立ち入り禁止の旧校舎~中編②~
膝をついた私の目の前、暗闇の中に佇んでいたのは、一人の少年だった。
どこか現実味のない、透き通るような銀色の髪が、光の届かないはずの廊下で微かに発光しているように見えた。着崩した制服の隙間から覗く肌は、病的なまでに白く、まるで血管の一本も通っていない陶器のようだ。
何より異様だったのは、その瞳だ。私の方を見ているはずなのに、その銀色の双眸は私の体を通り抜け、ずっと遠くの虚無を見つめているかのように焦点が合っていない。彼がそこに立っているだけで、あんなに私を追い詰めていた天井の影が、まるで意思を失ったかのように床へと力なく滑り落ち、ただの染みへと戻っていった。
彼が吐き出す息は白く、周囲の温度が急激に下がっていくのがわかる。
「……あ、あの……。」
助けを求めて声をかけようとした、その時だった。
「ひっ、ぎゃあああああああああああッ!!」
鼓膜を突き破らんばかりの悲鳴が、背後の廊下に響き渡った。
上野さんか、田中さんか。それは肉を裂かれ、魂を削り取られるような、正気とは思えない断末魔だった。単なる叫びではない。何かに喉を詰められ、言葉にならない絶望が、湿った音を立てて溢れ出している。
「っ……!?」
反射的に振り返ろうとした私の視界を、少年の体が遮った。彼は、表情一つ変えないまま、淡々とした温度のない声で私に問いかけた。
「……助ける? それとも、外に逃げる?」
その声には、思いやりも、急かすような焦燥もなかった。ただ、事務的な選択肢を提示されているような、底知れない冷たさ。
「あっちには、もうすぐ死ぬ人間が二人。ここを真っ直ぐ行けば、君一人なら外に出られる。……決めるのは、君自身だ。」
死ぬ。
その言葉が、私の頭の中で激しく反芻される。
あんなにいじめられて、机に呪詛を書かれて、死ねばいいと一度も思ったことないなんて言えない。けれど、いざ目の前で誰かの命が失われようとしている事実に、私の指先はガタガタと震えた。
「……死ぬなんて、間違ってる。」
震える膝を叩き、私は無理やり立ち上がった。
父が教えてくれた「正しさ」。母の形見が教えてくれた、誰かを大切に想う心の温かさ。それらが、私の胸の奥で燻っていた僅かな勇気に火を灯した。ここで逃げれば、私はあの上野さんたちと同じ、誰かの不幸を傍観する『執行人』になってしまう。
「助けたい……。二人を、助けに行きたいです!」
少年は、相変わらず焦点の合わない瞳で私を『観て』いた。やがて、彼は満足したわけでも失望したわけでもなく、ただ現象を受け入れるように小さく頷いた。
「……わかった。なら、ついてきて。君がそう望むなら、それは君にとっての『救済』になるかもしれない。」
彼が背を向けた瞬間、足元の影がぐにゃりと歪み、彼を案内するように闇の奥へと伸びていく。
彼を追い、辿り着いたのは、ある教室の前。扉の隙間から溢れ出していたのは、この世のものとは思えない「汚泥」のような気配だった。鼻を突くのは、腐った下水と、古びた教科書の紙が混ざり合ったような、吐き気を催す悪臭。
そっと中を覗き込んだ私は、あまりの光景に息を呑んだ。
教室の机はすべて壁際に押しやられ、中央には、無数の「口」が表面を埋め尽くす、巨大な黒い影のような怪物が鎮座していた。不定形の体は蠢くたびに形を変え、その内部には、上野さんと田中さんの体が、まるで泥に呑み込まれるようにして取り込まれていた。
「た、たすけて……!」「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
怪物の表面にある無数の口が一斉に動いた。それは、間違いなく上野さんと田中さんの声だった。けれど、その響きは空洞を伝ってくるように虚ろで、まるで再生装置から流れる記録音のように感情が削ぎ落とされている。
「……あれは『言葉の澱』。君たちの教室に溜まった、吐き出された悪意の残滓だ。形を持たない『穢れ』が、この場所の湿気に触れて肉を持った。」
少年は、怪物の前で立ち止まったまま、私に告げた。
「注文がある。僕があれを抑える。その隙に、君が中に入って、二人を引き剥がして。……あの身の中に手を突っ込めば、まだ間に合う。」
怪物の表面に並ぶ、鋭い歯が生えた無数の口が、カチカチと音を立てて獲物を待っている。その中に自ら手を突っ込む。
想像するだけで気が狂いそうな恐怖が私を襲ったが、少年はただ静かに、私の返答を待っていた。
(……やるしかないんだ。それが、私の『禊』なんだから)
私は震える手で鞄の奥の御守りを握りしめ、頷いた。
その瞬間、少年の背後から、墨を流したような濃い影が、まるで巨大な蛇のように廊下を這い出した。影は少年の意思を反映するように幾重にも枝分かれし、瞬く間に漆黒の『鎖』へと姿を変えていく。
ジャラッ……!
冷たい鉄が擦れ合うような音が静寂を切り裂く。少年が指先を僅かに動かすと、その影の鎖は猛烈な勢いで教室の中へ飛び込み、のたうつ怪物を雁字搦めに縛り上げた。
『――ッ!?』
怪物の表面にある無数の口が、一斉に音のない悲鳴を上げる。鎖が食い込むたびに、怪物の体からドス黒い飛沫が散り、その蠢きが物理的に封じられていく。鎖の一端は教室の床や天井に深く突き刺さり、怪物をこの空間に完全に固定した。
「抑えている。……今だ。」
意を決して、泥のようにどろどろとした怪物の体表に、両手を突き入れる。
「ひ、っ……!」
熱い。吐き気がするほど生温かく、粘り気のある感触が肘までを一瞬で飲み込んだ。
その瞬間、私の頭の中に、数千、数万もの「声」が直接流れ込んできた。
『優等生のくせに』
『偉そうに』
『早く消えろ』
『見てるだけでイライラする』
それは、この一ヶ月間、私が教室で浴びせられ続けてきた悪意の濁流だった。耳を塞いでも無駄だ。泥を通じて、言葉が直接血管を巡り、脳を汚していく。
『……死ねばいいのに。あんな奴、消えちゃえばいいのに。』
私のすぐ耳元で、最も鋭い声がした。
私の声だ。
私の目の前に現れた怪物の口が、私の声で、私が心の中に押し殺していた醜い恨み言を完璧に模倣して叫び始めたのだ。
『どうして私だけこんな目に遭うの? お父さんなんて大嫌い!お母さん、どうして死んじゃったの……! こんな世界、全部壊れちゃえばいい!!』
「あ、あああ……っ!!」
自分の声に、自分自身の絶望を突きつけられる恐怖。
それは私の本音だったのかもしれない。父を気遣う一方で、その献身を重荷に感じ、亡くなった母を恨み、自分を貶めるクラスメイト全員の死を願う。そんな醜悪な自分が、泥の中から鏡のように私を嘲笑っている。
「それは、ただの『地獄』だよ。そこを乗り越えて、道は廻るんだ。」
少年の声が、濁流の中に投げ込まれた一本の細い糸のように響いた。
「……今だ。一番奥に、彼女たちがいる。君の信念が、まだそこに残っているなら、彼女たちの手を掴めるはずだ。」
私は自分の声で叫び続ける怪物の体内へ、さらに深く、肩まで腕を沈めた。
指先が、冷たくなった「手」に触れる。
「帰るの……! 二人を連れて、絶対に帰るんだから!」
私は自分の声を盗む化け物の口を無視して、全力でその手を引き寄せた。




