剣闘士の草原 1
秋雨前線は列島上空に居座り、今日も明日も雨だそうだ。雨だれが裏に置いてあるペンキ缶を一定のリズムで叩いている。店内のFMラジオはヒットチャートを流しているが、どれも知らない曲ばかり。
「この曲、今人気あるんですよね」
リリイは鈴を転がしたような声で呟いた。
「このカモミールがどうとかいう曲?」
「カモミールはバンドの名前です。カモミールスーパーマーケット。曲名はキケンチタイ」
どっちがバンド名で曲名なのかよくわからないな、と思いながら僕はリリイの餌容器の中身を捨て、新しい餌を入れた。そして水も捨て、新しい水を入れる。ビタミン剤も忘れずに。それを見て、リリイがクスクスと笑った。
「そのビタミン剤は本当に入れなければいけないのか、って伝蔵さんが言ってましたよ」
「そりゃ入れなきゃいけないよ。屋内にずっと居るとビタミンD3が足りなくなるからね」
飲水に入れるビタミン剤は総合ビタミン剤である。D3だけを選択的に補給させるものではないが、D3も混ざっている。太陽光を浴び、紫外線に当たると、このビタミンD3は体内で生成されるのだが、ずっと屋内に居ると当然生成されず、欠乏する事になる。ビタミンD3は腸からのカルシウム吸収を助け、血中カルシウム濃度を安定させる働きを持つ。これはカルシウムから骨を作る上で欠かせない働きであり、その為ビタミンD3が欠乏すると骨が脆くなる。だから日光浴ができないのであれば、経口で摂取しなければならない。その為の総合ビタミン剤であった。伝蔵もそれくらいはわかっていると思うのだが。
黄色い頭を振り、緑色に縞模様の全身を細かに震わせながら、セキセイインコのリリイはクスクスと可笑しそうに、ケージの中で笑った。
「伝蔵さんは日光を浴びても平気なんですって」
「仮に日光が平気でも、バイオカラスの餌になるだけだよ」
元々実験動物として遺伝子改造を受け、耐紫外線能力を得たバイオカラスは、人類の姿の消えた昼間の世界であっという間にその数を増やし、今や強大な捕食者勢力として野生界に君臨していた。とは言っても、人間を襲って食べた、なんて話は子供向けの怪談以外では聞かないし、ましてや人家に押し入るなどという事も起きていない。そこまで凶悪な生き物ではないのだ。
ある日、突然オゾン層に大穴が開き、地上に届く紫外線が激増した。紫外線の強さを指標化した、いわゆるUVインデックスで最高ランクである11[極端に強い]が冬の高緯度地域でも日常となり、皮膚ガン患者が急増、日中に屋外で活動する事が文字通りの自殺行為になった現代。人々は主な生活時間帯を夕方以降に移し、昼間に街を行き交うのは抗紫外線ガラスを張り巡らせた業務用車両か、ちょっとした宇宙服の様な紫外線低減スーツを身に纏った警察など、ごく一部の人間だけになってしまった。
勿論、今日の様な雨の日は別だ。雨雲が空を覆っていても紫外線は地表まで届くが、晴れの日に比べれば当然少ない。それを歓迎する沢山の人が抗紫外線処理をした黒い雨傘をさして、昼間の街をそぞろ歩いていた。そんな様子を窓の外に見ながら、僕は小鳥専門のペットホテル『小鳥ホテル 頂』の営業準備に追われていた。ホテルの受付時間は夜8時から11時までの3時間。開店まであと5時間ほどである。準備と言っても普段は掃除くらいしかする事はないのだが、なにぶん従業員が僕一人しかいない。それとは別に鳥たちの世話もあるし、忙しいと言うほど忙しくはないのだが、暇と呼べるほど時間が余っている訳でもなかった。
「そろそろみんな戻って来る頃でしょうか」
「そうだね、そろそろかな」
僕は伝蔵のケージの餌を替え、水を替えた。リリイや伝蔵のケージが並んでいるのは鳥部屋である。客室ではない。鳥部屋は客室の向かいにあり、その間は玄関ホールで区切られているが、声は届く。だから客室には、常に小鳥の声が響いている。例外は勿論あるが、多くの小鳥は野生種では群れで暮らしている。だから常に小鳥の声が聞こえるペットホテルは、預かる小鳥のストレスを少なからず低減できるのだ。と、思ってはいるのだが。
鳥部屋には僕の腰の辺りの高さの棚が2つ向かい合っており、片方の棚の上に、リリイ、伝蔵、ミヨシのケージが、反対側の棚にはトド吉ファミリーとパスタのケージがあった。
全てのケージの餌と水を新しい物に交換して、ケージの入り口を開けたまま、クリップで止めた。その時。ポーン、室内にチャイムの音が鳴った。玄関のドアが開いたのだ。僕は唇に人差し指を当て、リリイを黙らせると、鳥部屋を出た。玄関に向かうと、風除室の中に人影があった。
小鳥ホテルは小鳥を預かるのが仕事であり、当然逃がさない事が至上命題となる。その為出入口は3重構造になっている。玄関側から数えると、まず玄関の扉がある。そこから入ると風除室になり、風除室正面の扉を潜ると、玄関ホールとなる。その玄関ホールの向かって右側に鳥部屋の扉があり、左側には客室の扉がある、という具合だ。だが、今はまだ開店前、玄関の扉は開いているが、風除室の扉は鍵が閉まっている。風除室の中の長身の人影は、ガラス越しに僕の姿を認めると、厚かましくも風除室の扉をドンドンと叩いた。
「はいはい、わかったから。開けるから叩かないで」
僕は溜息を吐きながら、扉下のロックを開けた。と同時に扉が勢いよく開く。
「おいおいどうした、相変わらず陰気な奴だな」
顔を合わせるなり失礼な男である。そう言う己の姿はと言えば、黒の着物に黒の羽織、黒い足袋に黒い下駄、おまけに黒い番傘を手にしている。バイオカラスも顔負けの黒尽くめだ。一体どちらが陰気なのかと問い質したくなる。
「どうしたもこうしたあるか。こっちはまだ開店前だよ。知ってるだろう」
「開店前だと陰気なのか」
「陰気じゃない、不機嫌なんだよ、誰かさんのせいで」
「相変わらず女みたいな顔をして女みたいな事を言うな、おめえは」
カチンと来た。顔の事は僕の数多いコンプレックスの一つである。それを知っていてこの野郎は。
「僕はフェミニストじゃないけど、流石にその言い草は気に入らない。謝れ」
「なんだよ、また鳥しか喋る相手が居ないから陰気になったのかと心配してやったんだぞ」
「だから陰気じゃない。大きなお世話だ。あと、鳥とも喋ってない。喋れる訳ないだろう、鳥なんだから」
「はっはっは、そりゃあそうだ」
五十雀巌はそう大声で笑うと、帯の辺りをパン、と叩いた。
「さて菊弥、今日の要件だが」
この死んでほしいほどのマイペース、これに僕は子供の頃から20年ほど付き合わされている。いい加減勘弁してほしいのだが。
「なんだよ、どうせまた下らない話だろ」
「まあ聞け。菊弥だけによく聞くや」
「帰れ」
「ジョークだジョーク、怖い顔をするな。ただのナイスジョークだろうが」
「自分でナイスって言う奴があるか。そもそも駄洒落とジョークを一緒にするな」
「で、今日の話だがな」
こいつだけは。いつか自分がブチ切れてぶん殴らないかと冷や冷やするやら期待するやらである。
「この間、知り合いの知り合いに頼まれてな、ある爺さんの話し相手になってやってくれと。何でもその爺さん、ずっと剣道の師範をやってたそうで、若い頃は全日本大会にも何度となく出たそうな。だから年をとっても元気でな、あんまり元気過ぎるんで、子供や孫に距離を置かれちまうくらい元気だったらしい。そんな元気な爺さんだったが2年前に連れ合いの婆さんを亡くして、それ以来塞ぎ込んじまって、去年の暮れぐらいからとうとう寝たきりになっちまったんだそうだ。あ、寝たきりの年寄りの話し相手になんかなってどうするんだって顔してるな。まあわかる。俺もそう思った」
いや、僕はそんな事これっぽっちも思っていないのだが。
「思ったんだが頼まれちまったもんは仕方ない。断るのも面倒だしな。それでさっき、その爺さんのアパートに行って来たんだ。ボロいアパートだったよ。子供や孫が居るってのに、こんなボロ家に住まわせるかね、って思ったんだが、まあ子供や孫にも生活があるんだろうし、その家の事情ってもんがあるんだろうから、それは言っても仕様がないわな。んで、その爺さんの部屋をノックしたんだ。返事くらいはするかと思ってよ。そしてらおめえ、寝たきりのはずの爺さんが、自分で起きてきて、ドアを開けたじゃねえか。それも驚いた様子もなくて、ニコニコ笑顔で俺を迎え入れやがる。聞いてみたら俺が来る事を知ってたって言うんだ。それでああそうか、知り合いの知り合いに前もって聞いてたんだな、って言ったら違うって答だ。爺さんが言うには、『友達』が教えてくれたんだと。友達?近所に隠居仲間でも居るのかって訊いたらそうじゃねえと」
巌はそこで一つ、息を吐いた。そして僕の顔をのぞき込む様にうかがうと、満足そうにうんうんとうなずいた。
「ほらな、俺の話聞きたいだろ」
ムカッ。僕のこめかみの辺りで血管がピキピキと音を立てた。
「続きが無いんなら帰れ」
「そう言うなって。続きはあるから」
玄関ホールの片隅には丸椅子が置いてある。巌はそれを取ると、どっかと腰を下ろした。そして帯の間から扇子を抜き出すと、パタパタと扇ぐ。
「しかし蒸すねえ。ああ、冷たい茶でも一杯あれば」
「放り出すぞおまえ」
「わかったわかった。続きだろ、えーと、どこまで話したっけかな。ああそうだ、友達だ。友達ってのは誰なんだ、って訊いたら、それはわからねえって返しやがる。そりゃまた一体どういう事だ、って言ったら、爺さん何て答えたと思う。この部屋の中にもう1人、誰かが居るんだ、って言いやがった。何でも、そいつが最初に現れたのが寝たきりになって1か月ほど経った頃、ある日突然、『聞こえるかい』そう話しかけて来たんだと。相手の姿は見えなかった。でも爺さんは直観したらしい。これは悪い奴じゃないってな。何でそう思えたのかは爺さんにもわからないらしいが、とにかくその誰かは部屋の中に居るんだと。俺が訪ねて来るのを教えたのもそいつらしい。爺さんすっかり意気投合して、その友達と毎日くだらねえ事を、ああでもない、こうでもないって話してたらしい。すると不思議なもんで、徐々に爺さんの身体が良くなって、起き上がる事も苦にならなくなったそうだ。まあめでたいやな。で、こっからが妙な話なんだが」
ここまでも大概妙な話だと思うのだが、それは言わずに置いた。
「ここ最近になって、その友達が助けを求めるようになったんだそうだ。助けって言ってもいろいろあらあな。まさか金貸してくれって訳じゃあるまい、そう言ったらな、どうやらその友達の住んでる領地に侵入してくる敵が居るんだそうな。その敵を排除するのに手を貸してくれないか、って訳だ。要は助太刀だな。だがちょっと待て、おいおい、その友達は爺さんの部屋に住んでんじゃないのかよ、って突っ込んだら、その辺は爺さんも良くわからないらしい。しかしどうにもその友達の言う事が嘘にも思えないってんで、爺さんは了承したんだと。そしたらどうなったか」
巌は扇子を閉じると、その先を僕の顔に向けた。
「部屋の中に突然草原が現れたんだそうだ。壁も天井も消え去った、見渡す限りの草の海。ざわざわと風になびく音がはっきり聞こえたらしい。そして爺さんは気が付いた。自分の身体が真っ赤な甲冑に包まれているって事に。甲冑だよ甲冑。日本の鎧兜だ。そして右手には太刀を握ってたそうだ。そのとき、友達が耳元で囁く声が聞こえた。『一騎打ちだ、と叫べ』とな。爺さんは叫んだ。『一騎打ちだ!』それに応える様に、雷鳴とどろかせて一筋の光が草原のまん真ん中に落ちた。その閃光の向こうから姿を現したのは、西洋風の兜と鎖帷子を身にまとった、アレだ、いわゆる騎士だ。そいつがその手に輝く諸刃の大剣を振りかぶって爺さんに襲い掛かって来た。だがその時は爺さん曰く、自然に体が動いたらしい。相手の一撃目を刃も合わせず上体をひねってかわすと、振り返りざまに相手の鎖帷子の切れ目、肘の辺りをスパン、と切ったんだそうだ。腕が切り離された時、相手の顔は兜で見えなかったが、あっと驚いていたのは間違いない、爺さんはそう言ってたな。そして次の瞬間、相手の騎士の姿は消えた。それと同時に草原も跡形もなく消え去り、爺さんは自分の部屋の布団の上で正座してたんだそうだ。どうだ、なかなかに不思議な話だろ」
確かに不思議な話ではある。だが。
「幻覚か妄想か、さもなきゃただの作り話だ」
即断した僕の言葉に、巌はニヤリと笑い返した。
「そう言うだろうと思ってたさ。おめえは本当に変わらねえな。とは言え俺だって頭っからそんな話を信じた訳じゃない。何しろ突拍子もなさ過ぎるからな。そもそも爺さん自身が夢だったんじゃないかと思ってたくらいだ。だが話はこれで終わりじゃなかった。その戦いから1週間は何事もなく過ぎたんだが、丁度7日目、また友達が助けを求めて来たんだと。爺さんの側に否はなかった。どうやら爺さん、最初の戦いで昔の血が目覚めちまったらしいんだな、胸をワクワクさせて助太刀に応じたらしい。そうしたらまた草原が現れた。そして『一騎打ちだ!』と叫んだら、また騎士が現れた。兜は前回と同じに見えたが、今度の相手は馬上の騎士だった。まあ騎士ってのは本来馬に乗ってるもんだが、甲冑だけの爺さんにとっちゃ不利だわな。しかも前回の反省があるのか、今度の騎士の鎖帷子は手首まできっちり隠してやがるときた。そして得物は柄の長い戦斧。斧だ、斧。それを振り回しながら、馬で突っ込んで来る訳だ。これには流石の爺さんも手こずったってさ。何せ上が常に取られている状態だからな。それに馬のスピードはあるし、戦斧は重いから振り下ろされたら太刀で受けられるもんじゃない。こりゃあ相手も馬鹿じゃない、相当考えて来やがったな、爺さんはそう思ったそうだ。だがそれと同時に、爺さんは腹を決めたらしい。腕一本くれてやろうってな。つまりはこういう事だ。相手の攻撃をギリギリまでかわさずに、左腕一本取られるくらいのタイミングですれ違いざまに馬の脚を一本切る。相手を馬から落としちまえばこっちの物だ、後はどうとでもなる。成功するかどうかは自分の覚悟と度胸次第、爺さん燃えたってよ、このシチュエーションに。そこに相手が突っ込んで来た。爺さんは刀を構えてタイミングを計った。相手は戦斧を振り下ろした。が、ここで予想外の事が起きた。相手の馬が爺さんの殺気に気付いて逃げようと身体をひねりやがったんだ。戦斧を振り下ろした騎士はたまらない、その勢いのまま真っ逆さまに落ちちまった。戦斧は爺さんの腕に斬り付けはしたが、斬り落とす所までは行かず、爺さんは落ちた騎士の兜の眼の部分に向かって全力で突きを放った。それで終わり、ジエンド。全ては消え、爺さんはまた布団の上に戻って来た。戦いの記録は何処にも残らない。はずだった。だが残ってたのさ。俺も実際に見せてもらったよ。爺さんの左腕の傷をな。ありゃあ包丁やカッターナイフでつけられる傷じゃない。もっと雑な物でえぐられた傷だった」