第5話
私は真っ暗な底の中にいる。
この底には始まりも、終わりもない。
周りは何も見えず、何も聞こえない。
哀しく広がる暗闇だけが、この世界を支配する。
手探りで前に進もうとした。しかし、周りは暗く、上手く前に進めない。
どんなに歩いても、さっきいた場所と変わっていないような気がする。
しばらく歩いた後、とうとう疲れ果て、冷たい地面に座り込んだ。
「助けて・・・。誰か・・・、助けて!」
声の限りに何度か助けを求めて叫ぶ。
しかし、帰って来るのは、空しく響く自分の叫び声。
その後に押し寄せる沈黙に、泣き叫びたくなる衝動を抑え、膝を抱えた。
もう、だめ。私は一生、この底から出られない。そういう運命と決まっているんだ。
顔を膝に埋めた、その瞬間だった。
「もう、大丈夫。」
頭上から声が降ってきた。顔を上げてみる。
優しさに満ち溢れたその声に、色を失ったこの世界が、彩りを思い出す。
四方に広がる暗闇に、一筋の光が射し込んでいた。
その眩しさに、思わず目を瞑ってしまう。
私はその光の射す方向に、ゆっくりと右手を広げてみた。
手の平に広がる一点の光が、次第に大きくなっていく。
どんどん、どんどん大きくなっていき、気がつけば右手をすっぽり覆うぐらいになっていった。
私は怖くなり、ぎゅっと右手を閉じた。
それと同時に、差し込んでいた光も、弱くなっていく。
ゆっくりと、ゆっくりと、か弱い光へと・・・。
「待って!」
「大丈夫?」
心配そうな顔をしている母が、私の顔を覗き込んでいた。
家に帰り、泣いていたら、いつの間にか居間のテーブルの上でうたた寝をしてしまったようだ。
そこに、仕事から帰宅したままの母が、寝ている私を見つけたのだろう。
よほどうなされていたのか、こんなに不安そうな顔をする母を見たのは初めてだった。
心臓が走った直後の様に鼓動を打っているのを感じる。
冷たい汗が、背中の上に細い道筋を作る。
「うなされていたみたいだけど・・・」
母が私の頭に右手を乗せて、くしゃくしゃ、と掻く。
その仕草に、計り知れない安堵が沸く。
「うん。大丈夫」
懸命の笑顔に、母は安心したのか、手に持っていた鞄をテーブルの上に置いた。
「良かった」
そう言うと、母は夕食の用意のために台所へと向かった。
私は恐る恐る右手を開けてみる。
そこには無数の汗の粒が浮かび上がっていた。
履いているジーンズに手をこすりながら、カーテンを閉めにいく。
外からはチリーン、チリーン、と鈴虫の鳴き声が聞こえた。
短い夏が、もう終わりを告げようとしていた。
「由理」
背後から母の声が聞こえる。私の答えを待たずに、母は続けた。
「辛い事があるなら、お母さん、いつでも力になるから」
母の方を振り向いた。母は相変わらず、夕飯の支度をしている。
その背中が、いつもより広く感じられた。
「・・・お母さん」
私は母に近づき、背中をぎゅっと抱きしめた。
久しぶりに感じる母の温もりは、誰よりも強く、暖かかった。
「ありがとう。でも、大丈夫だよ」
母も私も、後は何も言わない。
ただゆっくりと、時間だけが過ぎていった。
さっき見た夢を思い出す。
何故、光は完全に消えなかったのだろう。
その答えが、少し分かったような気がした。