燈火
街からわずかに見える、遠くの山。
その山からも、下界が見下ろせる。
山の中腹にある、切り立った崖に、一匹のオオカミの子が座り、下界を見下ろしていた。
その顔は、悲しみに満ちていた。
オオカミの名前は、タロといった。
タロはオオカミといっても、オオカミの妖であった。
タロがまだオオカミだった頃、一度だけ人間に飼われていたことがあった。
タロはその人が、愛しくて、恋しくて、この世への未練が断ち切れず、その身は妖と成り果てた。
あれから400年…。
タロは懐かしい人の魂を探していた。
タロの瞳は溜め込んだ涙で、もはや街を確認することができず。
その瞳を閉じれば、両の瞳からは大粒の涙がこぼれた。
ただ、視界の奥に、今も色褪せずにいるのは懐かしいあの方、 いとしいひと。
タロの表情が、時より明るくなった気さえさせる。
この身が果てる前にもう一度逢いたい。
妖になるまで100年、それから300年と少し。
妖にとっては決して長寿の域ではない。まだまだ若い方ともいえる。
しかし、タロはもう自分が長くはないことを悟っていた。
長居をしてしまった。
本来、妖に成り果てるはずのなかった魂。
しかし、この身が果てる前にせめてもう一度、懐かしい魂のあの方に会いたい。
タロはそう思うと、最後の旅へと旅立った。
時は江戸初期。
お江戸、日本橋なら、知らない人はいないという大店の次男に、サガミという青年がいた。
サガミは切れ長の目にすっきりした美人顔の男前。
すらりと細見の長身は、どこから見たって優男であった。
しかし、当の本人は、至って真面目な性分であった。
言い寄る女はあまたの数だったのだが、サガミはというと、そんな誘惑に見向きもせづに、寡黙に家業をこなしていた。
とはいえ、次男坊のサガミには、家を継ぐということはありえないことであったので、いずれ暖簾分けをするのか、婿に着くか、家を継ぐ兄を手伝うか、選択しなくてはいけなかった。
そして、元服を終えたサガミがそれを選択する日も近かった。
サガミは最近悩んでいた。
悩みの種は自分の将来であった。
「サガミ。 少しいいか?」
兄の葵であった。
葵はサガミの四つ年上の兄で、
黒目がちの大きな目をした、愛嬌のある男前。
体つきも男らしくがっちりとし、家系なのだろうやはり長身であった。
葵は神妙な顔つきで、サガミを自室へと招いた。
「座って、崩してくれ。」
葵はサガミには楽な格好で、と言うもの、自身はかしこまり正座をした。
「兄さん。話って?」
「ああ。」
葵は一瞬ためらったが、口を開いた。
「サガミ。おまえ、将来を考えているのだろう?」
何かと思えば、私の将来のことか。と、サガミは思う。
「はい。悩んでいます。」
「悩んでいる。 かあ。」
葵はそう復唱すると、サガミの顔を見つめ、
ゴクリ。
生唾を飲み込むと、
「頼む、サガミ。私を、私の側で私を助けてほしい。」
そう言うと、葵はサガミに土下座をしたのだった。
「ちょっ、兄さん。頭を上げて下さい。」
サガミはそう言い、葵に土下座をやめさせると、
「悩んでいると、言ったではないですか。」
そう言って、困った顔をした。
復唱したのだから、葵もわかってはいた。
けれど、いったいサガミがどういう理由で悩んでいるのか、それを確認することが葵には怖くてできないのだ。
ただ、どうやらそれを問わないことには話は進まないようだった。
「…。 サガミ、何を、 悩んでいるのだ?」
意を決して、葵が聞くと、サガミは困った顔をして、
「兄さん。私はこの家の仕事が好きなのです。けれど…。
世帯を持つことにどうしても抵抗があるのです。」
「えっ?」
サガミの答えは、葵にとって、まったくもって意外なことであった。
世帯を持つことに抵抗がある?
「外に…、身分違いの女でもいるのか?」
「いいえ。」
サガミはそう言って、首を横に振った。
「じゃあ、どうしたいのだ?もう答えなど、とっくにでているのだろう?」
葵がじれったくそう言うと、サガミは、じっと葵を見据え、苦笑いをした。
「ええ。 兄さん。私を手代として、この店で雇ってくだしい。それが不可能なら、私はここから出ていきますから。」
「手代…。」
葵はサガミの言葉に呆然とした。
サガミはこの家の者なのだから、みすみす下働きである手代に着く必要などない。
ましてや、兄である葵が自ら家業を手伝ってほしいと言っているのだ、役々その必要性が感じられないはずなのに、だ。
「サガミ、私はおまえに私の右腕として仕事を手伝ってほしいのだ。手代になる必要がどこにある?」
「兄さん。けじめです。私は自分に甘えたくないのです。」
サガミのその目は、揺らぎそうになかった。
察した葵は、
「…そうか、わかった。父上には私から説明しておく。」
それからしばらく、サガミは店の手代見習いとして働き出していた。
いきなり手代はまだ早いと、父がサガミのために用意した職。
それでもサガミを尊重し、働き始めの祝いに藍染の信玄袋をくれた。
その仕事にも、ようやく慣れてきたころ。
サガミはいつものように、上得意への荷を届け、その帰り道。
神社の前を通る。
この道は、特定のお客様へのお届けで使う事もあるが、普段はあまり使わない。
神社はもう千年近くこの場所にあるらしく、入り口右隅には後から建てられた稲荷神社がひっそりと佇む。御社の左上の綻びが少し気になった。
神社の向いも左となりも竹林がうっそうと茂っていて見晴らしが悪い。
右となりは古くから代々陰陽道を継でいる広い御屋敷だ。
そんな道なので、人通りもあまり良くなかった。
サガミも、そんな理由もあり、あまり好んでその道は使わなかった。
しとしとと降り続く雨が鬱陶しい。
サガミが神社の手前に差し掛かると、何か白い大きな生き物が蠢いているようだった。
他に人気もないので、サガミはびくりとした。
しかし、今日のお客様へだと、どうしてもこの道を通らねばならない。
サガミはびくびくする自身に言い宥め、意を決して道を進んだのだった。
すると、遠目にはわからなかった白い大きな生き物は大きなイヌ‥
いや、オオカミのようだった。
ただ、そのオオカミは傷つき、真っ赤に実を染め悶えていた。
オオカミは、サガミが近づくと、唸るように威嚇した。
「大丈夫だよ。私はなにもしない。」
サガミはそう言うと、真直ぐな瞳でオオカミを見つめ、両手を広げ、何もないことをアピールした。
オオカミも、首をかしげながらサガミを許したようで、その瞳を見つめ返した。
しかし、どうしたものか?
サガミは思った。
が、迷っている暇はない。
そう思うと、大きなオオカミを抱えると、帰路を急いだのだった。
家に戻るなり、すぐに葵に見つかってしまったが、葵はやれやれと、サガミを許してくれたのだった。
「今日はもう仕事はいいよ。私の離れを使っていいから、その大きな犬の世話でもしてあげなさい。」
「いえ、兄さん。」
サガミがとんでもないと、断り仕事に付こうとすると、
「サガミ。 おまえが良くてもあの犬がかわいそうだろ?あの犬、名はなんと付けた?」
「いえ…、まだ。」
「ならなおさらだ。」
葵の優しさが身に染みる。
サガミは葵のそんなところが大好きだった。
「あと、雨をちゃんと拭くんだよ。」
葵はそう言うと、持っていた手ぬぐいでサガミの顔を拭った。
サガミはそれに顔を少し赤らめると、
「兄さん。 ありがとうございます。」
そう言って、葵から手ぬぐいを受け取ると、葵に抱きついた。
「たまに、甘えるんだな。」
葵は、クスクスと笑いながらサガミを包みこるように抱きしめると、冷え切っていたサガミの身体は、葵の体温に反応してぶるりと、震えた。
「ああ、サガミ。 こんなに冷たくなって、犬の世話は私がするから、お前は先に風呂で温まってきなさい。」
葵のその言葉に、サガミは顔を上げると、
「いえっ、そんな兄さんより先にいただくなんて。 私は大丈夫ですからっ!」
葵はサガミを言い宥めるように、もう一度抱きしめた。
「おまえが風邪を引いてしまったら、明日の仕事に影響がでるだろう?素直に風呂で温まってきなさい。 いいね。」
サガミが風呂へ向かうと、葵はオオカミを離れに連れて行った。
離れは葵に充てられた部屋だ。
晴れた日に、仕事の合間にでも日向ぼっこができるようにと、縁側が広く取られている。
そこへ葵は御座を広げると、オオカミをそこへ上げた。
温かい湯と手ぬぐいでオオカミの身を清め、酒で消毒をする。
その手を止めないまま、葵は話し出した。
「おまえは頭がいいな。 サガミだから、付いてきたの来たのだろ?」
葵には、オオカミが自分の言葉に耳を傾けたように思えた。
「サガミは優しい男だ。 誰よりも仕事熱心で、こころの美しい。
だが、たまに判断を誤るしさっきみたいに優先順位も間違う。
世帯を持たずに手代になりたいなど、どうしてそう思ったのか…。」
葵はオオカミの頭を撫でながら、
「ここのところ、人斬りの噂をちらほら聞くんだよ。
だからねえ。なおさらサガミを一人で外にはやりたくないんだが、あれも意志が固くてねえ。だから、もしおまえがサガミに助けられたことを、恩に思ってくれるなら、サガミを守ってやってくれないか?
私は心配なんだ。 あのこのことが。」
「兄さん。お先にいただきました。」
しばらくすると、全身からほんのりと湯気を立ち昇らせて、サガミが湯上りのまま離れへやって来ると、葵の隣に腰を下ろした。
「サガミ、そんな恰好で風邪を引くなよ?」
「はい。」
葵はすっと立ち上がると、下がり、戻って来るなりサガミに羽織を掛けた。
「すみません。」
サガミが苦い顔をして葵を見つめると、
「思ったより、こいつの怪我も酷くないようだ。 名前、付けてやらないとな。」
葵はそう言って、オオカミの頭を撫でた。
サガミもオオカミを撫でながら、ひとしきり考えると、やがて、
「兄さん。 タロはどうでしょう?」
「タロか。 良い名ではないか。」
タロと名付けられたオオカミも、その名を気に入ったように尻尾を振って見せた。
翌朝、タロは驚異的な回復を見せ、元気に裏庭を飛び回っていた。
その日から、サガミの外回りに付いて出るようになった。
タロは、昼はサガミに付、サガミの話を聞き、夜は葵の離れで葵の話やその日の店での出来事を聞く。
それがタロの日課となっていった。
サガミは、背中を幾つもの嫌な汗が流れるのを感じていた。
いつものように、得意先に荷を届けた後から、サガミは何者かに後をつけられていた。
生憎、今日はあの神社の前しか、帰る道が無い。
サガミがつけられていると気づいた時には、すでに人通りの少ない道に入ってしまっていて、後ろにはつけて来ている何者か、もう後戻りはできなかった。
「タロ、神社へ飛び込みましょう。 そこまでの辛抱です。」
サガミは、自身に言い聞かせるようにタロにそうつぶやいた。
こころなしか、足が速くなる。
つけられていることに気づいてますと、知らせることになるから気を付けているのに、足が言うことをきかないのだ。
あと少し、神社がすぐそこであることを示す、竹林に差し掛かったところで事態は急変した。
ズドンッ!!
キャウーーン!
地面から突き上げるような、そんな低く、重圧な轟音があたりに響き、一斉に鳥たちが羽ばたく羽音が聞こえた。
そして、鳴き声。
サガミが青ざめ振り返ると、タロが倒れていた。
舌を出し、小刻みに震えている。
突然タロを襲った下半身の熱と激痛。
初めて激痛に、タロは起き上がることができなかった。
「くう――ん。」
悲しそうに鳴いた。
「たっ、タロっ。」
そして、タロの向こうに、大きな男が片手に銃を持ち、もう片方に剣を持ち、佇んでいた。
大人の大男。
いくらサガミが背が高いとはいえ、まだ元服したばかり、少年のサガミには、その男はだいぶ大きく見えた。
「くう――ん。」
タロは、逃げろっ!と、言いたかった。
自分はいいから、サガミには無事でいてほしい。
でもサガミには通じないようで、サガミは身体を震わせながら、護身用に持っていた短刀に手を掛けた。
言葉が通じないもどかしさ。
タロはこの時ほど恨めしいと思ったことはなかった。
商人のサガミが浪人の大人などに、敵うはずがない。
逃げてっ!
何度訴えても通じない。
それは一瞬のできごとだった。
タロの目の前に、突然、真っ赤な雨が降り注いだ。
すぐに、パタリと、サガミが倒れた。
開かれたままの瞳は閉じることのない。
男は倒れたサガミに近づくと、サガミの胸元に手を入れ、赤く染まった風呂敷を抜き出した。
タロが後ろ足を引きづりながら、どんなに威嚇しても、見向きもせず、用は済んだと行ってしまった。
残されたタロは、サガミの頬を舐めたが、反応が無い。
タロは重い足を引きづりながら、神社へ飛び込んだ。
先ほどの銃声が聞こえていた神主たちは、すぐに外へ出てきてサガミとタロに気づいてくれた。
葵さまにも知らせなくてはいけない、サガミは意識が無いのだ。
タロはそう思うと、サガミの腰に付いた信玄袋を咥えると、また後ろ足を引きづりながら走り出した。
うまく走れない、後ろ足が地に着くたびに痛む。
けれど、それどころではなかった。
タロは、ただただ葵に伝えるために走った。
バタンっ。
葵の離れへ続く、庭の勝手口の扉の音がした気がした。
葵は、いつもより遅いサガミとタロの帰りを不安そうに待っていたのだ。
急いで音がした勝手口へと葵が走ると、そこには下半身を赤く染めたタロが倒れていた。
葵はハッとした。
「タロっ!どうしたんですっ!サガミは?一緒では?」
そう言う葵に、タロは咥えていた信玄袋を差し出した。
「これはっ。 サガミっ。」
葵は見覚えのある信玄袋に、みるみる顔を青ざめさせた。
タロは、最後の力を振り絞るように立ち上がると、よたよたとしながら、葵に付いて来てと示した。
足取りがおぼつかないタロの案内に葵は付いて行き、神社の前で足を止めた。
そこには、変わり果てたサガミが地べたに横たわっていて、すでに御用聞きや同心も来ていた。
葵が、何度呼んでも、サガミはなにも答えない。
「こんなことって…、だから反対したのに、どうしてサガミ。」
自分の意志ではないのに、勝手に目頭が熱くなり、葵の両目から熱いものが零れ落ちる。
知らぬうちに、葵の隣には父が駆け付けていて、崩れるようにその場にしゃがみ込むと、サガミを叫び、泣き崩れたのだった。
約束を…、守れなかった。
守ってほしいと、言われたのに。
もう帰ることのないサガミ、泣き崩れる葵とその父を見て、タロは自分ができなかったことを悔やんだ。
会わせる顔などない。
タロはそう思うと、その場を後にした。
人斬りに遭ったサガミは町奉行所へ、一度運ばれることになった。
同心によると、サガミは今日の荷の代金を持っていないらしい。
いつも懐に、風呂敷で包んで忍ばせているはずだった。
物取り目的の人斬りで、サガミはそれに目を付けられたのだろうと。
タロが一緒にいたのにどうして…。
葵はそこで、タロがいないことに気が付いた。
そうだ、タロは足を引きづっていた。
下半身が赤く染まってはいなかっただろうか?
自身も傷ついていたのに、サガミのことを知らせるために、葵のところまで帰ってきたのだ。
「だれかっ、タロを知らないか? 白くて大きな犬…。」
葵がどんなに探しても、その後タロを見つけることはできなかった。
店はすぐに、葵に代交代した。
父はサガミのことを悔やみ続け、仕事にならなかったからだ。
その父は隠居するとすぐに、サガミの後を追うようにこの世を去った。
葵の代で、店は歴代の先代たちより遥かに繁盛した。
しかし、葵が生涯伴侶を取ることが無かったため、店は古株の手代に継がれた。
手代には、葵ほどの力量もなく、葵がこの世を去った後、みるみる縮小し、畳まれた。
タロは、気づくと、懐かしいあの場所へ近づいていた。
その場所は、あの日から、一度も訪れたことのない場所。
出会いも、別れも、この場所だった。
タロにとって、思い出すことがたくさんで、今まで避けていた。
なのに、自分の命が尽きようとしている今。
無性に懐かしさを覚え、自然と足が向いている。
サガミと出会い、サガミを亡くした…
そして、葵を最後に見た場所。
もう一度、二人に。
もう一度、葵に頭を撫でてもらいたい。
目を閉じれば、二人の笑顔が、ついこないだのようにそこにある。
神社にたどり着いたとき、もうタロはふらふらしていた。
本当に、この世とのお別れ。
お稲荷の御社は、今日も右上の端が、ほころびている。
もう動くことができない。
タロがそう思い、御社の前に丸くなると、
――――タロ――――
懐かしい声を聞いた気がした。
お迎えが来たのだろうか?
そう思い、タロが声のした気のする方を向くと、そこには、
サガミ?
タロは走り出していた。
さいごの最後の力を振り絞り。
ずっとずっと逢いたかった。
―――タロ、来てくれてありがとう。逢いたかったよ。――――
小さなタロを、サガミは抱き上げ抱きしめた。
ふぉわん。っと、タロは頭を撫でられた。
見上げれば、そこには萬弁の笑みの葵がいた。
その日、稲荷神社の前が一瞬まばゆく光ると、すぐに消え、何事もなかったかのような元の静けさに包まれたのだった。