フィクション
高校受験の折、少年の志望校は県外の映像専門学校だった。彼の両親は強く反対したが、映画監督になりたいという彼の夢を叶えるためにはどうしてもその学校に行く必要があった。
再三の大喧嘩の末、遂に両親が折れ、晴れて少年は専門学校を受験。見事に合格し、この春からの入学が決定した。通学距離の問題の解決のため、叔父夫婦の住む家に下宿することになり、かくして少年は同級生より少し早めの親離れを果たしたのであった。
無事に引越しを済ませてこれからの生活に胸を躍らせていた春の昼下がり。例年に比べて少し冷たい風に吹かれながら、少年は新居の周りを散策していた。慣れない環境でじっとしているのはどうにも落ち着かなかったのだ。
「……それにしてもはっきりしない空だな」
今朝見た天気予報の表示に傘の絵は見当たらなかったが、どんよりとした空は今にも雨が降ってきそうな気がしてならなかった。かといって、家に帰るというのも気が進まない。叔父夫婦が苦手というわけではなかったが、今まであまり交流をしたことのない人間とひとつ屋根の下というのは些か以上に居心地が悪かった。
「どこかに見晴らしのいい丘でも無いかな……。記念にこの町の画を撮りたかったんだけど」
手に持った傘を所在なさげにぶらつかせながらぼやく。背中に背負ったリュックサックには、彼のお供であるビデオカメラが入っていた。気になる被写体を見つけようものならどんな状況でもカメラを回す彼の映画根性は、数日前まで少年が住んでいた町では誰もが知っている事実だ。そのため、同級生に変わり者扱いされることもしばしばであったが、少年にとっては些細なことであった。
駅前のマンションを横切って交差点を右折すると、少年の目に、古ぼけたアパートが飛び込んできた。
「………ん?」
道路側に面しているアパートの窓から、ロックンローラー風の若い男がライオンのような金髪を怒らせて怒鳴っている。気になって彼の視線の先に目をやると、ベージュのハンチング帽が印象的な少女が、小さなカメラを構えて男を見上げていた。
「いい加減にしろよテメェ!警察呼ぶぞ!」
「あはは、怒った顔もやっぱり素敵です」
心から嬉しそうな声と顔で微笑みながら、少女はシャッターを切る。撮られたことに男が更に怒りを顕にすると、少女はそのリアクションを喜ぶように笑顔を浮かべた。
「……これは……」
思わず、リュックサックからビデオカメラを取り出す。少年の映画根性が、あの奇妙な少女を撮れと叫んでいた。
「毎日毎日家までついて来やがって、頭おかしいんじゃねえのかお前!」
「そうですよぉ。貴方のせいで私、おかしくなっちゃったんですぅ。だ、か、ら、責任とって私を彼女にしてください」
「っざっけんな!いいからとっとと消えろよ!」
「なんでですか、こんなに貴方が好きなのに」
男と少女を交互に撮りながら、少年は少しだけ男に同情していた。見たところ、男はあのハンチング帽の少女によるストーカー被害を受けているらしい。内心、ストーカーをされるくらい女性に慕われてみたいという願望を抱いたことがあったが、カメラの中の少女の異常性は、そんな少年の淡い夢を打ち砕くのに十分すぎる生理的嫌悪感を抱かせていた。
「実際にいるとかなりキモいな。女ストーカーって。いや、女に限らないけど……ん?」
ブツブツと独り言を呟く少年のカメラが、状況の変化を捉えた。男が窓から自室のゴミを少女に投げつけ始めたのである。
「うーわ、必死だなあの兄ちゃんも……」
ゴミ袋をぶつけられてさすがに驚いたのか、少女の顔から笑顔が消える。次々に投げつけられるゴミに、徐々に少女の瞳が曇りだした。
「どうして、どうしてこんなことするんですか」
涙をこらえたような震える声で抗議する少女の体には、ゴミ袋から飛び出たおびただしいゴミが付着していた。生ゴミらしいそれが発する刺激臭は、離れたところでカメラを回す少年にすら届き、その臭いに少年は思わず顔をしかめた。
「クソ、くっせぇ! いいからとっとと消えろよ!」
投擲する物に生ゴミを選んだことに後悔しながら、そのイライラをぶつけるように捨て台詞を残し、男は窓を閉め切った。ゴミの中で立ち尽くす少女は、男の明確な拒絶に唖然としつつも涙を流していた。
「……ちょっと、かわいそう、かも」
カメラ越しに少女の涙を目にして少年は思わず、カメラの中で涙を流す汚れたハンチング帽の少女に哀れみを覚えた。
窓の奥に引っ込んでしまった男を求めてか、アパートの周囲を囲う塀に縋り付いて、少女は何度も男への愛を叫ぶ。痛々しくゴミに汚れた彼女の頬を伝う涙が、少年には何故かとても美しいものに感じられた。
「んなアホな。……ありえねえよ。あんなストーカーが、可哀想とか」
自分の中に生まれかけた感情を殺すように呟いて頭を振る。カメラ越しの世界で悲痛な叫びを上げる少女に、間違っても憐憫の情を抱いてやるものかという意地が少年の中にはあった。
やがて窓の奥に顔を引っ込めていた男が、再び顔を出した。その手に、水の溜まったバケツを抱えて。
「まさか……!」
男はその胸に溢れる嫌悪感にまかせて、バケツの水を少女にぶちまけようとしていた。
三月とはいえ、気温は冬のそれだ。おそらく水道水であろうバケツの中身を被ったりして、平気で済むはずが無いことは火を見るより明らかだ。
「いくらなんでもそりゃ……」
気がつくと少年はカメラを捨てて走り出していた。その手には、念のためにと家から持ってきた傘が握られている。
「え……」
冷水が少女に殺到するその瞬間、少年は傘を展開して少女を庇った。傘を叩く水がバタバタと音を立て、想定以上の負荷に傘の骨が軋みを上げる。
「だ、誰……?」
突然の闖入者に驚いた様子で、少女がその大きな目を瞬く。それを無視して、少年は彼女の小さな手を握ってその場から歩き去った。
「なんだ、そいつの彼氏かぁ?丁度いいからよぉ、二度と俺のところに来ないようにしつけといてくれよ!」
水をかけたことを悪びれる様子もなく、男は歩き去る少年の背中に声をかけた。
「………」
その言葉に、返事は無かった。
爆発する衝動に身を任せて、少年は少女の手を引く。
濡れた傘の下の二人を、地面に転がった少年のビデオカメラが捉え続けていた。
「離して、離してよ!」
数十メートルほど離れたアーケード街のタイルの上で、少女が少年の手を振りほどく。その顔には、戸惑いと怒り、そして明確な拒絶の意志が強く現れていた。
「何で余計なことしたの。あんたが出てこなければ、もっとあの人と一緒に居られたのに!」
「……泣いてる女の子に水をかけるような奴の、どこがそんなに好きなんだよ」
「………ッ」
少女の平手打ちが大きな破裂音を上げて少年の頬を打ち据える。平手打ちはそのまま往復され、少年は甘んじて二発目も顔で受け止めた。
「………」
「あんたなんかに、あの人の悪口は言わせないんだから」
最後に思い切り少年の足を踏みつけて、少女は駆け足で去っていった。
残された少年の胸に、後悔と、怒りと、そしてどうしようもない切なさを残して。
そして季節は巡る。
少女は今日も叶わぬ恋に想いを馳せ、その度に手痛いしっぺ返しをくらう。そんな光景を今日も、少年のカメラは見つめていた。
記録された映像には、初めて会った時から今日までに少女が行った猟奇的なアプローチの数々が全て収録されている。
だがその映像に、最初の一回を除いて、一度たりとも少年は登場してはいない。少年の記録の登場人物は、男と彼を慕う猟奇的な少女だけなのだ。
そして少年は、今日も撮り続ける。
決して報われることのない、恋の顛末を。
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