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旧校舎のみそぎくん!  作者: セヌー
立ち入り禁止の旧校舎
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立ち入り禁止の旧校舎~前編~

 放課後の教室を支配する笑い声は、私にとって鋭利な刃物と同じだった。


 それは鼓膜を通り抜け、直接心臓の柔らかい部分をじりじりと削り取っていく。窓から差し込む十月の西日は、不自然なほどオレンジ色が濃く、机の上に広げた教科書の白さを、目に刺さるほど強調していた。


 私はただじっと、手元のノートを見つめているふりをする。視界の端で、クラスメイトたちが部活動や遊びの約束に興じているのが見える。その輪の中に、私の居場所はない。


 一ヶ月前、ある男子生徒からの告白を断った。ただそれだけのことが、この狭い檻の中では『傲慢な優等生の振る舞い』として『断罪』の対象となった。


 教室という名の法廷において、私は反論の機会すら与えられないまま、有罪の判決を下されたのだ。


 それ以来、私の日常は終わりのない『刑罰』へと変わった。


 登校すれば、私の机には油性マジックで呪詛のような言葉が書き殴られ、昼休みには教科書が隠される。それは彼女たちにとって、秩序を乱した「傲慢な女」への正当な制裁なのだろう。クラスメイトたちは、沈黙という名の傍聴席から、私という生贄がじわじわと削られていく様を、娯楽を享受するかのような眼差しで見守っている。


「……っ」


 私はそっと、鞄の奥底に指を滑らせた。


 指先に触れる、古びて少し毛羽立った布の感触。中学の時に亡くなった母が遺してくれた、唯一の形見である御守りだ。


 彼女たちの視線に晒されるたび、私は自分に言い聞かせる。これは、私が「私」であり続けるために必要な【みそぎ】なのだと。この不条理な苦痛に耐え抜き、いつか解放されるその日まで、私は心の中で静かに、終わりの見えない【償い】を続けていた。






 磨り減るだけの時間を過ごした『刑務所』から逃げ帰り、玄関の鍵を閉めてようやく、私は肺の底に溜まっていた泥のような溜息を吐き出した。


「ただいま……」


 返ってくるのは、静まり返った家の匂いだ。夕飯の準備が始まる前の、少し冷えた生活の残り香。父が帰るまで、あと2時間。この時間だけが、私が『何者』でもなくて済む、唯一の時間だった。


 私は居間の隅にある母の仏壇の前に座った。線香を上げ、遺影の中の母と目を合わせる。その穏やかな微笑みを見るたびに、心臓が握りつぶされるような痛みが走る。


「お母さん……私、今日も頑張ったよ」


 嘘だった。頑張ったのは、『いじめ』に耐えることではなく、自分を殺して無機物のように振る舞うことだけだ。今日も、一言も誰とも喋らなかった。誰の目も見なかった。ただ、『受罰時間』が過ぎるのを祈るように待っていた。


 台所からは、父が作ってくれた弁当の残り香が微かに漂っている。父は、母が亡くなってからというもの、不器用な手つきで家事のすべてを担ってくれた。仕事で疲れ果て、指先をあかぎれで真っ赤にしながらも、「勉強の邪魔をしたくないから」と、洗濯も掃除もすべて一人でこなしてくれる。


 父の指先があかぎれで赤くなっているのを見るたび、私は自身の【不道徳】に打ちのめされる。


 父の献身的な愛という光を浴びながら、私は学校で、泥のような悪意を全身に浴びている。その事実を隠し続けることは、父に対する裏切りであり、私にとって最も重い【内なる罪】だった。


「……いえないよ。お母さん、私、誰にもいえない……」


 仏壇の前で膝をつき、私は許しを請うように額を床に寄せた。

 父を悲しませるという大罪を犯すくらいなら、教室でどれほど過酷な『私刑』を受けようとも、私は独りでその罰を飲み込もう。それが、この家という聖域を守るために私に課された、唯一の【救済】なのだから。


 膝に落ちた涙が、制服のスカートに黒い染みを作っていく。嗚咽が漏れないよう、両手で顔を覆った。冷たい真実を喉の奥に押し込め、私は一人、仏壇の前で震え続けた。






それからも『刑罰』は当然のように続いた。彼女たちの『断罪』は、もはや遊びの範疇を超えた冷酷な儀式へと昇華されていた。


 私はいつものように、休み時間の喧騒の中で石のように固まっていた。鞄の隅にある御守りに触れる。その指先に伝わる感触だけが、私の心を現世に繋ぎ止めていた。


 この御守りを手放してしまえば、私は本当に独りになってしまう。


「ちょっと、無視すんなよ。優等生様は耳までお高いわけ?」


 ガタン、と机が激しく蹴られる。見上げると、歪んだ笑みを浮かべた上野が私の鞄をひったくっていた。


「あ、返して……!」


 咄嗟に身を乗り出したが、上野は嘲笑うかのように鞄を逆さまにした。


 床に散らばる教科書やペンケース。その最後に、あの御守りが零れ落ちた。


「何これ、ボロッぼろ。お守り? うわ、湿気くさ。あんたにピッタリじゃん」


 上野は御守りをつまみ上げると、それを田中に放り投げた。二人はキャッキャと笑いながら、教室を飛び出していく。私は半ばパニックになりながら、彼女たちの後を追った。


 廊下を駆け抜け、辿り着いたのは校舎の最果て。


 現校舎のコンクリート壁が途切れ、そこからは時代に取り残されたような、黒ずんだ木造の渡り廊下が続いている。


 かつては学び舎だったはずのその場所は、今や巨大な棺桶のように静まり返っている。入り口を塞ぐのは、長年の風雨で毛羽立ち、灰色に変色した重い木製の引き戸だった。


「やめて、それだけは本当に返して!」


「そんなに大事なんだぁ。じゃあ、これなら一生忘れないよね?」


 上野は三階の、今にも枠ごと崩れ落ちそうな旧校舎の窓を見上げると、力一杯、右腕を振り抜いた。


 放物線を描いた御守りは、割れたガラスの隙間を縫うようにして、暗い校舎の奥へと吸い込まれていった。


「あ……」


 声にならなかった。


「じゃあね、二度と帰ってこないように祈っててあげる!」


 二人は、そう言い捨てて、足早にこの場を去っていった。






『立ち入り禁止』

『悪霊が蔓延る場所』

『行方の分からない生徒』


 頭の中に、忌まわしい噂がいくつも蘇る。けれど、私の足は震えながらも、目の前の古びた木の扉へと向かっていた。


 あの中には、お母さんがいる。そして、お父さんとの大切な絆が、無惨に投げ捨てられたのだ。


 私は、節穴だらけの木の扉に手をかけた。


 指先に触れる木肌は、驚くほど冷たく、そして湿っている。力を込めて横に引くと、「ズ、ズズ……」と、砂を噛むような重苦しい音を立てて、扉が僅かに開いた。その隙間から溢れ出してきたのは、古い木材が腐りかけたような、鼻を突く饐えた匂いと、内臓を冷やすような冷気だった。


 足を踏み入れた瞬間に、ギシリ、と床板が悲鳴を上げる。


 暗闇が私の制服を飲み込み、校舎の奥からは、誰かの囁き声のような風の音が聞こえてくる。


「……待ってて、お母さん」


 私は迷わず、その暗闇へと一歩を踏み出した。


 それが、さらなる【罪滅ぼし】の始まりなのか、あるいは本当の救済へと続く道なのかも知らずに。

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