第2話
その日も私はいつものように学校に行った。
夏休みに入る前日だったため、学校は午前中だけだった。
相変わらずクラスメイトからのオコトバはあったが、
いつもより早く学校から帰ることが出来て、心もいつもより軽やかだった。
真っ先に教室から走り出し、校門を駆け抜ける。
校門から出れば、私は自由の身。誰からもけなされることもない。
否定されることもない。完全な自由を手に入れられる。
今日はそれがいつもより早い。足かせを外された小鳥のように、
学校という監獄からの脱走路を飛ぶように走る。
走って走って、気がつけば私は隣町に来ていた。
あまり出かけることがないので、隣町のことは良く分からない。
隣町も、私の住んでいる町も、発展状況は同じくらいで、
寂れかけた町に、無意味に抵抗しているように見えた。
適当にぶらぶら町を彷徨っていると、公園に突き当たった。
昼下がりだからだろうか、誰もおらず、聞こえるのは波の音だった。
公園の先には砂浜があり、何人かの人が海水浴を楽しんでいるようだ。
私はブランコに砂浜と向かい合わせに座り、軽くこぎ始めた。
潮の香りをのせた風が、私の長い髪と戯れ始める。
爽やかに響き渡る波音に、そっと目を閉じ、耳を澄ませた。
ここ最近、感じたことのない安らかな気持ちが、体中に染み渡り始める。
その時だった。
「ねえ」
私は直ぐに現実に引き戻された。
心臓が急スピードで駆け上がる。
一瞬で体中の血が凍りついていく音が聞こえた。
恐る恐る目を開け、声の方に向けると、
ブランコの隣には一人の背の高い青年が立っていた。
年は同い年くらいだろう。右手には白い杖を握っている。
「君、ここ初めて?」
突然の質問に戸惑い、私はブランコを立った。
そうすると彼はすまなそうな顔をしてこう言った。
「いや、別にどいて欲しいとか、そういうわけじゃないんだ。
ただ、見かけない人だから、つい・・・」
彼は杖を左右に振りながら、隣のブランコに座った。
「一緒にブランコをこぎませんか」
それが彼との出逢いだった。
それから、私たちは一言も喋らず、ただひたすらゆっくりとブランコをこいだ。
はたから見れば、高校生の男女が、何も言わずにブランコをこぐ、
というおかしな情景に映っただろう。そんな奇妙な時間を、彼が言葉で破った。
「どこからいらしたのですか?」
丁寧な言葉使いでの質問に、私は少し嬉しかったのか、
他人からの、それも今逢ったばかりの人の質問に、答えてしまった。
「隣町から・・・」
ぼそりと呟く。久しぶりの、母親以外の人との会話だった。
急発進した心臓が、まだスピードを落とせないでいる。
「そうなんですか・・・。何か用事でもおありで?」
私は黙ってしまった。イジメからの一時の開放が嬉しくて、
ついここまで来てしまったんです、そんなことは言えない。
適当な嘘も思いつかない。普段人と話してないからだ。
「あ、答えたくなかったら答えなくて結構ですよ。ごめんなさい。」
彼は再びすまなさそうな顔をした。私は慌てて思いっきり首を横に2,3度振った。
「いえ、あの、その・・・。私、喋るのが得意じゃなくて、あの、だから・・・。」
口こもった様子の私に、彼は微笑んだ。
私は彼の横顔をちらりと見た。
澄んだ瞳に、端正な面持ちをしていることが、一目で分かった。
ふいに彼は持っていた白い杖でブランコを止め、立ち上がった。
「ブランコを、止めてもらえるかな」
言われた通りにすると、彼は私の前に立ち、杖を左手に持ち替え、右手を差し出してきた。
「僕は山田耕志っていいます。高校3年生です。よろしく」
そう言うと、彼は持っていた杖で、地面に「耕志」と書いた。
いつもの私なら、走って逃げてしまったに違いない。
しかし、何故かその日だけは違った。
これから1ヶ月の間、自由の身であることがさせたのか、
私も立ち上がり、彼の手を握った。
「原由理っていいます・・・。私も、高3」
私たちの間を駆け抜ける潮風に、少しくすぐったさを感じる。
「もうこれで僕たちは友達だね」
嬉しそうに言う彼のその言葉に、私は違和感を覚えた。
トモダチ・・・?握手しただけで私たちは友達なの?
ふざけてる。それだったら私はとっくにこんな状況から抜け出している。
今までの心地よさが、一気に怒りへと変わった。
私は彼の手を放し、公園の出口へと向かおうとする。
「待って!」
彼が私を追いかけようとした。
すると彼は小石につまずき、転んでしまったのだ。私は急いで彼の元に走り寄った。
「大丈夫ですか・・・?」
彼は苦痛と笑顔の入り混じった顔を私に向ける。
「あはは。これぐらいヘーキ」
そう言うと、彼は突然よつんばになり、両手を地面に這わせ始めた。
「ごめん。ちょっと僕の持っていた白い杖、探してくれないかな?」
私は彼の傍に倒れていた白い杖を手にとり、彼に渡した。
彼はそれをもつと、立ち上がり、ジーパンの土をはたいた。
「ごめんなさい・・・。私・・・」
「ううん。僕がいけないんだから。目が見えないのに走ろうとしちゃって。
それに何か気に障るようなこと言っちゃったみたいだね。こっちこそごめん。」
彼の綺麗な瞳に、笑いがともる。
「あの、高田さんって、目が・・・」
何と言って良いのか分からず、再び口こもってしまった。
彼は相変わらず微笑んでいる。
「そう。僕は目が見えないんだよ。杖持ってないと、そう見えないらしいんだけど」
私に向けられる視線が、凄く暖かい。
「それじゃあ、さっき、何で私に初めてって・・・」
「あぁ、それはね」
えへん、と咳払いをして、彼は続けた。
「僕は、目は見えないけど、心の眼は良く見えてね、それで人の色が分かるんだよ」
彼の声から、それはふざけている様に聞こえなかった。
「人にはその人の色があって、皆それぞれ違うんだ。僕はそれを心の目で見る。
君の色はここで逢った人たちの物ではなかった。だからそう聞いたんだよ」
「色・・・?」
人の色を見る、分かりそうで分からない彼の言葉に、私は首をかしげた。
「そう、色。君しか持っていない色」
彼の口が、ふっと笑みを浮かべた。その仕草に、私の肩が跳ね上がる。
「そろそろ帰らないと、家に着く頃には暗くなっちゃうよ」
気がつけば時計はすでに5時を回っていた。
「あ、それじゃあ・・・」
私が彼に背を向けると、後ろから彼の口から流れ出す、優しい声が追いかけてきた。
「また、会おう。僕は毎日ここにいる。気が向いたらで良いから、またおいで」
私は振り向いて彼を見た。先ほどからの微笑を絶やさず、
私に手を振っている。私は背中に暖かなくすぐったさを覚えながら、
公園を出て行った。