第四話
お言葉どおり、帝は時折、翁の屋敷にいらっしゃるようになりました。
いらっしゃる間隔は気まぐれで、連続のときもあれば、ひと月以上あくこともありました。しかも事前に知らせることもせず、音沙汰なくふらりと訪れるので、翁ら屋敷の者たちを慌てさせるのですが、帝はそれ自体も楽しんでいらっしゃるようでした。
あれ以来、帝はかぐや姫に指一本触れようとはしませんでした。何をするということもなく、とりとめのないことをお話しになり、軽口を叩き、ときにはしばらく黙ったまま、庭を眺めていることもありました。滞在されるのは午後の数時間だけで、もてなそうとする翁の申し出を断り、日が暮れる前にさっさとお帰りになるのが常でした。当初は警戒していたかぐや姫も、次第に帝の来訪に慣れ、今ではもう取り乱すこともなく、それどころか最近では帝がいらっしゃっても、平然と読書を続けているほどでした。
その冬の日も、帝は少数の従者を連れて、屋敷を訪れました。従者たちを別室に残し、慣れた手つきでかぐや姫の部屋の入り口をくぐりました。
「今年の冬は一段と冷えるな。辿りつくまでに凍えそうだった」
帝は遠慮のない様子で、あぐらをかかれました。
「それなら、わざわざこんなところまで来ず、暖かい宮中にいらっしゃればよかったのに」
「お前の身体から出る光で、暖が取れるかと思ってな」
かぐや姫がいるおかげで、翁の屋敷は冬でも適度な過ごしやすい空気が流れているのは事実でした。
「人を便利な暖房器具扱いとは、失礼なお方」
「褒めているつもりだが」
帝はくつろいだ姿で、頬杖をつかれました。
「それに、宮中は新年の祝い続きで落ち着かん。祭儀や祝宴にも飽きた。しかも新年の挨拶という口実で、后妃たちの父親が入れかわり立ちかわり訪ねてくる。幼い孫の立太子の確約をさせようと必死だ」
帝には三人の后妃たちとのあいだに、年の近い四人の皇子がいらっしゃいました。この時代、必ずしも長男が皇太子となるわけではなく、後見人たちの駆け引きが大いに影響していました。
「第一皇子が病弱だからな。余計にややこしい」
「それでは、ますますこんなところにいらっしゃる場合ではないでしょうに」
「少し困らせるくらいで丁度いい」
そうおっしゃいながら、帝はあくびをひとつ、ふたつとされました。
「やっぱり、ここは暖かいな」
しばらく帝はつれづれに会話を楽しまれていましたが、そのうち目をおつむりになり、やがてかすかな寝息が立ち始めました。
冬の薄い光が、時が止まったような部屋を覆っていました。少しでも動くと、物音が立ってしまいそうな午後でした。かぐや姫は微動だにしないまま、帝のお姿を静かに見つめていました。
しばらくして帝がお目ざめになりました。かぐや姫は視線を落としました。
「ああ、眠っていたか」
「ずいぶん気持ちよさそうに」
「そうだな、いい夢を見ていた。夢でお前に会ったよ」
かぐや姫が眉根を寄せたのを見て、帝は苦笑されました。
「そんな嫌そうな顔をするな。夢くらい見るだろう」
「わたしは、夢は見ません」
「一度も?」
頷いたかぐや姫に、帝は興味深そうに続けました。
「夢うつつ、というようなこともないのか? 眠りが浅いときに、現実と夢が入り混じってわからなくなるような」
「……昔を思い出すことは、あります」
「子供の頃の記憶ということか?」
「ずっとずっと、昔の」
かぐや姫が自分のことを話すのは珍しいことでした。かぐや姫自身も、話し過ぎたことに気づいたのか、その長い睫毛を伏せました。
「日が暮れそうだな。そろそろ帰ろう」
部屋を出ようと立ちあがった帝は、ふと思い出して振り返られました。
「そうだ。正月ということで、宮仕えの者たちにちょっとした祝いをやった。お前も何か欲しいものはあるか?」
かぐや姫は首を横に振りました。
「ありがたいですが、お気遣いは不要です」
「そう言うと思った」
帝は部屋を見まわし、活けてあった椿の花に目をやられました。媼が庭で丹精込めて育てている椿でした。帝は花瓶から一本すっと抜かれると、迷いのない手つきで、かぐや姫の髪に差されました。
赤い花はつややかな黒髪にとてもよく映えました。
「では、これが祝いの代わりだ」
「……椿はもともと部屋にあったものではないですか」
かぐや姫が反論すると、帝はからからと笑われました。
「私の手から渡せば、この国では、それは賜物というのだ」
「傲慢ですね」
「帝とはそういうものだ。この国のものはすべて私のものだ。――たったひとつ、お前を除いて」
帝はかぐや姫の右耳の上に咲いている椿の花びらに触れました。かぐや姫がまばたきすれば、睫毛が煽いだ風が届きそうなほど近く。
夕陽が部屋に差し込んでいました。庭に背を向けているにもかかわらず、眩しいような錯覚がして、かぐや姫は目を細めました。太陽の光はかぐや姫の身体を包むように、部屋中に満ちていました。
次に帝がいらっしゃったのは、しばらく間を置いて、三月のことでした。風はまだ冷たいながらも、雪は溶け、花が芽吹き始める季節になっておりました。
ずいぶん久しぶりのご来訪になったことについて、かぐや姫が口を開こうとしたとき、帝のご様子がいつもと少し違うことに気づきました。帝は普段の軽口もなく、黙ってかぐや姫の傍にお座りになると、中庭を見ながらおもむろにおっしゃいました。
「先月、第一皇子が死んだ」
かぐや姫は帝の横顔を見つめました。帝は庭のほうに目を向けられたまま、淡々と続けられました。
「子どもとは不思議なものだな。少し風邪をこじらせたかと思っていたら、あっという間に死ぬ」
「お悔やみ申し上げます。皇子様を亡くされたお心は、どれほどお辛いことでしょう」
かぐや姫は静かに頭を下げました。
「死んだのは、弱いからだ。生まれたときから病弱な子だった。弱くては帝にはなれぬ。政争に巻き込まれることを思えば、物心つかぬうちに死んだのは、かえって幸運だったかもしれん」
庭先では、つがいのメジロが木々と戯れていました。風が幼い花びらを揺らし、日の光はのどかでした。さらに奥の山には、若く青々とした竹林が広がっておりました。
「この春を見ずに逝ってしまった」
帝はぽつりとおっしゃいました。
ふと何かの気配を感じて顔をあげたかぐや姫は、思わず目を見開きました。
帝の瞳から、音もなく涙が流れ出ておりました。帝はそのことに気づいておられないように、拭うこともせず、ただ流れるままにされておりました。
「可愛い子だったよ。身体が小さくて女児のようでなあ。中宮の落胆ぶりはいかほどか……」
「中宮さまのお傍にいらっしゃらないのですか。そのほうがお心も慰められましょう」
「ならぬ。私が嘆いたら、逆にあれは自分を責めるだろう。それに立太子争いで、隙を狙っている者も山ほどいる。私が宮中で感情的になることは許されん」
かぐや姫が言葉を選んでいると、帝は振り返って、笑っておっしゃいました。
「何も言わなくていいぞ。帝とはそういうものだ」
その表情を見たとき、かぐや姫は言葉も理屈も奪われたように感じました。
この方は、なんて健全に、人生を営んでいるのだろう。誰かに対してそんなふうに思うことは、今まで経験したことがありませんでした。
その夜遅く、かぐや姫は寝所から抜け出して縁側に出ました。
空にかかる十三月は、今にもこぼれ落ちそうに、たっぷりとした風情で光を放っていました。
――約束の時が、近づいているのね。
かぐや姫にとって、月は懐かしく恋しく思う対象であり、また同時に、痛みと孤独を呼び起こすものでした。
宵の冷たい風が、かぐや姫の髪の毛を弄んで、遠くへ吹き抜けていきました。かぐや姫はじきに訪れるであろう未来を思い、両の手で胸を押さえました。