葉覚えるの上手だものね」
「そ、そう、そうなんだ」
「それで私が納得すると思ってるのかな」
笑顔が怖い。と、僕の肩から小さなため息が聞こえた。
「人にものをたずねるんやったら、自分からまず名乗ろうや」
「あ、それもそうね」滝緒は胸ポケットから名刺入れを取り出すと、名刺を差し出した。
「文化庁文化部宗務課、民間伝承対策室の吉備滝緒です」
「え、たきおん市役所の人じゃなかったの」
受け取った名刺には、ちゃんと文化庁云々が書いてあった 。
「ですから申し上げましたでしょう」香春がドアを引きながら言った。「この女は頂さまの考えておられるような人間ではないのです」
「うっさいな、だからいま説明してんでしょ」そして滝緒は小さく舌を出した。「市役所へは出向で来てたの。別にだますつもりはなかったのよ。いずれ話すつもりだったの。ごめんね」
「巌は知ってたの」
ばつの悪そうに頭をかきながら、巌はうなずいた。
「まあ一応な」
「巌は民間の協力業者ってことで、たまに手伝ってもらってたのよ」
滝緒は手をもみ始めた。「社長サン!」とか言い出しそうな勢いだ。
「ワイからも聞いてええかな」トド吉声のリリイがたずねる。もう隠すつもりもないようだ。「この民間伝承対策室って何するんや」
「ああ、それはイロイロよ。仕事の幅は広いわ。とりあえず、幽霊、妖怪、妖精の類、いわゆる既成宗教がカバーしてない民間伝承に関わることはすべて我々の管轄になります。つまり」滝緒は満面の笑みを見せた。「宇宙人もね」
「なるほどな、そやから菊弥をわざわざ危ない場所に引っ張り出したんか」
「あ、違うの、それは違うの」
「違わへんやろが。宇宙人の情報が欲しいから、こんな物騒なとこへ菊弥を連れてきて、ワイらの出方を見たんやろ」
「そうじゃないの、そういう面がまったくない訳じゃないけど、ここは私一人で解決できると思ってたの。菊弥を連れてきたのは話の流れでイロイロ聞けるかな、って思っただけで。まさかここまで大変なことになるとは思ってなかったのよ」
「それを信じいっちゅうんか。アホかふざけるな!おまえのうっかりのせいで菊弥が殺されたらたまらんわ!おい菊弥、もうこいつらと縁切れ」
リリイの姿をしたトド吉は、完全に切れてしまっていた。
「いや、ちょっと待ってよトド吉、そんな急に言われても」
「そうよ、そんな一方的に。もうちょっと話を聞いてくれても」
「アカン!記憶消されへんだけ有り難いと思え。菊弥、もう帰るぞ」
「帰るって言われて……も、あれ?」
僕の目の前には、伝蔵とリリイのケージ。滝緒も巌も香春も居ない。と言うか、周りの風景が、あの洋館の部屋ではない。見慣れた小鳥ホテルの鳥部屋だ。
「どういうこと」
「どうって、空間転移で帰ってきたんやがな」
トド吉はパスタのケージの上に止まっていた。
「空間転移なんてできたんだ」
「それくらいできるわ。馬鹿にすんなよ」
「そんなことより」ボタンインコの伝蔵が咳ばらいをした。「リリイを目覚めさせろ」
「ああ、そうだリリイ。リリイは大丈夫なの」
僕は肩に手を伸ばし、リリイをそっとつかんだ。静かに爪を肩から外し、手のひらに乗せる。動かない。その手のひらに、トド吉が飛び乗った。
「大丈夫や。リリイ自身は気絶しとるだけやから」
「気絶?」
モモイロインコのミヨシが説明を引き継ぐ。
「あの洋館の周りには霊的な力が高密度に広がっていたのよ。防風林を抜けるのに苦労したり、部屋が実際以上に大きく感じたりしたでしょう。リリイは坊やたちと違って身体が小さいから、神経回路が負担に耐えきれなかったのよ」
「そうか、空間がねじれてた訳じゃなかったんだ」
「物理的には何も起きていなかった。みんな外部から脳に入力されたイメージだったのよ。あの溶鉱炉と最後の青い炎以外は」
「つまりあれは実体があったんだ」
「エネルギー体としてはね。実体がなければ総転移ウインドウで飛ばすこともできなかったわよ」
トド吉がリリイの頭をつつく。つついてるようにしか、僕には見えない。ヨウムのパスタが心配そうにのぞき込んだ。
「本当に大丈夫ですか」
「だーいじょーぶ。任せなさい」
トド吉は自信たっぷりにそう言った。
「さっきはトド吉がリリイの中に入ってた、ってことでいいの」
「入ってたっていうのは微妙に違うけどな。この星のコンピューターでも外部メモリーに積んだOSから起動することできるやろ。そんな感じや」
なるほど、わかったようなわからないような。
「よっしゃ、準備は完了。ミヨシ、やってくれ」
「はいはい。じゃ、起こすわよ」
ミヨシは一回うなずいた。それだけ。リリイは一回身体を震わせると、パチリと目を開け、僕の手の上で身体を起こした。そして羽根を膨らませた。
「リリイ、大丈夫?」
僕の言葉に、リリイは横目で僕を見上げると、具合悪そうに言った。
「大丈夫です。大丈夫ですけど、あー、何だろ。気持ち悪い。何か変なものが頭に入ってきたような感じです。すごい気持ち悪い」
「何か……傷つくわ」
トド吉は、しょげ返ってしまった。