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天使

 闇に生きる者の時間、夜である。

 ビビは早春の冷たい空気と共に薄光を纏い、純白の羽を広げてフワリと降り立った。

 勉強机に向かっていた子供が、顔だけを向けた驚愕の眼差しで彼を見つめ、持っていたシャーペンをポトリとノートに落とす。呆然と呟いた。


「天使が……窓から……?」


 ビビは自分がその表情を浮かべた時の効果を存分に承知した上で、愛らしく微笑んで見せる。この笑顔を前にすると老若男女の区別なく、人間は誰もが彼に陶酔する。ふと、腰の横から黒い三角矢印がプラプラ揺れていることに気づいた。ビビは表情に出さないまま内心で舌打ちし、慌ててそれを背後に隠す。素知らぬ風情で確認すると、見開いた子供の目はビビの美しい顔貌に固定されたままだ。

 よし、大丈夫だ。

 ふん、間抜けめ、とビビは目前の子供だけではなく、愚かな人類全体を馬鹿にした。

 そんな考えはおくびにも出さず、彼は珊瑚の唇から天上の調べのような声を紡ぐ。


「僕はビビ。ある偉大な存在から、人を幸せにするようにと仰せつかってきたんだ。君の願い事を一つだけ叶えさせて?」


 特別サービスで小首も傾げてみせた。


「願い事?」と寝惚けたような面持ちで、子供がオウム返しに言う。

「そう、願い事」


 理解の遅いガキめ、一度言っただけで理解できないのか! と胸中で罵りながら、ビビも穏やかに繰り返した。


「……」


 ここで子供が初めて彼から視線を外し、机に向き直る。両肘を突いて指同士を組むと、考え込むように額をその手に埋めた。

 さっさとしろ、と怒鳴りつけたい気分になったが、ここで焦ってはいけないと分かっている。大抵の人間はまずこうして、自分に合った方法で信じられない状況を理解するよう務める。中にはパニックを起こして泥棒だ、強盗だと騒ぎ立てる煩わしい者もいるのだ。それを考えると、この子供は随分落ち着いている方だといえる。

 待つのも仕事の内だ、とビビは横柄に見えないよう、手を身体の前で握り合わせて行儀良く佇んだ。

 それからさほど待たなかったように思う。子供が決心したように顔を上げ、椅子をクルリと回転させて、身体ごと彼に向き直った。遠慮がちに口を開く。


「一つ質問があるんですけど……いいですか?」


 子供が立ち上がらず、偉そうに椅子に腰かけたままだったのが不満だったものの、ビビは愛想良く答えた。


「なんなりと」


 こっちに椅子譲れよ! 最近のガキは畏敬の念ってものが薄れている、と嘆かわしく思いながら。


「どうして僕の所へ来てくれたんですか?」


 こう尋ねてくる輩は多い。そんなもの、適当に決まっている。だが、彼はこう答えるようにしている。


「君が特別いい子だからだよ。考えてもごらん、人生は、必ずしも善人が報われるとは限らない。心がけの良い者ほど虐げられ、悪の道を突き進む者ほど大きく立派な家を建てる。それは世の中の流れで、誰にも止められない。例え神様だろうとね。でも、それではあまりにも不条理で理不尽だ。この現状に、天の住人は皆嘆いている。――だから!」


 ここでビビは効果を高めるように、一度言葉を切った。狙いどおり、子供は彼の言葉を一言も聞き漏らさぬという熱心さで耳をそばだてている。

 全く、簡単なものだ。


「救済措置を取ることにしたのさ。それが例え、広大な砂漠に如雨露で水やりをするような行為でも、一人でも多くの人間を手助けしたい、とね。ただし、だれでもいいというわけではないんだ」


 ビビは期待と不安を煽るために子供をじっと見つめた。もしかして、僕は選ばれたのか、でも機嫌を損ねたら帰られてしまうかもしれない。狭間で揺れ動く気持ちを表すかのように、子供の目が落ち着きなくさ迷う。もう、子供はまな板の上の鯉も同然だった。


「善人は世の中に溢れかえっている。でもただの善人じゃ駄目なんだ。その中でも特に世の中に貢献した、特別な人間でないと」


 ここでたっぷりと間を置き、気を持たせる。そして両手を広げ、厳かに発表した。


「それが君なんだ!」


 ビビはこの言葉に、子供が感激する様子を当然のように思い描いていた。しかし予想に反し、子供は納得いかない、というように眉根を寄せて顎に指を当てる。


「でも、僕はそれほど大層な良い行いをした覚えはないんですけど……。せいぜい、児童会の活動で道端の空き缶拾いをしたとか、みんなが嫌がる学級委員長をかって出たとかそういったぐらいで――」

「それが大きいんだよ!」


 それ以上は言わすまじ、とビビは子供の言葉を遮った。子供が勢い込む彼に驚き、僅かに顎を引く。

 大方の人間は褒められると普段の行いを忘れる。そして甘言に乗って願い事をベラベラ喋ってくれるものなのだが、と彼は面倒に思った。

 これだから子供というのは、妙なところに正直で困る。

 そう内心で難癖をつけながらも、自慢の笑顔を振る舞う。


「規模の大小は関係ないんだ。道端の空き缶拾い? 空き缶は危険だよね。車のタイヤに弾かれ、それが誰かに当たって怪我をさせてしまう危険性もあれば、誤って踏んづけてしまい、転ぶ場合もある。天下の公道を綺麗にしているんだ。続けると、誰もが安心して気持ちよく通れる道路が出来上がるじゃないか。学級委員長? クラスを纏める大事な役目だ。尻込みするクラスメートたちのために、自らの気持ちを押し込めて立候補するなんて、君はなんてよくできたいい子なんだろう! そういった小さな一つ一つの積み重ねが、こうして奇跡を呼び寄せたんだ。君にはそれを受け取る立派な資格がある!」


 一気に捲し立てられ、子供は暫し呆気にとられているようだった。

 しかしやがてはその頬も緩み、満面の笑顔で「ありがとうございます!」と声を張り上げる。そのいささか大き過ぎる音量に、ビビは焦ってシーッと静かにするようジェスチャーで指示する。親でも入ってきたら面倒だ。

 子供が眉尻を下げて口を片手で覆った後、すみません、というように軽く頭を下げた。


「理解してくれたようでよかった。じゃあ、早速願い事を聞かせてくれるかい?」


 全然早速じゃないけどな。無駄な時間取らせやがって、とビビは喉元で毒突くが、顔面にはもちろん優美な笑みを貼りつけている。

 子供が「はい!」と元気よく返事した。しかし次の瞬間には顔を曇らせ、「あの……」と呟いた。ビビは地団駄を踏みたい気分をぐっと堪える。


「どうしたの?」

「もうちょっと訊きたいことがあるんですけど……」


 いいですか? と不安そうに上目遣いをする。

 ――さっさと言え!

 がなり声を慈愛の微笑み付きの「どうぞ」という言葉に置き換え、ビビは続きを促した。子供が恐縮したように口を開く。


「どんな願い事でもいいんですか?」

「いいよ、と言いたいところなんだけれど、条件は付く。まず、他人が傷ついたり、不利益を被るような願いは聞けない」


 そう言うと、「さすがは天使、良心的なんですね」と子供が感心したように呟く。ただ単に、ナワバリの問題が絡むだけなのだが、それを親切に教える必要もない。


「それから、君自身に直接関する願い事だけだ。例えば、君を将来サッカー選手にしてあげることはできるけれど、お父さんを社長にしてくださいというのは駄目。お父さんが社長になれば君の生活も豊かになるだろうけれど、そういう間接的なものでは後で不服を訴える人が現れるからね」

「不服?」

「そう。別に君がそういう人だというわけではないけれど、お父さんが社長になった後、何か不祥事を起こして失脚したとする」


 ここで子供が不吉なことを、と言いたげに眉をしかめたが、ビビは無視して続ける。


「そして借金を背負い、地を這うような生活に追い込まれる。そうなってから、思い出すわけだ。昔天使に願った内容を。自分は利益を見越して願ったのに、それが全然叶えられてないではないか、と」

「なるほど、そういう事態を防ぐためなんですね」


 子供は納得したように頷いた後、もう一つ、と人差し指を立てて付け加える。

 ――まだあるのかよ!

 目の前の子供を張り回したい気持ちになったが、ビビは忍の字で耐えた。


「僕があなたに願い事を叶えてもらったとして、何か見返りを要求されることはありませんか?」


 この質問に、彼は今までで一番愛想のいい、とっておきの笑顔で応える。声も何段階か高くすることにした。


「どこかの悪魔じゃあるまいし、見返りなんて求めないよ。さっきも言った通り、これはある偉大な存在によるご褒美的な、言わば無料奉仕だ」


 そうドラマで役者が演じるように大袈裟な素振りで言った後、ただ……とビビは憂いも濃くまつげを伏せた。こうすると、相手の同情心が天を突くほど高くなることを彼は知り尽くしている。


「お願いがあるんだ」


 切なさを込めて子供を見つめた。


「どうしたの?」


 子供が心配げな表情で問いかけてくる。ビビとしてはしめしめ。


「僕たちは、死んだ人間の魂を管理している。誰が誰を担当するか、それは神様が決めることなんだけれど、どうか僕を選んでくれないかな? 君がこの先何十年後かに死んでしまった後、僕に君の魂をお世話させてもらいたいんだ」


 思いもかけない嘆願だったのだろう。子供がたまげたように目を丸くしている。そのままの表情で、声を押し出すように言った。


「でも、神様が決めるんだったら、僕の意志なんて関係ないんじゃ……」

「それが大丈夫なんだ。願いを叶える側と、叶えられた側には特別な絆が結ばれる。契約関係にある、と言い換えてもいいかな? その場合は特例と見なされるんだ」

「つまり、ちゃんと願いを言って、叶えられないと契約は結ばれないってことですか?」

「そういうこと」

「僕に直接の利益がないと、叶えられたとはみなされない?」

「そのとおりだ。君は質問の内容を聞く限りでも頭がいいし、心優しい子供だ。顔立ちも整っているから、学校でも人気があるんだろうね。きっと、君の魂を管理したいと思う者は両手に余るほどいるだろう」


 ビビは自尊心をくすぐるように、ここぞとばかりに子供を褒めちぎった。


「でも、僕だって君のことがとっても気に入った。だからどうか、僕を選んでくれないかな?」


 そして瞳に星を抱き、懇願するように瞬きする。

 子供が俯き、束の間肩を震わせた。そして素早く上げたその顔には、ビビに対する感謝の念が滲んでいた。


「ありがとう、ビビ。僕、そこまで望んでもらえるなんて感激だ。僕の方こそ喜んでお世話になりたいと思うよ。他の誰でもない、あなたに!」


 ビビは謝辞を述べる代わりに遠慮深く見える微笑みを作り、胸中で快哉を叫んだ。完全に彼のことを信用した証なのか、子供の言葉遣いがタメ口になっている。それについて立腹しながらも、寛大な気持ちで許してやった。なにしろ、これでこの子供の魂は手に入ったも同然なのだ。


「じゃあ、言ってみて」


 後は願い事を叶えるだけ、とばかりに優しい声音で催促する。

 子供が朗らかに口を開いた。


「うん、僕の願い事はね――」


 そう言いかけて子供が、あ……と何かを思い出したように言い淀む。

 ――いい加減にしろ!

 ビビは周囲を灰燼に帰す勢いで暴れだしたくなったがそれを脅威の自制心で抑え、「何?」と尋ねた。若干口の端が引きつり、声に苛つきが混じってしまったが、まあこの子供は気づかないだろう。

 子供は後ろめたそうに目線を下げ、椅子に座ったまま足をプラプラさせた。


「あのさ、実は、僕には大事な親友がいるんだ。ソイツ、普段からツイてない奴で、ハタから見ても本当に可哀想でさ。なんとかしてやりたくても子供の僕じゃなんにもできなくて、いつも悔しい思いをしてたんだ」


 それで……と言葉を詰まらせ、子供が彼を上目遣いで見る。ビビはとてつもなく嫌な予感を覚えた。唾液を嚥下したのだろう、子供の喉が上下するのがチラリと見えた。

 そして子供が意を決したように口を開く。


「ごめんね。僕だってとってもあなたに願いを叶えてもらいたいんだよ? でも、親友には幸せになってほしいんだ。お願いだよビビ、僕じゃなくて、アイツの所へ行ってやってくれないか?」


 必死さの滲む声を最後まで聞いた後、ビビは目眩を覚えた。冗談ではない。そんな面倒なこと。

 どう言いくるめようかと悩んだ彼はしかし、子供と目を合わせてから、その考えは放棄するしかないと諦観を抱いた。堅い岩盤さえ貫きそうな視線。これは、腹を決めてしまった人間の目だ。決心を揺るがすには、相当な時間と根気と努力を要するだろう。

 一応、イタチの最後っ屁的に足掻いてはみる。


「僕はどうしても君がいいんだけれど……」


 気弱な声で言ってみた。しかし返ってくるのは、項垂れてつむじを見せる子供の「ごめん……」という言葉だけだった。時折しゃくり上げ、それに合わせて子供の髪が揺れる。その様を見つめるビビの心を、色んな想いが渦巻いた。

 ――このクソガキが! さんざん手間かけさせた挙げ句がこれかよ! 八つ裂きにしてやろうか!!

 激しい感情が膨れあがり、隠し持った鋭い爪が飛び出そうになった。が、しかし、と思い止まる。

 この子供が言う通りだとすると、『親友』とやらは普段から不遇な目に遭っているらしい。そういう人間、ましてや子供ならば、ビビの提案には飛びつくことだろう。

 彼は視線をサッと室内に走らせた。最新のゲーム機、テレビ、オーディオ。本棚には何冊もの漫画が並んでいる。どうやらこの子供はかなり恵まれた環境にいるようだ。大抵の子供は、願い事を尋ねると玩具類を口に出す。溢れるほどの物質に囲まれている子供に持ちかけても、欲求は思い浮かばないものなのかもしれない。

 チッ、これだから子供は、とビビは目前の子供を蔑視した。

 下手に憂さ晴らしをするよりも、確実に手に入る魂を選ぶべきだ。仕方がない。

 そう心を決め、ビビは残念そうな、そして諦めたような見る者の罪悪感をあおる表情を意識して浮かべる。


「分かったよ。君の代わりに、誠心誠意、その子の願いを叶えさせてもらうよ」


 彼がそう口にすると、子供がパッと顔を上げた。涙の跡が微塵も見られない、太陽のように明るい面持ちだった。クソ、人の気も知らないで単純に喜びやがって、という呟きは、声に出さないよう気をつけておいた。


「ありがとう! アイツ、きっと泣いて感激するよ」


 ビビは腹立たしい気持ちを押し隠してその言葉を聞き流し、子供から『親友』の住所を書いたメモを受け取った。ビビには住所から目的地を割り出すことなど造作もない。

「あ、そうだ。アイツもいきなりビビが現れたら戸惑うと思うんだ。なんせ気が弱いから。僕も色々質問したし、君に何度も同じことを言わせるのは悪いから、予めこっちから説明しておくよ」

 そうだなあ……とこめかみを指先で叩き、子供が考える素振りをする。そして言った。


「悪いんだけど、三十分後ぐらいに行ってやってくれないかな? その間に電話しておくから」


 いちいち面倒なことを言うガキだ。そう思ったが、確かにその方が手間は省ける。ビビは子供に満面の笑顔を向け、提案に乗ることにした。


「じゃあ、アイツを幸せにしてやってね」


 子供が携帯を片手に機嫌良く手を振る。その無邪気ににこやかな顔に見送られ、ビビはくさくさする気分で部屋を後にした。



 ビビは今、この地域で一番高いビルの天辺、その縁に腰掛けている。闇よりもなお深淵なコウモリの羽、漆黒の体躯、鋭く尖った耳、大きく裂けた口、そしてよく磨かれた槍の穂先を思わせる尻尾。ビビは今、彼が本来持っている悪魔の姿に戻っていた。

 彼の仕事は愚かな人間を堕落させ、魂を集めること。金の髪に純白の羽、美しい顔貌。聖画に出てくる天使の出で立ちで現れると、誰もがコロリと騙される。――どう頑張っても尻尾だけは変化できないのが玉に瑕なのだが。しかしそれは背後に隠せば済むことだ。

 高層ビルの頂上は風が強い。常に吹きつけてくる激しい風にも、しかし彼はビクともしなかった。

 ビビは自分が天使だと詐称したことはないし、天からやってきたとも言っていない。契約を交わせば天国へ行けるとも約束してはいない。嘘は一つもついていないのだ。ただ、否定しないだけ。勘違いするほうが悪い。

 ビビは地上を見下ろした。夜空を彩る星よりも明るい、無数の小さな灯りが輝いている。その光の数だけ、いや、それ以上に欲望が蠢いている。全く、人間の欲には果てがない。そのおかげで回収する魂に事欠かない彼は、笑いが止まらなかった。

 そろそろ三十分が経つ頃だ。ビビは闇色の大きな羽をはためかせ、喧噪から遠く離れた夜空へと飛び立った。新月の中風を切りながらふと、あの子供の魂を手に入れられなかったのは残念だと思った。

 まあしかし、すぐにでも別の魂が飛び込んでくるのだ。

 そう考え直し、ビビは次の目的地へと向かった。


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