立ち入り禁止の旧校舎~中編①~
一歩足を踏み入れた瞬間、肌を刺すような冷気に身震いした。
外はあんなに西日が眩しかったはずなのに、旧校舎の中は煤けた灰色に支配されている。舞い上がる埃が光の筋に浮かび、カビと腐った木材の匂いが鼻を突いた。
かつては生徒たちの活気に満ちていたはずの廊下は、今や湿った沈黙に沈んでいる。一歩進むごとに、「ギ、ギィ……」という床板の悲鳴が、まるで拒絶の言葉のように足元から伝わってきた。
私は壁際に手をやり、崩れかかった漆喰の壁を支えに慎重に進む。手すりはすでに原型を留めないほどに腐食しており、指先で触れるだけでボロボロと茶褐色の破片が剥がれ落ちた。
【空気が重い】。
ただの埃ではない、何か粘り気のある湿り気が肺の奥に張り付くようで、呼吸をするたびに喉がヒリつく。
(……これも、私に課された『罰』の一部なのかな)
ふと、そんな自嘲的な思いが頭をよぎる。
告白を断った罪、父に嘘をつき続ける罪、そして、母の形見を失おうとしている罪。それらすべてを洗い流すための『禊』の場所として、私はこの地獄に招かれたのではないか。そんな幻想が、カビの匂いとともに脳内を侵食していく。
風が窓を叩いた。
「カタカタ、ガタガタ……」。
不規則な振動が、一瞬、上野さんたちの嘲笑う声に聞こえて心臓が跳ねる。幻聴だと分かっていても、背後の闇から誰かに見つめられているような、気味の悪い視線が背筋を這い上がってくる。
一刻も早く、ここを離れたい。
焦りが足元への注意を散漫にさせた。その時だった。
「あっ……!」
バリッ、という乾いた破壊音。
右足が接地した瞬間、足裏から伝わるはずの硬い感触が消失した。底が抜けたのだ。心臓が浮き上がるような浮遊感の直後、私の右足は膝のあたりまで無残に床板を貫いた。
「っ……いた、い……っ。」
鋭い痛みが走る。腐った木材の破片が制服のスカートを裂き、剥き出しの肌を抉った。
慌てて引き抜こうとするが、床下から伸びる無数のささくれが棘のように食い込み、容易には離してくれない。まるで、校舎そのものが生きた獣となって、私の足を貪り食おうとしているかのようだった。
床下から漂ってくるのは、さらに深い闇の匂い。そこには、数十年分の湿気と悪霊の息遣いが溜まっている気がした。
恐怖で涙が滲む。ここで動けなくなれば、誰にも気づかれず、私はこのまま朽ち果てていく。それこそが、私という異物にふさわしい【審判】なのではと考えてしまう。
「嫌……お母さん……っ!」
私はなりふり構わず、血の滲む足を引き上げた。木材が軋み、肉が削れる感触に歯を食いしばりながら、必死に足を「地獄」から引き抜く。
ようやく抜けた足は、汚れた埃と血に塗れていた。
「三階にいかなきゃ……。」
震える膝を抱え、一段ずつ、一段ずつ階段を登る。
一段ごとに「ギシリ」と鳴る音は、もはや警告ではなく、私をさらに深い迷宮へ誘う足音のようだった。
「マジで行ったよ、あの優等生様。あんなボロ布一つのために。そんなにだいじかね。あんなのが。」
上野はそう吐き捨てる。上野は笑いながらスマホのカメラを旧校舎の暗い入り口に向けていた。彼女にとって、この行為は断罪という名の『娯楽』の延長に過ぎない。自分たちの気に食わない存在を追い詰め、その怯える姿を記録する。それは彼女にとって、放課後のカフェに寄るのと同じくらい、罪悪感のない日常のひとコマだった。
「ねえ、本当にいいの? 立ち入り禁止でしょ、ここ。」
田中が少しだけ不安そうに、古びた木造校舎を見上げる。しかし、その瞳には、恐怖のだけでなく、少しの好奇心が滲んでいた。
「本気で信じてんの?あんな噂。」
上野は、あきれたように、田中に視線を向けた。
「いいじゃん、どうせ噂なんてあてにならないし。それよりさ、中で埃まみれになって、腰抜かして泣いてるあいつの顔、絶対傑作だよ。動画に撮ってクラスのグループに流そうよ。それが、あいつに相応しい『公開処刑』でしょ?」
「あはは、サイテー! でも見たいかも!」
二人は、自分たちが放り投げたものが、一人の少女にとって「命」にも等しい依代であったことなど、一ミリも理解していない。
「よし、行こう。泣き顔も収めてやんなきゃ。」
上野が先頭に立って、重い木の扉をこれ見よがしに大きく開けた。
西日に照らされた彼女たちの影が、暗い廊下の奥へと長く伸びる。その場所が【熊穴】であることも知らずに。
三階の突き当たり。教室のプレートが斜めに傾き、辛うじて『3-B』と読める場所まで辿り着いた。半分外れかけた引き戸を押し開けると、乾燥した木材が擦れ合う悲鳴が、誰もいない教室に響き渡った。
埃が雪のように降り積もった教室内は、時間が止まったかのような静寂に満ちている。私は這いずるようにして、窓際の席へと向かった。
視界の隅、無造作に放り出された机の脚元に、それはあった。
「あった……!」
私は膝をつき、必死に手を伸ばしてその御守りを取り上げた。
指先に伝わる、馴染み深い毛羽立った布の感触。土埃を被り、少し黒ずんでしまったけれど、間違いなくお母さんの形見だ。私はそれを、壊れ物を扱うように両手で包み込み、胸元に強く押し当てた。
不思議と、血の滲む右足の痛みも、肺を刺すカビの匂いも、一瞬だけ遠のいた気がした。これさえあれば、私はまだ大丈夫だ。私はまだ、お父さんの「自慢の娘」として、この『刑期』を全うできる。
その時だった。
「あはは! 見てよここ、マジでボロすぎ!」
「ちょっと、上野待ってよ。動画、ちゃんと撮れてる?」
階下から、場違いに明るい、聞き慣れた声が聞こえてきた。
本来なら、その声は私にとって最も忌むべき『執行人』の宣告であるはずだった。けれど、この底知れない静寂と闇に支配された旧校舎の中では、その悪意に満ちた声ですら、現世に繋がる唯一の命綱のように感じられた。
彼女たちが来れば、ここはただの「古い校舎」に戻る。私は彼女たちのカメラの前で惨めな姿を晒し、また新しい『私刑』を受けることになるだろう。けれど、独りでこの闇に溶けてしまうよりは、ずっとマシだ。
「上野、さん……?」
私は掠れた声で、彼女たちの名を呼ぼうとした。
しかし、唇が震えて言葉にならない。なぜなら、聞こえてくる彼女たちの声がおかしいことを、直感が告げていたからだ。
さっきまで階下にあったはずの声が、次の瞬間には、まるで隣の教室から響いているように近く聞こえる。かと思えば、直後には、遥か遠くの奈落の底から反響しているかのように、こもって聞こえる。
「あはは……あはははは……っ!」
笑い声が、お風呂場で反響するように異様に長く伸び、歪んでいく。
「ズズ、ズズ……」という引き戸を開ける音が、何十回も、何百回も重なり合って、校舎全体を揺らしているような錯覚に陥る。
おかしい。彼女たちはまだ一階にいたはずだ。それなのに、どうしてこんなに近くで、こんなにたくさんの「声」が聞こえるの?
私は震える手で御守りを鞄に押し込み、逃げるように教室を飛び出した。
「上野さん! 田中さん!」
私は必死に、来た道を、階段のあるはずの方角を振り返って叫んだ。
しかし、そこに階段はなかった。
「……え?」
数分前に自分が登ってきたはずの場所には、代わりに、左右に等間隔で扉が並ぶ『終わりのない廊下』が、闇の奥へとどこまでも伸びていた。
現実にはあり得ない距離。校舎の端から端までなんて優に超えているはずなのに、廊下は定規で引いたように真っ直ぐ、深い、深い虚無の先へと続いている。
叫んだ私の声は、その異様な空間を滑るように進み、数拍置いてから返ってきた。
『上野さん……田中さん……』
それは私の声であって、私の声ではなかった。
感情をすべて濾過し、ただ『音』だけを抽出したような無機質な山彦が、廊下の奥から幾重にも重なって、波のように押し寄せてくる。
窓の外を覗こうとしても、硝子はコールタールを塗ったように真っ黒に染まり、外の西日も校庭の景色も一切映し出さない。ただ、青ざめ、目を見開いた自分の顔だけが、死人のように浮かび上がっている。
「いや……嘘、だ……っ。」
背後から、「ペチャリ、ペチャリ」という、濡れた何かが這いずるような音が聞こえた。
心臓が早鐘を打ち、全身の毛穴が収縮する。
逃げなきゃ。そう思って一歩踏み出した瞬間、窓から差し込むはずのない『光』が、私の影を床に落とした。
その影が、おかしかった。
私の動きを完全に無視して、影はまるで意思を持つ独立した生き物のように、ずるりと床を這い、壁を伝って天井へと這い上がっていく。それは不自然に長く、細く伸び続け、まるで天井から私を吊るし上げようとする黒い鎖のように見えた。
「いやああああああっ!」
恐怖に喉が引き攣り、私は無我夢中で、出口のない廊下を走り出した。
右足の傷が疼き、破れたストッキングから血が滲む。けれど、その痛みすらもう感じなかった。
走っても、走っても、景色は変わらない。
『3-B』、『3-B』、『3-B』。
追い抜いていく教室のプレートはすべて同じ番号で、まるで時間がループしているのか、あるいは私が同じ場所を円を描いて走らされているのかさえ分からない。
肺が焼け、喉の奥から鉄の味がする。
「た、助けて! 誰か! お父さん……!」
叫んでも、返ってくるのは自分の絶望をコピーした声だけ。
ここは、学校という名の形をした【巨大な胃袋】だ。私は、この校舎という怪物が飲み込んだ、消化されるだけの供物。
視界が涙と汗で歪む。限界だった。
過呼吸気味の酸素不足で脳が痺れ、足の感覚が消える。
もつれた足先が何もない空間を蹴り、私は盛大に、冷たい板張りの床へと転倒した。
「い、たい……っ……。」
強打した膝と手のひらの熱さを感じながら、荒い息をついて顔を上げる。
その、私の顔の数メートル先。
暗闇の向こう側、廊下の真ん中に。
月明かりのように青白く、静謐な光を纏った一人の人影が、ぼんやりと立っていた。




