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第五話

 その日以来、かぐや姫は月を見つめては、物思いにふけるようになりました。気づけば、帝と会ってから三年が経とうとしていました。

 お付きの侍女が「月の顔を見るのは、忌まわしいことですわ」と忠言したこともありましたが、そのときは素直に頷いても、やはり人目を盗んで月を眺めているのでした。時を同じくして、ふとした瞬間に微笑みが絶え、憂いのある表情をすることが多くなりました。

 心配した翁がかぐや姫に尋ねました。

「どうして、物思いする様子で月を見ているのじゃ。こんなに素晴らしい世の中なのに」

 かぐや姫は何でもないというふうに首を横に振りました。

「月を見ると、誰しも世の中が心細く切なく感じられるものです。ちょっとした感傷に浸っているだけのことですわ」

 しかし、様子をよく見ていると、かぐや姫が物思いしているのは明らかでした。夕方までは普段通り穏やかでも、空に月がかかる頃になると、溜息をついたり、思いつめたような表情をするのです。何かを思い悩んでいることは明らかでしたが、両親をはじめ、誰も理由がわかりませんでした。

 八月十五日近く、帝がいらっしゃった日のことでした。いつものようにかぐや姫と午後をお過ごしになり、夕方お帰りになろうとする帝を、翁が引きとめました。

 かぐや姫の部屋から離れた部屋に帝をお連れし、翁と媼は並んでひれ伏しました。

「このようなお願いをすることが失礼とは百も承知ですが、どうぞ私どもの話をお聞きください。この頃、かぐや姫の様子がおかしいのです」

「どういうことだ」と帝が聞き返されたので、翁は一連の事情を説明しました。

「確かに、今日は口数が少なかった気もする。体調がすぐれないのかと思っていたが」

「昼間は気丈にしておるのです。しかし夜は食事も早々に、青白い顔をして月を眺めております。私どもが問いただしても、かたくなに口を割りません」

 何か悪い病気なのではと心配で心配で、と言って翁と媼はおいおい泣きました。このままでは二人が先に病気になってしまいそうでした。

「無理を承知で、どうか帝にお助けいただきたいのです」

 翁は帝の足元にすがりつかんばかりにひれ伏しました。


 夜、部屋にひとりきりになったかぐや姫は、縁側から月を眺めていました。

 このところ、月がどんどん大きく、近づいてくるように感じていました。おそらくそれは、目の錯覚ではなく、約束の時が迫っている証でした。

 月が満ち、約束が果たされることは、かぐや姫がこの国に生まれてからずっと願っていたことでした。喜ぶべきことのはずなのに、沈鬱な気持ちはじわじわと心を侵食していきました。それでも、時間を止めることはできません。この数日間は、もはや諦めにも似た境地で、ただ時が過ぎるのを待っていました。

 真実を告げたら、両親はなんと言うだろうか。そして、帝は……。

 今日見送った帝の背中を思い出して、かぐや姫の胸は締め付けられました。

「結局、帝に言えなかった」

 月を見上げながら、つい独り言を漏らしたときでした。

「何をだ?」

 その声を聞いただけで、かぐや姫の背中は震えました。

こんなことは許されない。振り返ったら何もかも台無しになってしまう。心の一部が警告を叫んでいました。それでもかぐや姫は振り返らずにはいられませんでした。

 いつの間にか、帝がそこにいらっしゃいました。

「まるで幽霊を見たような顔だな」

 帝は呆れたように笑われました。かぐや姫は「なぜ……」と声を絞り出すのがやっとでした。

「爺から聞いた。お前が毎晩、月を見て思い悩んでおると。昼間は平常を装うだろうから、夜に会ってやってくれないかと」

「帝のお手をわずらわせるようなことはできません。今すぐお帰りください。勝手なことをするなと、父にはよく言っておきます」

 かぐや姫は顔をそむけて隣の部屋に行こうとしましたが、帝は袖をパッとお掴みになりました。

「逃げるな」

「帰ってください」

「帝に命令するのか? 決めるのは私だ」

「だって」

 言い返そうとしたのに、視線を正面から受け止められると、かぐや姫は何も言えなくなりました。

「だってとは、駄々をこねる女児のようだな。確かにお前らしくないが、可愛げがあって、たまにはいい」

 そうおっしゃって帝は笑いました。かぐや姫は、この人からは逃げられないとを悟りました。そして、自分の気持ちからも。

 かぐや姫は覚悟を決めました。

「以前お話ししたように、わたしはこの国の人間ではありません。月の都の人です。とある約束によって、この世界にやって来ました。でも、八月十五日に迎えがきます。そうすれば、わたしはもう戻ることはありません」

 一息にかぐや姫は告白しました。さすがの帝も、驚かれたようでした。

「月の都は、非常に文明が発達したところです。皆美しく、年老いるということもありません。畏れ多くも、かの地から見れば、この国は小さく卑しい場所とされています」

 卑しいという言葉を発するとき、かぐや姫は声を小さくしましたが、帝はそれよりも、話の続きが気になるようでした。

「先ほど、約束と言ったな。なぜそんな都から、お前はここに来た。そして、どうしても帰らなければならないのか」

「月の都に、許婚がおります」

 かぐや姫は、できるだけ感情を排して言いました。

「彼は月の皇子で、とても美しく、強い力を持っています。わたしは彼に見初められ、結婚する予定でした。でも、わたしが本当に彼にふさわしい女であるのか、彼だけを愛せる資質があるのか、試さなければならないと言われたのです」

 かぐや姫は、月の都でも際立った美貌で評判でした。月の皇子と恋に落ちたとき、人々はお似合いだとはやしたてたものです。皇子の妻になることは、月の都の女性にとってこれ以上ない栄誉であり、一族の繁栄を約束することでした。かぐや姫の家はそれほど位の高くない貴族でしたので、喜びようもただごとではありませんでした。

 しかし、時間が経つにつれ、皇子は嫉妬深い面を覗かせるようになりました。かぐや姫がほかの男とちょっとした会話をするのも見逃さず、皇妃となるには躾が足りないと、屋敷に囲い込むようになりました。それでも満足せず、お前の存在は罪深い、だから罰を受けなければならない、と言いだしたのです。

――私だって好きでこんなことを言っているわけじゃない。愛しているからこそ、苦しいんだ。私の気持ちをわかっておくれ。

 月の皇子が罪だと言えば、それは罪になりました。流刑は皇妃となるための修行だと言えば、みんな納得しました。

 こうして、かぐや姫はこの国に生み落とされたのです。

「本当に愛しているなら、不便で卑小なこの国での生活も我慢できるだろうと。充分に反省した頃、迎えに来ようと。それがこの八月十五日なのです」

 話終えて、かぐや姫は深いため息をひとつつきました。帝は神妙な顔つきでしばらく黙っておいででしたが、やがて落ち着いた声でおっしゃいました。

「故郷に戻れるなら、よいことではないか。何を思い悩むのだ」

 かぐや姫は、すがるような目で帝を見上げました。

「久しぶりに戻ることに緊張しているのか?」

「そうではありません」

「爺と婆に情が残ったか」

「それもあります。でも、それだけではございません」

「じゃあ、なんだ」

 帝は少し苛々した様子で訊き返されました。

「戻って皇子と結婚するのだろう、なぜそんな悲しそうな顔をする」

「帝とお別れするのが辛いのです」

 かぐや姫は怒ったように言いました。

 帝は動きを止め、まじまじとかぐや姫を見つめられました。かぐや姫はもはや、何もかもさらけ出そうと決めました。

「以前、帝のことを傲慢だと言いましたが、本当に傲慢なのはわたしでした。つまらぬ国によこされて、辛かった。退屈で仕方なかった。拾い育ててくれた父、母のことは感謝しておりますが、一方で、愚かで野蛮な人種だとどこかで見下していたのだと思います。それ以外の人のことは、なおさらです。ここはわたしの住む世界ではない、はやく月の都に帰りたいと、そればかり考えて過ごしてまいりました」

 美しい着物も飾りも、かぐや姫にとっては何の意味もありませんでした。ただ書物を読んで気を紛らわせることだけが、心の頼りでした。

「結婚など、もってのほかでした。わたしをよく知りもせず、見た目の評判だけで求愛してくる男性たちを軽蔑しました。お恥ずかしながら、彼らを翻弄して打ち負かすことに悦びも感じました。だから帝のことも、最初は同じように……」

 野卑で尊大な帝。その想像通りであれば、むしろどれだけよかったことでしょう。

「でも、あなたは違いました。話すと楽しくて、さみしい気持ちが慰められました。わたしのことは珍しい生き物程度に思っておられたのでしょうが、かえってそれがラクだった。会えば会うほど、お人柄に魅せられていくのを止められませんでした。心ひそかに、后妃さまたちをうらやましいとも思いました。浅ましいことです」

 かぐや姫は精いっぱいの力で微笑みました。

「あなたは素晴らしい帝です。帝が治められるこの国を、うらやましく思います。きっと月に来ても立派に治められるでしょう。同じ国に生まれなかったことを、心から残念に思います。そしてどうか、数々のご無礼をお許しください」

 帝は信じられないといったお顔で、問われました。

「私のことが、好きだと言っているのか?」

 かぐや姫は頷きました。

「できれば、心に秘めたまま去りたかった。許されないことはわかっています。許婚がいる身ながら、呆れられても仕方ありません。確かにわたしは罪深いのでしょう」

 結局、皇子の危惧したとおりのことになってしまった。そう自嘲気味に笑おうとしたかぐや姫の口元を、帝の唇がふさぎました。

 くちづけはしなやかに、かぐや姫の言葉を奪いました。

「珍しい生き物などと、いつ言った」

 唇を離した帝は、呆然としているかぐや姫の顔を覗きこまれました。

「……だって、ただ話して面白がられるだけで、いつもさっとお帰りに」

「私のほうこそ嫌がられていると思っていたからだ。触ったら、それ以上のことをしたくなってしまうだろう」

 そうおっしゃいながら、帝の指先がかぐや姫の頬に触れました。その手が肩へ動き、背中に回り、身体ごと抱き寄せるまでに時間はかかりませんでした。

「お前みたいに強情な娘には会ったことがない」

 かぐや姫の髪の毛にくちづけを落としながら、帝はささやきました。

「だが、お前みたいに愛おしい娘もはじめてだ」

 かぐや姫は心が震えるのを感じました。

 月の都から落とされたのは、自分が悪いのだと思っていました。自分に隙があるから罪が生まれ、高貴な皇子を苦しめるのだと。この国では隙を見せないように、装って、我慢して、感情を排して過ごそうと決めました。人々を見下すことで、孤独な気持ちを誤魔化そうとしていました。

 しかし帝に惹かれてはじめて、かぐや姫は自分の処遇に疑問をおぼえるようになりました。誰かの言いなりになって、素を出せないまま無為に過ごすのは間違っているのではないか。愛しているからといって、相手の自由を奪う権利があるのか。本当はずっと悲しかった。さみしかった。諦めることに慣れたくなかった。

 帝はかぐや姫を受け入れてくれました。それ以上に嬉しくせつないことが、この世にあるとは思えませんでした。

 たとえ罪深いと罵られても、淫乱と蔑まれても、もはや構うまい。帝のくちづけに応えながら、かぐや姫は目を閉じました。


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