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旧校舎のみそぎくん!  作者: セヌー
立ち入り禁止の旧校舎
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立ち入り禁止の旧校舎~後編~

しかし、泥の深淵から伝わってくるのは、想像を絶する重圧だった。ただの肉体的な重さではない。彼女たちがこれまで吐き出してきた悪意、そしてこの暗闇で味わったであろう底知れない絶望が、腕を通じて私の脳へ直接流れ込んでくる。


 怪物の表面にある無数の口が、剥がされるのを拒むように一斉に叫び声を上げた。


『痛い、痛い、離してよ!』

『どうせあんたも、私たちが死ねばいいと思ってるんでしょ!』


 私の声、上野さんの声、田中さんの声が、泥の中で激しく混ざり合い、耳をつんざく不協和音となる。


 そして、怪物の体から無数の触手が飛び出し、救出者である私の体を、この泥の一部にしようと襲い掛かってきた。


「――っ!」


 恐怖で手を離しそうになったその時、胸元で暖かな光が爆発した。


 その光の根源は、母の御守りだった。


 ボロボロの布地から溢れ出したその光は、泥に侵食されかけていた私の意識を繋ぎ止め、迫りくる黒い触手を激しく弾き飛ばす。まるで、お母さんが私の背中を支えてくれているような、強くて優しい温もり。


「今だ!」


 少年の鋭い声が響く。御守りの光に怯んだ怪物の勢いが僅かに緩んだ隙に、私は渾身の力で二人を肉塊から引き剥がした。


 ズブ、ズブブッ……!


 重い泥の抵抗を断ち切り、二人の手のぬくもりが両手に残る。

 放り出された上野さんと田中さんは、もはや言葉を発する気力もなく、床に転がってその身をけいれんさせていた。彼女たちの体表にはまだ怪物の粘液がこびりついていたが、その瞳には現世の光が微かに戻り始めている。


 少年は、二人が怪物の身体から完全に抜け出したのを確認した瞬間、懐から一枚の御札を取り出した。それは、彼の白すぎる指先で挟まれると、突如として禍々しいほどに清浄な光を放ち始めた。


「……六道を巡り、穢れを治めん。――封」


 彼が短く呟いた瞬間、御札は巨大な怪物の中心へと吸い込まれていく。影の鎖に縛られたままの肉塊は、悲鳴を上げる間もなく、まるでもとから存在しなかったかのように御札という一点の『虚無』へと収束していった。


 静寂が戻った教室に、ただのカビ臭い空気だけが漂う。

 少年は、まるで道端の石ころでも見るような、冷たい視線を倒れ込んでいる二人にやったあと、再び私に淡々と告げた。


「……もう、大丈夫。君は二人を連れて、ここから出るといい」


 彼はそう言い残し、背を向けて教室を後にした。


「あ、待って……!」


 慌てて私が彼を追って廊下へ飛び出したとき、すでにそこは元の古い朽ち果てただけの廊下に戻っていた。どこまで見渡しても、あの銀髪の少年の姿はない。ただ、窓の外から差し込む、消えかけた西日の残照だけが、煤けた床を橙色に染めていた。


 呆然と立ち尽くす私の背後で、弱々しい咳き込みが聞こえた。


「……う、ん……。ここ、どこ……?」


 上野さんと田中さんが、泥の中から這い出したような顔で身を震わせていた。二人は状況が飲み込めない様子で辺りを見回していたが、私の姿と、ボロボロになった制服、そして血が滲むほどに震える手を見て、何が起きたのかを察したようだった。


「佐々木、さん……?」


 上野さんの声が震えていた。いつも私を嘲笑っていた傲慢さは霧散し、その瞳には底知れない恐怖と、それ以上の深い動揺が浮かんでいる。


「私たち、助かったの……? あんたが……あんたが、助けてくれたの……?」


 私が何も言わず、ただ小さく頷くと、上野さんは顔を覆い、その場に泣き崩れた。


「ごめん……。ごめんなさい、本当に……っ! 私、どうかしてた……!」


 隣で田中さんも、力なく頭を下げ、言葉にならない嗚咽を漏らしている。

 その謝罪が、これまでの一ヶ月間の苦しみをすべて帳消しにするとは思えなかった。けれど、彼女たちの震える肩を見ていると、私の胸の奥に澱んでいた何かが、少しだけ温かい涙となって溶け出していくような気がした。


 ふと見ると、胸元の御守りは、中身が飛び出すほど無残に張り裂けてしまっていた。その破れた布地を優しく握りしめる。


(お母さん。守ってくれたんだね。……ありがとう。)


 私は、まだ足元のおぼつかない二人の体を支えながら、ゆっくりと歩き出した。

 一段ずつ、今度は確かな足取りで階段を下りる。


 旧校舎の外へ出ると、世界は燃えるような夕焼けに包まれていた。

 「地獄」を通り抜けた先にあったのは、残酷なほどに美しい、日常の光。


 私は二人の震える温もりを感じながら、父が待つ家へと、私たちの生きるべき道へと、一歩ずつ帰っていった。






 人気のない旧校舎の三階。


 少年――(みそぎ)は、一枚の御札を手に、壁にもたれかかっていた。


 御札は、彼の掌の中で、まるで呼吸しているかのように微かに脈打っている。


「……もっと集めないと。」


 禊は、気だるげな瞳で御札を見つめると、傍らに置いていた学生鞄を引き寄せた。


 それは、硬い革で作られた独特の光沢を放つ、誰もが良く知るスクールバックだった。使い込まれているはずなのに傷一つなく、無機質なその質感は、どこか現実味を欠いている。


 彼が指先で留め具を外すと、カチリ、と硬質な音が静かな教室に響く。


 開かれたスクールバックの中には、教科書もノートも入っていない。そこには、光を一切反射しない『底なしの闇』だけが、どろりと横たわっていた。


 禊は、脈打つ御札をその闇の中へと無造作に放り込んだ。


 グチャリ。


 スクールバックの奥から、粘り気のある何かが蠢く音と、骨を噛み砕くような鈍い音が響く。


 彼が再び留め具を閉めると、それは何事もなかったかのように、また元の「硬く静かなスクールバック」に戻った。それは、今しがた封じた怪物を、その内側で静かに「喰らい尽くして」いるかのようだった。


 禊はスクールバックを手に持ち、静かに旧校舎を後にする。


 彼の足元から伸びる影は、西日を浴びて、どこまでも長く、そして不自然な形に歪んでいた。

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