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ことり会議  作者: 柚緒駆
10/25

魔光射す家 1

「海沿いに白い4階建ての洋館があるの。周囲は防風林に囲まれて、海側からじゃないと建物は見えないんだけど、庭も広くてヨットハーバーもあって、とても立派な洋館だっていうわ。でも持ち主はそこには住んでいなくて、もう何十年も人が暮らしていないはずなのよ。それなのに、その洋館にときどき明かりが灯るらしいの。4階の一番端の窓に、まるで灯台みたいに明るい光が輝くのよ」

 滝緒たきおはおどろおどろしく語ったが、今は秋真っ盛りの、それも昼間だ。怪談に似合う雰囲気ではなかった。

「ここ、テーブルとか置こうぜ」

 いわおは脚を組みながら言った。着物で脚って組めるものなのだな、と僕は思った。

「そんなもの置いてどうするんだよ」

「コーヒーとか飲めるだろ」

「飲めなくていいよ。ペットホテルの玄関だぞ」

「ペットホテルの玄関だとコーヒー飲めねえってどんな理屈だ」

「おまえの屁理屈に付き合わなきゃならん理由はないんだよ」

「ちょっと菊弥きくや、聞きなさいよ」

 滝緒はむくれた。せっかく話してやってるのに、その顔はそう言っていた。

「何を聞くんだよ。この時期に怪談はねえだろ」

「あんたは聞かなくていいのよ」

 と、巌に真顔を向けた滝緒は、カーディガン姿だった。このままポーチでも持って、お弁当を買いに行きそうな雰囲気である。

「たきおんは仕事いいの、今日は」

「その呼び方やめなさいってば。今日は公休なのよ。別に予定もないし」

 だからって、うちに集まることもないだろう、とは思うのだが、何だか言いにくい。

「でね、続きなんだけど」

「何だよ、まだ続きあんのかよ」

「あんたはとっとと帰りなさい」

 滝緒は切れ長の目で刺すように巌をにらんだ。

「おめえなあ、俺の方が先に来てたんだぞ」

 何を早い者勝ちみたいに言ってるんだ。その理屈なら。

「その理屈で言うなら、僕が一番先に来てるだろう。ていうかここは僕の家だし僕の仕事場だ」

「んなこたあ、どうでもいいんだよ」

「いや、よくないだろ」

「聞きなさい!」

 ぱん、と滝緒は手を叩いた。僕らは黙るしかなかった。

「その窓の明かりはもう何年も確認されてなくて、最近じゃただの怪談になってたんだけど、今月に入ってから、沖を通るフェリーの運行会社から問い合わせがきたのよ。灯台と誤認するから何とかならないかって。それで持ち主に連絡しようとしたんだけど、引っ越しちゃったみたいで連絡が取れなくて、もちろん洋館には誰も住んでいないみたいだし、でもフェリー会社の言うことが本当なら放置するのは危険だし、仕方がないから行政代執行でその洋館に立ち入ったのよ。そしたら」

「そしたら?」

 思わず身を乗り出した僕を見て、滝緒はニンマリ笑った。

「ほらほらー、やっぱり気になってる」

「……いや、そういうのはいいから」

「へ、どうせ何もなかったってオチだろ」

 そう言った途端、巌の顔面に丸椅子が飛んできた。

「オチを言うなぁっ!」

 投げつけた滝緒は肩で息をしている。

「えっと、実際そうだった訳?」

「……そうよ。中には人の気配どころか、家具も椅子もテーブルも、何ひとつなかったの。明かりを点ける機械なんて、豆電球すら落ちていなかったわ」

「豆電球」顔にめり込んだ丸椅子を外すと、巌は床に置いた。「発想がオッサンだな。LEDくらい知ってるだろ」

「いまどきへっぽこ陰陽師やってるような人に言われたくありません」

「呪禁道士だ」

 言い直した巌に、あのときのパスタの言葉が重なる。

――呪禁道士という言葉は存在していません――

「どうした」

 巌が僕の顔を不思議そうにのぞき込んでいる。

「いや、何でもない」

 何でもないこともないような気がするが、今はまだどう対応していいやらわからない。

「という訳で」滝緒は手をぱん、と叩いた。「今晩行ってみましょう」

「どういう訳だよ」

「さあな」

 この瞬間、僕と巌の意向は無視され、今晩幽霊屋敷に乗り込むことが決まった。



「第147回定例会議を始めます」

 会議が始まった。議長はモモイロインコのミヨシ、議題は滝緒の持ってきた幽霊屋敷の件についてである。



 モモイロインコはオーストラリア原産の鳥であり、インコと名前がついているが、オウムの仲間である。頭部には小ぶりな冠羽がついている。名前の通り頭部から腹部にかけてはピンク色で、羽は灰色である。全長は35センチ以上もあり、会議のメンバーの中ではヨウムと並んで大型だ。昔の事典などを読むと人の真似をしないと書かれていて驚くが、実際はよく人真似をする利口な鳥である。



 ミヨシは冠羽をぴょこぴょこ立てながら、面倒臭そうに会議を進めた。

「まあ早い話が、坊やのバックアップをするかどうかよね」

「言うても、家に明かりがくっちゅうだけの話やろ」

 十姉妹のトド吉は首をかしげた。

「でも、部屋の中に照明器具はないのよ」

 セキセイインコのリリイが言った。それを受けてヨウムのパスタが話す。

「部屋の中に照明器具がある場合なら、いわゆるポルターガイスト現象として、部屋の明かりが勝手に点く話は枚挙にいとまがありません。ただ、照明器具がないとなると、どのような現象が起きているのか」

「いわゆる人魂のような物が家の中に現れるという記録はないのか」

 そう言ったのはブルーボタンの伝蔵である。

「人魂を初めとする発光体が部屋の中に出現したという例はたくさんあります。ただそれで灯台のような強さの明かりが発生するかというと」

 パスタは口をにごす。

「けど灯台と誤認するっちゅうのもフェリーの乗員あたりが言うてるだけやろ。実際に誤認した例はないんやし、そこまで強い光やないんやないか。いや、よしんば強い光やったとしても、単なるお化け屋敷の探検に、ワイらのバックアップいるやろか」

 トド吉は話そのものに懐疑的なようだった。

「まあその辺は実際に確認してみないと、わからないわよねえ」

 ミヨシはまとめに入った。とっとと終わらせるつもりであろう。

「決を採ります。この件について我々のバックアップが必要だと思う人」

 さっと翼を上げたのは、リリイ一人だった。

「結論は出たな」

 伝蔵はそう言ったが、リリイはむくれた。

「えーっ、そんなあ」

「ほんならリリイが一緒について行ったらええんやないか」

 トド吉が発したその言葉に、一同の視線はリリイに向かった。

「えっ」



「みんな酷いです。いつもいつも菊弥さんを好きに使ってるくせに、こういうときだけ面倒臭がるなんて」

 僕の肩の上でリリイはぶつくさ文句を言っている。いやあ、僕がみんなの立場でも、今回はバックアップしないんじゃないかな、と思ったりもしたが、それは言わなかった。僕たちは小鳥ホテルの玄関前で滝緒たちを待っている。日はとっぷりと暮れ、そろそろ営業開始時間なのだが、今日は予約も入っていないし、宿泊中のお客様も居ないので、臨時休業だ。自営業の気楽なところではある。

 駐車場の入り口のところに、白い人影が見えた。近寄って来るのは、滝緒だ。またサファリルックを着ている。

「おーまーたーせー」

 手を振り駆け寄って来る滝緒の背後に、突如明かりが灯った。車だ、と思った瞬間、エンジンを唸らせ滝緒に突っ込んできた。危ない、と思うと同時に鳴り響くブレーキ音。テールをスライドさせて、車は滝緒まであと数センチというところで停まった。しばしの静寂のあと、運転席のドアが開くと、スーツ姿の女が降りてきた。それは。

いただきさま、ご無沙汰しております」女は僕に黒い大きな瞳の、少し陰のある笑顔を向けると、こう言って頭を下げた。「五十雀いそがら家家政婦長の日和香春ひわこうしゅんでございます」

 家政婦長なのか。出世したなあ。香春は僕らと同い年である。小学校も中学校も同じだった。だからずっとよく知っている存在だった。だが、幼馴染とは言えない。一度も一緒に遊んだことがないからだ。

 香春は事故で両親と死別した。その後親戚の間をたらい回しにされ、最後に五十雀家で家政婦をしていた遠縁の女性を頼った。そのときの五十雀家の当主が香春に同情し、将来五十雀家で家政婦として働くことを条件に、衣食住の提供と、高校までの進学を約束したのだった。

 黒いセダンの後部座席のドアが開いた。降りてきたのは巌。頭を押さえている。

「香春~~てめえ」

「巌さま、申し訳ございません。バッタが飛び出しましたので、つい」

「ちょっと香春!」滝緒は香春の前に回り込んだ。「何がバッタよ、あんた私を轢くところだったのよ!」

「あらあら吉備さま、すみません、白いバッタに見えましたものですから」

「そんなの見間違える訳ないでしょうが!どういうつもりよ!」

「どういうつもり?」香春の声がかすかに怒気をはらんだ。「そのお言葉、そのまま返させていただきます。そちらこそどういうつもりですか。巌さまをこんな時間に連れ出すなど」

「連れ出す?はあ?私が巌なんぞ連れ出す訳がないでしょうが」

「なんぞ」

「そう、『なんぞ』よ『なんぞ』。『なんぞ』で悪けりゃ『ごとき』よ」

 一瞬、香春の姿が揺れた。

「待ったーーっ!」

 巌は香春を羽交い絞めにしていた。その右手の爪はあと数ミリで滝緒の眼球に届く。

「お放しください巌さま、この女には目にもの見せてやりませんと」

「馬鹿野郎、いい加減にしろおめえは」そして僕の方を向いた。「おい菊弥、おめえも手伝えこら」

「何で僕が」

 とは言え、いつまでも見物している訳にも行くまい。僕は肩のリリイを気にしながら駆け寄った。すると滝緒は僕の背後に回り込んだ。

「菊弥、この女こわーい」

 その声が全然怖そうに聞こえないのは何故だろう。香春は歯をむき出し、いまにも飛びかからんばかりに僕の背後をにらんでいる。

「ま、まあまあ、香春ちょっと落ち着いて。話し合おう」

「お言葉ですが」香春は口から瘴気を吐き出すかのように声を上げた。「頂さまはそのアバズレにだまされておいでです。その女は頂さまの考えておられるような人間ではございません」

 またそんな話か。僕はどんだけ騙されやすいんだ。てかアバズレってまた古風な罵倒だな。

「うん、まあそれはそれでいいから、とにかく落ち着こう」

「ちょっと、否定しなさいよ」

 滝緒が後ろから脇をつつく。しかし僕がどう否定するのだ。一方の香春はといえば、どうやら落ち着いてきたようだった。

「……頂さまがそうおっしゃるのでしたら」

 香春はつかみかからんとしていた両手を下ろし、居ずまいを正した。たはっ、と息を吐いて巌は香春を放した。

「勘弁しろよ、おめえはよ」

「大変失礼をいたしました」

「という訳で」滝緒は嬉しそうに声を上げた。「幽霊屋敷には私と菊弥が行くので、巌くんはおうちに帰りなさい」

「おい、そりゃねえだろ。ここまで来たんだぞ」

 巌の抗弁も滝緒には通じない。

「だって、香春が怖いんだもの、仕方ないじゃない。私たちはタクシーで行くから、あんたは香春と一緒にとっとと帰りなさい」

 滝緒は勝ち誇ったかのように笑った。だが。

「いいえ」香春が言い切った。「皆様はこの日和香春がお送りいたします」

「何よ、あんた私が気に入らないんでしょう」

 滝緒の言い分はもっともだった。けれど香春はうなずく。

「はい、あなたが巌さまと同行するのは気に入りません。しかし、あなたに巌さまが馬鹿にされるのはもっと気に入りません」

 香春は車のドアを開けた。そして僕らを促す。

「さあお乗りください」



 黒塗りの高級セダンの乗り心地は、タクシーの比ではなかった。にぎやかな夜の道路を、セダンは音もなく、滑るように走って行く。助手席に巌を乗せ、僕と滝緒は後部座席に座った。滝緒はときどきルームミラーに向かって舌を出している。子供か。

「頂さま」

 香春とミラー越しに目が合う。

「その肩の子は、セキセイインコですか」

 リリイは肩の上でうとうとしていた。いつもは寝ている時間だ、無理もない。

「香春は鳥は大丈夫なのかな」

「いえ、少し苦手です」

「そうか。しばらくごめんね」

「……子供の頃、まだ両親が生きていたとき、うちで水色のセキセイインコを飼っていました。でも私の不注意で逃がしてしまって。それを知ったとき、母が泣き崩れたんです。父もひどく怒って。あんな両親を見たのは初めてでした。それ以来、小鳥は少し苦手です」

「そう」

「その子は逃げないんですか」

「うん、この子は大丈夫」

「よかったです」

「こんなことを言うのは変かもしれないけどさ」

「はあ」

「香春もまたいつか、鳥が飼えるようになるかもしれないよ」

「私は……私は見習いの頃を合わせれば、もう15年以上家政婦をやってきました。これからも家政婦以外の仕事をするとは思えません。鳥を飼う余裕など、とても」

「そうだよねえ、家政婦以外の香春なんて想像がつかないや」

「私もそう思います」

「でも生きてると何があるかわからないからさ」

 そのとき、対向車がハイビームで通過した。一瞬白くなる視界に香春の横顔が溶ける。

「ねえ」

 滝緒が僕の腕を小さく引っ張った。

「何」

「何で私にはそういうこと言わないの」

「そういうことって、どういうこと」

「どういうことじゃない」

 突然、巌がふき出した。そして腹を抱えて笑い転げる。

「そこ、笑わない」

 誰か面白いことでも言ったのだろうか。そう尋ねてみたかったが、やめておいた。車は交差点を曲がり国道から細い県道に入った。目的地は近づいている。



 表面がデコボコとした、かなり古いコンクリート製の堤防。階段状になった堤防を乗り越えると、その向こうには松林があり、さらに向こうには砂浜が広がっている。秋の海には人影もなく、ただ波の音が響くのみ。滝緒は懐中電灯で砂浜を照らしながら、真っ暗な砂浜をずんずんと進んでいった。

「堤防のこっち側に家なんて建てられるのか」

 巌の疑問は当然であるように思えた。滝緒は振り返りもせずに答える。

「私有地だもの。プライベートビーチってやつよ」

 観光地でもないこんなところにプライベートビーチなんてあったのか。そのことに僕が驚いていると、滝緒は懐中電灯の明かりで少し先を照らした。松の木が密集して立っている。

「ほら、防風林。あそこから向こうが私有地。小さいけどヨットハーバーが見えるでしょ」

 見えるでしょ、と言われても懐中電灯の光を受けて、何か白いものがまっすぐ海に向かって突き出していることしかわからない。かろうじて人が暮らしていた気配が読み取れる、といったところか。

「で、この防風林どうやって抜けるんだ。道があるのか」

 巌が松の木を軽く叩いた。

「あるんじゃないの、強制代執行のときは入れたんだから」

 滝緒はそこいらを照らしながらそう言った。

「おめえも代執行に参加したんじゃねえのか」

「そんなこと言った覚えはないけど」

「この女は」

 香春は吐き捨てるようにつぶやいた。

「リリイ、起きてる?」

 肩の上のリリイは、眠そうに一つあくびをすると、小さくうなずく。

「じゃあ頼む」

 僕の出した人差し指にリリイが乗る。そして僕は夜空に向かって大きくその腕を振るった。リリイはまっすぐに飛び上がると、防風林の向こうへ消えて行った。

「おいおい、大丈夫なのか」

「ああ、リリイは大丈夫」

 僕は巌を振り返った。

「でも鳥って鳥目なんだろ」

「鳥が鳥目だっていうのは単なる誤解だよ」

「なんだよ鳥って鳥目じゃねえのかよ」

「うん、鳥は鳥目じゃない」

「その頭悪そうな会話やめなさい」

 呆れる滝緒の声をさえぎるように、頭の上からリリイの「ピッ」という声がした。

 リリイの声を頼りに防風林を進む。くねくねと曲がる道とも言えないような細い道は、夜の闇の中にあるからか、何十メートルもの距離があるかに思えた。実際はそんなに幅はないはずだ。防風林の幅などせいぜい数メートルだろう。いささか現実とのギャップが大きすぎるような気がするが、いまそれを言っても仕方あるまい。

 なんとか防風林を通り過ぎ、ようやく洋館の前に出た。周囲にはおそらく芝が張られていたのだろう庭が見て取れた。長い間手入れもされていないようだ。だが草ぼうぼうという訳でもない。海の塩気のせいだろうか。

 僕の肩に、リリイが戻ってきた。

「ご苦労さま」

 ねぎらいの言葉に、リリイは嬉しそうに頭を上下させた。

「今夜は明かりは点いていないみたいね」

 滝緒は4階の一番右端の窓を見上げていた。

「そもそも本当に点くのかよ」

 巌はすたすたと建物に向かって歩いていく。

「それを調べに来たんでしょうが」

「そりゃまあ、そうなんだが」

 白い両開きのドアの前に巌は立った。滝緒が懐中電灯でその背を照らす。その大きなドアにはライオンの顔が輪を咥えていた。いわゆるドアノッカーというやつか。巌はその輪に指をかけると、2回ドアに打ちつけた。

「何やってるの」

 滝緒は眉をひそめている。

「押し込みじゃねえんだ、空き家でも礼儀ってもんがあるだろうよ」

 その言葉を言い終わるより早く。ドアが、ぎい、と音を鳴らした。香春が駆けた。風のように走ると、巌とドアの間に身を滑り込ませる。左右のドアは内側に引かれ、ゆっくりと開いて行く。そして大きく開き切ったとき、そこには光があった。赤、黄、緑、青、紫、さまざまな色が満ちた空間があった。その真ん中に、黒い人影がひとつ。

「いらっしゃいませ、お客様。私めは当館の執事、泊戸はくとと申します。今宵はご足労いただきましてありがとうございます。されど」人影は顔を上げた。燕尾服を着た、痩せぎすの白髪の老人。「今宵わが主人には来客の予定はございません。大変に失礼なのですが、何かのお間違えではありませんでしょうか」

 その泊戸と名乗った老執事に対し、香春は一度深々と頭を下げると顔を上げた。

「ご丁寧にありがとうございます、泊戸さま。私めは五十雀家にて家政婦をしております、日和と申します。このたびはわが主が失礼をいたしまして、申し訳ございません。今宵は海に人影もなく、波も静かで星も輝き、散策には良き日と思われ、主はあれなる友人たちとこの浜に出かけて参ったのですが、どこをどう迷ったものか松林の中をさまよい歩き、こちらのお屋敷の前に至った次第にございます。いささか足は疲れ、のどは乾いております。ご迷惑なこととは存じますが、どうぞ冷たい水を一口たまわりたく」

 香春の口上を泊戸は眉一本動かすでもなく直立不動で聞いていたが、聞き終わると少し困った顔をした。迷っているようだ。

「泊戸」屋敷の内側から声がかかったのはそんなとき。「客人か」

 泊戸は振り返り、見上げた。

「旦那さま。左様にございます。ただ」

「構わん、奥へ通せ」

うけたまわりました」

 泊戸は奥へ向かって一礼するとこちらに向き直り、巌と香春を、そして僕と滝緒を見た。

「ではみなさま、こちらへどうぞ」

 そう言うと脇に下がり、道をあけた。巌は僕たちを見やり、声もなくニッと歯を見せると、香春を先に立たせ、洋館の中へ入って行く。僕と滝緒は顔を見合わせたが、互いにうなずき、巌の後を追った。

 屋敷の中は、色と光に満ちていた。外から見たときはただのガラスだったはずの窓には色鮮やかなステンドグラスがはめ込まれ、高い天井から吊るされた、燦然さんぜんと輝くシャンデリアの光を反射して輝いていた。壁面には大きな油彩画がいくつもかかり、床には赤地に様々な文様が織り込まれた厚手の絨毯じゅうたんが敷かれている。左右には緩やかな曲線を描いて上る階段があり、二階部分のバルコニーにつながっている。そのバルコニーの向こうには、巨大な肖像画があった。鋭い目、力強さをたたえたあごひげ、恰幅かっぷくの良い体。

「あの絵は……」

 つい口に出してしまった僕に、後ろから泊戸の声が聞こえた。

「当(やかた)あるじ唐渡修七郎からわたりしゅうしちろうにございます」

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